但馬国ねっと風土記

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但馬国ねっとで風土記

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

まえがき

教科書で教えられた稲作や文化は朝鮮半島から伝わったと教えられ、日本は戦争で隣国に迷惑をかけたと思い、誤った自虐史観に陥ってきた。 

今日、GHQによりはじめられた日本は戦争を犯した悪い国という戦後教育の自虐史観の延長で教えられ、刷り込まれてきた。日本史と中国・朝鮮半島の関わりの記述に、多くの疑問を感ずる賢者は、捏造と刷り込まれてきた嘘に気づき始めている。

日本は“和をもって尊しとなす”という思想があるためか、とくに隣国とは友好でありたいと思うのか、日中友好や日韓と仲良くやっていきたいと、事実ではない要求に反論も避けて援助を続けてきた。しかし世界中で「和をもって尊しと成せない国」がすぐ隣にある。中国(支那)・北朝鮮・韓国である。

戦後の経済成長を遂げた日本は中国や韓国・朝鮮という隣国を同じ東アジアの国として近代化の発展を援助してきたが、そのことで感謝するどころか恩を仇で返す理解しがたい国々だ。そして、戦後から80年代まで日本に対して何も言わなかった支那・朝鮮が朝日新聞が始めた南京大虐殺の捏造、韓国の従軍慰安婦捏造という捏造と、旧社会党や日本国内の反日組織によって作られた南京虐殺記念館や韓国の独立記念館の日本軍の残虐な行為という実は自分らが行ってきた残虐な所業を日本にすり替えたものを建て、ますますエスカレートしていくだけである。

なぜ、彼らは繰り返すのか。日本は騒げば騒ぐほど、譲歩して援助してくれるという甘い汁を憶えてしまったからだ。

中国・北朝鮮・韓国とは戦後誕生した70年程度の新しい国家であることが共通する原点である。歴史がないので国をまとめる手段が何もないのだ。だからといって日本がその世界でも最古で稀有な天皇を有する万世一系の歴史ややってもいない事実をでっち上げられ付き合う理由とは何なのだろうかをもう真剣に考えるべき時に来ている。

2017年は、世界にはっきり慰安婦南京大虐殺は捏造だと発信することだ。とくに中国・朝鮮半島とは、譲歩せず突き放すことこそ、日本にとっても中国や朝鮮半島にとっても有益であると転換することが必要である。

日本人の価値観と隣人も同じだという幻想を続けて、相手も折れるどころか、甘い餌を与えるとまずます増長する民族である。

彼らは歴史を史実に基づいて論ずることより、政治的に感情が勝り自らの行いを日本にすり替えて捏造し、戦前からプロパガンダをもって、今日でもいくら言ってもやめようとしない民族とはいかなるものかを知ることこそだ。

メディアを始め大学の歴史が、史実に基づかず自ら調べることもせず、正そうとしない。日本を貶めているのは中国や北朝鮮・韓国に利用される捏造を巻いている日本の新聞、大学、左翼政党がその火元である。

カテゴリー・サブカテゴリーを並べ替えました

記事投稿が増えてくると、カテゴリー分けが増える。

WordPressではかんたんなカテゴリーとその階層にサブカテゴリーをつくる方法は、「はてなブログ」ではまだできないので、いろいろネットで検索すると、

例:親カテゴリー「時代」とすると、記事が増えるとさらに時代別に分けて「縄文」「弥生」…のような子カテゴリーの場合。[時代]-[縄文]のようにハイフン[-]をはさんで、カテゴリー登録の際に、[時代]・[時代]-[縄文]の2カテゴリーに登録するやり方が多いので参考にした。

 

並び替えは、次の記事でかんたんにできます。

staff.hatenablog.com

はてなブログデビュー

はじめまして。

WordPressでいくつかのホームページやブログを持っています。

WordPress大好きなのですが、WordPressは独自のサーバー経由。それ自体はいいのですが、多くのユーザーが利用しているブログサービスには、超有名クラスなら別ですがアクセス数などで勝てないというデメリットもあります。相当有名人なら、何でも関係ないかも知れませんが、そもそもいくつかのブログやショッピングカート、大手ショッピングモール等を経てWordPressに至ったので、運用は続けますが、単にブログとして気楽にコミュニケーションしたい。

はてなブログ」はクールです。

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市養父市豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と美方郡香美町村岡区小代区養父市の鉢伏高原もかつては七美郡)は、山陰と山陽を分ける中国山地の東端にあたる。

現在の新温泉町は、市町村合併で海岸部の浜坂町と山間部の温泉町が合併し新温泉町となった。それは、かつて縄文時代よりももっともっと何万年も前に、朝鮮半島やシナ大陸と比べてももっと古い時代から人は暮らしていたことが分かり始めている。もっと温暖だった。

やがて、日本列島にクニが誕生する過程で、二方国として、但馬国に加えられるまで独立した国だったエリアであり、のち但馬国二方郡となる。とくに冬は豪雪に見舞われる山間地域の旧温泉町と、旧浜坂町の海岸部は日本海リアス式海岸による漁村で、狭い平地を峠道が結ぶ。東隣の香美町村岡区とともに、雪に閉ざされ、冬は灘や全国に出稼ぎとして酒造りに従事する但馬杜氏のメッカで、年々高齢化や酒造業界の変化により減少しているが、その人数は全国四大杜氏といわれるほど多い。また神戸牛、松阪牛などの高級和牛の素牛、但馬牛の産地である。つまり但馬が誇る二大産業を中心的に担ってきたのが但馬西部の山間地なのである。

さて、クニが誕生し、しばらくの間、因幡・但馬とは別になぜ小さな二方国が存在したのだろうか。ここが知りたいから新温泉町に惹かれるのだ。

二方国(のち二方郡、今の新温泉町)は、但馬の他の旧7郡とは異なる成り立ちの歴史を持っている。全国を統一し地方行政区分にした律令国が誕生したのは、奈良時代大化の改新(645)または本格的には大宝律令(701)とされているが、日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。

国司文書・但馬故事記』には、「人皇1代神武天皇5年8月(推定BC656) 若山咋命の子、穂須田大彦名を以て、布多県国造(のち二方と改める)と為す」とあり、奈良時代より1200年遡る弥生時代には二方国をはじめ但馬には国や県が成立していた。そして村に神社が祀られていたのである。ではなぜ、このエリアだけが因幡と但馬ではなく、小さいのに二方国として独立していたのか。それは、人々の往来を阻む幾つもの山々に囲まれていることがその要因であることは、誰もが頷けることである。

主要国道の国道9号線は、京都市堀川五条で国道1号線から分岐し、山口県下関市までを結ぶ旧山陰道であるが、兵庫県区間は70.1 kmと最も短いのに最大の交通の難所であったことは、明治に旧山陰道である山陰本線敷設で最後までこの区間が残っていたことでわかる。兵庫県養父市から鳥取県との県境の新温泉町までは、最長の蒲生トンネル・春来トンネル・但馬トンネルなどいくつもの長いトンネルで結ばれている。

国道を通過していると気づかないのが、神社(村社)を捜すと分るのである。国道から谷やかなり高地に入ると、地元に住んでいてもまったく未踏の高地にたくさんの集落があり、田が広がる世界が目に飛び込んでくることに驚くのである。そこはまたかつての旧山陰道であったものもある。車でもくねくねと細い山道で時間が掛かるのに、昔の人々はもちろん獣道のような山谷を歩いて、山林を切り開き、道を作り、田畑を開いて定住していったことに只々敬意を抱くのである。開拓者(パイオニア)といえばアメリカ大陸を想像するかも知れないが、我々のルーツである人々は、但馬の山間部を並々ならぬ苦労をして切り開き、新天地を夢見た偉大なる開拓者だったのだ。

よくそうした集落は平家の落人集落だといい、香美町余部の御崎や竹野町など、丹後半島にも平家の落人伝承が残る。中にはそういた歴史もあったかもしれないが、しかし、例えば但馬の高地や山間集落において、御崎でも平家の落人による以前から切り開かれていたことは、『国司文書・但馬故事記』の年代を見れば崇神天皇10年(推定BC91)に伊岐佐山(香美町香住区余部の伊岐佐神社)が記されており明らかだ。

新温泉町の神社の特徴

数年前に式内社兵主神社を主に巡ったが、二方郡は式内社が但馬の他の旧7郡と比較して極端に少ない。 気多21、朝来9、養父30、出石23、城崎21、美含12、七美10、二方5(祭神の座数による)『国司文書別記 但馬郷名記抄 解説 吾郷清彦式内社では最下位であるが、ところが式外社では52社、式内社との合計57社と、旧8郡の中で最も多く、神社総数では第三位に上っている。これは国府のある気多郡(今の豊岡市日高町)から遠隔であったためと思われる。吾郷氏は「かつて二方郡が但馬国府より僻遠の地に在り、朝廷に対しあまり功献を示さなかったという事由によるものであろうか。これに対し式外社が圧倒的に多い。したがって郡としては、それだけ神社分布の密度が高いわけである」としている。 お隣の旧七美郡は、式内社8、式外社11(合計19)、美含郡式内社10、式外社30(合計40)であり、つまり、新温泉町(二方郡)の合計57社は、但馬で最も神社の数が多い。神社信仰の深い土地柄だったといえるのである。それは二方国の祖が他の7郡が丹後(当時は但馬・丹後も丹波に含まれた)の天火明命にはじまるのに対し、出雲国の素盞鳴尊が開いたとあることからはじまることからも、出雲国国家連合というべき出雲系の最東端のクニであったのだ。

私が神社を巡る目的は、神社そのもの以外の目的があるからである。その神社の由来を調べることで、その地域の歴史を調べたいからである。神社の外見や建築、鳥居、狛犬、拝殿・本殿など今の様式が造られるようになったのは、そもそもそこにある神社のルーツから言えばだいぶ後のことで、今の神社建築は、せいぜい寺社建築が発達した鎌倉期以降の神社の姿なのである。それとして研究するとして、その神社は何のために建てられたのかは、まったく別の意義があり、本題なのだ。神体山や磐など自然神や祖神・国主・郡主などの古墳のそばに祀られた神どころなのであり、各集落の起こりが見えてくるランドマークが神社なのだ。長い但馬トンネル・春来トンネルや人が定住し村が生まれてそこに氏神が祀られる。100年、1000年で物事を見ては間違う。数千年から何万年前の縄文・弥生時代というと、原始的なイメージを持ってしまうが、クニや村が生まれ、神社の原型である神籬、神場は、すでに村に祀られていたのであり、約2600年もの間、何も変わらず現在も守られてきたことが、日本の歴史を語り継いでいるランドマークなのだ。

新温泉町の『国司文書・但馬故事記』記載の神社

韓國神社と城崎郡司・物部韓国連

但馬には式内社が全国的に見ても5番目と大変多い。大和や伊勢、出雲、近江はわかるが、その次に多いのは不思議である。結論から先に言えば、都(大和)から朝鮮半島へ通じる最短地点であったからだと考えている。式内社や重要な神社は、歴史(郷土史)のランドマークだと益々感じる。よく地元の方々のご尽力により残ってきたと思う。

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半島と関わりのありそうな名前の神社が、豊岡市飯谷はんだにの韓國神社にある。「からくにじんじゃ」と読むが、元々は延喜式に式内物部神社とあるが、俗に韓国神社ともいう。神社の社号標(社標ともいい神社の社号を刻んだ石柱)も韓国神社となっている。由緒を知らないでこの社号を見れば、韓国の神社だから朝鮮渡来人を祀る神社だと思う人もいるだろう。新羅の王子・天日槍とともに、豊岡市加陽かやと旧出石町には、半島にあったクニと似た伽耶かや安羅あらなどに似た加陽かや安良やすらなどの区があり、加陽に大師山古墳群があり、竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶地方にみられ、 引野がかつて 加陽 (カヤ) と呼ばれる地であったことからも、但馬には朝鮮渡来人が住み着いたり、関わりが深いのだと考えられている。

日本海を挟み日本海側と朝鮮半島渤海といわれた今のロシア東南端などが交流があったのは確かだ。しかし、縄文から弥生にかけて、まだ日本や大陸沿岸部も統一した国家だったわけではないので、今日の国家の概念で同一視するのはよくない。縄文時代から海流民族でもあった縄文人モンゴロイド系の一グループで、自由に海流を利用して、太平洋の島々、オーストラリア、ニュージーランド、また日本列島や北方諸島、遠くはアラスカからアメリカ大陸に住み着いていった。そのなかに魏志倭人といわれた人たちは、九州北部や半島南部に文化圏を形成していた。天日槍については記紀には、新羅の王子で帰化したとあり、その他の貴重な史料は『但馬故事記』だ。「天日槍は稲飯命の五世孫なり。小舟に乗り、漂流し新羅に上り、国王となった」と書かれていることは、すでに別記したので、そちらを参照いただき、この韓国神社の謎についてもいろいろ調べてきた結果を記したいと思う。

韓国神社は韓国から渡来した人ではなく、韓国の諸国が朝鮮族の南進によって朝貢ちょうぐしなくなり、大売布命の末裔、物部多遅麻連真鳥が武烈天皇の勅により韓国に遣わされ、平定した功により、物部国連からくにのむらじを賜ったことによる。韓国神社の祭神はその物部韓国連命(真鳥)である。

その子が榛麿で城崎郡司となる。飯谷(古名は墾谷、針谷、榛谷)を住処とし、父物部韓国連名を祀り、物部神社とした(韓国神社とも)。連(むらじ)はヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つである。

榛麿以降、しばらく世襲城崎郡司となった。榛麿の子が神津主(畑上の重浪神社)。その子が久々比(鵠)(久々比神社)。同じく榛麿の子で多遅麻の校尉に格麿がいる。その子が三原麿で城崎郡の大領(城崎郡の軍団大将)を務めた。(鏡神社・豊岡市三原)

格麿は大石宿祢を賜り、以後大石とする。物部韓国連三原麿は大石宿祢と称し、その子大石宿祢正躬まさみ城崎郡司。

物部韓国連の足跡

大売布命(前102-176)
  • 景行天皇三十二年、摂津の川奈辺(川辺郡*1)・気多・黄沼前きぬさきの三県を賜う
  • 味饒田命うましにぎたのみことの弟 彦湯支命の五世孫伊香色男命の子
  • 多遅麻物部氏の祖
物部多遅麻連公武
  • 大売布の子
  • 神功皇后二年、多遅麻国造
  • 府を気立県高田邑に置く
  • 四十五年、新羅朝貢せず。将軍荒田別命・鹿我別命は往きてこれを破る。
物部多遅麻毘古
  • 公武の子
  • 仁徳天皇元年、多遅麻国造
  • 府を日置郷に遷す
物部連多遅麻公(-499)

多遅麻毘古の子

反正天皇三年、多遅麻国造

城崎郡

物部韓国連命(真鳥)

物部韓国連榛麿(564-) 欽明天皇25年 城崎郡司となす。 大売布命の末裔・物部韓国連命の子・城崎郡司 針谷を開き住処となす(今の飯谷)父物部韓国連命を榛谷に祀り、物部神社と云う(また韓国神社とも云う) 式内 物部韓国神社 祭神:物部韓国連命(物部韓国連の祖) 神人みわひと 物部韓国連穀麿かじまろ 豊岡市飯谷250-1

神津主命

推古天皇35年(617) 城崎郡司となす。 榛麿の子 物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

久々比命

天武天皇白凰3年 城崎郡司となす。 神津主の子 神津主命を敷浪丘に葬る。 式内 重浪神社 祭神:物部韓国連神津主命 神人 物部韓国連正世 豊岡市畑上843

文武天皇大宝元年 物部韓国連久々比卒す。 三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(久々比は鵠の和名)

式内 久々比神社 祭神:久々遅命(久々比命の別命) 豊岡市下宮318-2 ※鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。

格麿

校尉物部韓国連格麿 奉行

聖武天皇は、金銅の盧舎那仏を鋳造せんがため、金工・泥工(左官)・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けしめ給う。(東大寺大仏)当国の校尉物部韓国連格麿もまた募に応じ、皇都に上り、而してよく大石を運び、工速やかに成る。天皇これを喜び、天平17年、姓大石宿祢を給う。

榛麿の子

三原麿

城崎郡大領 正八位下 格麿の子

孝謙天皇勝宝元年、物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。

大石宿祢正躬まさみ

城崎郡司。三原麿を葬り、祠をその傍らに建てこれを祀り、これを三原神社と申し祀る。

豊岡市三原 今の鏡神社

また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社を以て式典の例に入る。

大石宿祢正名

(大石宿祢正躬が主帳に命じた神社の格例の神社に、神人みわひとに大石宿祢正名という名があり、兵主神社(赤石)・久々比神社・三原神社・清明森神社の神人を兼務している。正躬と同時に神人に任じられて、特に役職の記載がないので、神官職が主だったのかも知れない。)


*1 摂津国川辺郡  今の川西市の全域・伊丹市尼崎市宝塚市の大部分(武庫川以北)・三田市大阪府豊能町の一部

式内売布神社 宝塚市売布山手町1-1 今の祭神は下照姫神 式内 〃   豊岡市日高町国分寺797 大売布命 式内 女代神社 豊岡市九日市上町460-1 今の祭神は天御中主神 神産巣日神 高皇産霊神 『但馬故事記』 祭神 大売布命(亦名大売代命 物部連の祖、気多・黄沼前県主)

歴史は史実の新発見において語るべきもの

【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。

当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上但馬・但馬の地名、三宅と豊岡市三宅に、天日槍氏集団の全体像を描き出す考察を読んで、天日槍と糸井は関係があるらしいと関心を抱いていた。

糸井は元は養父郡だったが、その養父郡でも端に当たる糸井地区に、佐伎都比古阿流知命神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社と狭いエリアに3つも式内社があるのが不思議なこと、佐伎都比古阿流知神社を天日槍の裔とゆかりのある神社だといわれている。

6年前の2009年に糸井地区の佐伎都比古阿流知神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社等を回ってみた。2013年には奈良県川西町の糸井神社や三宅町但馬に行ってみた。地理や地図好きだったので、中学の頃からなぜ奈良に但馬という集落があるのか記憶にあって不思議に思っていたのだ。田島や田嶋なら分かるけど、国名である但馬というのは普通は読めない。同じ但馬なのはなぜだろうと思っていたのでその頃から行ってみたかった所である。田原本町三宅町・川西町周辺は大和盆地の平野部に田園が広がり、その中に集落が点在する。これといって変化のない同じ景色が続いている。

さて、本稿の「【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主」で宿南氏は、

『川西町史』では、結崎市場垣内の糸井神社の「糸井」は10世紀後半の『和名抄』の城下しきのしも郡には見当たらない。平安時代の延久二年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という二つの荘園があるが、現在の地名に当てはめると、田原本町の東部付近になってしまい、現在の結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。 (中略) 『出石町史』第1巻の「天日槍にまつわる式内社」では、その数14社、うち出石郡9社、気多郡に3社、城崎郡2社である。このほか養父郡糸井村にも確実な1社があるから15社となる。*1 (中略) 但馬には兵主神社が7社もあるといわれているが、その中で「大」が冠せられているのは更杵村兵主神だけである。*2 (中略) 式内社で寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている。*3この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』著者の桜井勉氏である。「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」実のところよくわからないというのが本音といってよかろう。ただし日槍伝承をもつ集団の子孫たちが大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者たちが寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。

本稿で、『川西町史』では「糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。」としているのに、『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」で、「養父郡糸井村にも確実な1社がある」*4として、よく調べもせずに『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」をそのまま引用されているのは腑に落ちないのだ。言うまでもなく『市町村史』の多くは、地元郷土史家の並々ならぬ研究成果も参考に編纂されていて、大いに参考になるものばかりだが、記述の中には誤りや、編者の歴史的事実に基づかない憶測や、その後の発掘や史料等、歴史的事実の発見によって正しくはないものも含まれている。また、その桜井勉氏『校補但馬考』は、「但馬故事記」等を偽書と決めつけたり、その努力は敬意を評しながらも、調べることもせず、誤った記述もあるのである。

[筆者註]

*1 後世に祭神を天日槍の末裔やゆかりの神にかえられたことで、祭神変更は村々の諸事情によるものであり、それ自体は問題ではない。しかし、歴史は事実を探ることである。

まず天日槍系の神社が出石郡9社であるが、出石神社(天日槍)、諸杉神社(日槍の子)、須義神社、中嶋神社、日出神社の5社であり、あとの4社には、比遅神社、多遲摩比泥神、御出石神社とあと1社は不明だが、気多郡に3社、城崎郡2社についても祭神を後世に天日槍の末裔や関係者に変更したものだ。「養父郡糸井村にも確実な1社がある」は*3を参照のこと。

*2 大兵主は他に出石郡 大生部大兵主神社がある。ともに陣法博士・大生部了等が兵庫の側に勧請したもので、糸井だけが特別な兵主神社とはいえない。

*3 「寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている」とあるが、佐伎都比古阿流知命神社は『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』では、養父郡坂本花岡山鎮座。なぜその後糸井に遷座されたか、または勧請されたかは不明である。佐伎都比古命とその子阿流知命は、ともに屋岡県主(養父郡司の前進)である。佐伎都比古命(彦命)は、佐々前県主佐伎津彦命の子。天日槍とはまったく無関係であるが、阿流知命を『古事記』で天日槍の妻となった阿加流比売と混同したのだろう。阿加流比売がいなくなり、多遅摩之俣尾の娘前津耳さきつみを娶ったとあることから、阿流知命を阿加流比売、前津耳神社・前津彦神社と呼ばれていたこともあったようだ。

延喜式式内社で糸井郷に鎮座していた社は、更杵村大兵主神社と桐原神社、楯縫神社3社である。

このような解釈が、数少ない但馬の資料として桜井勉『校補但馬考』に記されているから史実だと思い込んだ但馬が新羅の王子天日槍ら半島渡来人が文化をもたらしたものだという誤解を多くの人々はもちろん、歴史学者においても与えていることを最後に付け加えておきたい。桜井勉は当時として調べたことを記しているが、彼は但馬を兵庫県に組み入れるように進言したり、天気予報創設など偉大な方ではあるが、歴史では専門家ではない。多くの思い込みや私見が入り込んでいるのだ。

但馬が記紀にある新羅の王子天日槍から、大陸や朝鮮半島とのつながりの中で文化的な影響を受けたのは事実であるが、天日槍だけをピンポイントに捕まえて但馬=朝鮮渡来人の文化=大和朝廷という狭い歴史感はもう止めなければならない。その半島南部にあった伽耶なども、同じ倭国人が築いていったクニであって、『但馬故事記』などによると、半島の国家も倭国であり天日槍は皇族の子孫である。新羅が建国されたのは356年で天日槍よりずっと以後である。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には天日槍についてこう記されている。

人皇6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す。

天日槍は鵜草葺不合命の御子。稲飯命五世の孫なり。(中略)海路より紀の国に出でんとし、台風に逢い給う。稲飯命と豊御食沼命とは小舟に乗り、漂流し給い、稲飯命新羅に上り、国王となり、その国にとどまり給う。

つまり「天の」とある通り、天皇ゆかりの一族であるので、新羅王子=新羅人ではない。朝鮮半島南部を稲作や開拓したのは、九州北部と同じ倭人であって、その後新羅が半島を統一するに及び百済伽耶は滅亡した残る倭人もいれば、多くは引き上げざるを得なくなったのではないだろうかと思う。半島南部にある前方後円墳や土器類は、縄文弥生式土器で日本列島と同じものである。

小田井県神社と酒垂神社の関係

城崎郡は、今の豊岡市が誕生する合併以前の、豊岡市城崎町竹野町日高町出石郡出石町但東町であるが、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域を改めて城崎郡が発足(美含郡・気多郡は消滅)した。城崎郡は、古くは小田井県おだいあがたといい、旧豊岡市城崎町にあたる。ここでの城崎郡は、古代から明治29年以前までの城崎郡である。

国司文書 但馬故事記』は、質量ともに他の古典・古伝・古史などに劣らないばかりか、上古から中世までを克明に記された稀な史料。 但馬故事記は郡別に第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡故事記まであり、第四巻が城崎郡故事記である。

小田井県と小田井県神社

国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)には、

天火明命あめのほあかりのみことはこれ(丹後)より西して、谿間たぢまに入り、清明すあかりのみやに駐まり、豊岡原に降り、御田*1を開き、垂桶天物部命たるいのあめのもののべのみことをして、真名井を掘り、御田にそそがしむ。 すなわち其の秋穂八握あきほやつか暴々然しないぬ。故れ其の地を名づけて豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井おだいと云う。のち小田井に改む。 天火明命はまた南して、佐々前原に至り、磐船宮にとどまる。佐久津彦命をして、篠生原をかしめ、御田を開かせ、御井を掘り、水をそそがしむ。後世その地を名づけて、真田稲飯原と云う(今は佐田伊原)。佐久津彦命は佐久宮にいまし、天磐船命は磐船宮にいますなり。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田、磐舩いわふね神社:豊岡市日高町道場) 天火明命は、また天熊人命を夜父(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜父の溪間にき、桑を植え、かいこう。 故れ此の地を名づけて、谿間屋岡原と云う(のち但馬八鹿)。谿間のこれに始まる。 天火明命はこの時、浅間の西奇霊宮に坐す。天磐船命の子、天船山命、供し奉る(式内浅間神社養父市八鹿町浅間)。 (中略) 時に国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと少名彦命すくなひこなのみこと蒼倉魂命うかのみたまのみことは、高志こし国(のち越の国・北陸・新潟)より還り、御出石県(のち出石郡)に入りまし、その地を開き、この地に至り、天火明命を召してのたまわく、 「汝命いましみこと、この国をうしはき知るべし」と。 天火明命、大いに歓びて曰く、 「あな美うるし。永世なり。青雲弥生国なり」と。故れこの地を名づけて弥生やふと云う。(いま夜父) 国作大己貴命は「蒼倉魂命と天熊人命とともに心をともにし、力を合わせ、国作りの御業を補佐たすせよ」と教え給う。 二神は、天火明命に勧めて、比地の原を開かせ、垂桶天物部命に命じて、比地に就かしめ、真名井を掘り、御田を開き、その水を灌がしむ。垂穂の稲の可美うまし稲、秋の野面に狭し。故れこの地を比地の真名井原と云う(比地県はのちの朝来郡)。 天火明命は、御子稲年饒穂命いきしにぎほのみことを小田井県主(のち黄沼前きのさき県・城崎郡)と為し、 稲年饒穂命の子・長饒穂命たけにぎほのみこと美含みぐみ郡故事記には武饒穂命と書す)を美伊県主(のちの美含郡・美伊は美稲の義、また曰く水霊の義)と為し、 佐久津彦命(両槻天物部命なみつきあめのもののべのみことの子)に命じて、佐々前ささくま県主(のちの気多郡・佐々前は献神の義)と為し、 佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて、屋岡県主(のちの養父郡・屋岡は弥生の丘の義、のちの八鹿)、伊佐布魂命に命じて、比地ひち県主(のちの朝来郡)と為す。 (中略) 人皇一代神武天皇三年秋八月、天火明命の子瞻杵磯丹杵穂命いきしにぎほのみこと(稲年饒穂命とも記す)を以て、谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命は父命の旨を奉じ、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみことを豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称え祀り、帆前大前神の子・帆前斎主命を使わして、御食の大前に仕えまつらしむ。 また天照国照彦櫛玉饒速日天火明命州上原すあがりのはらに斎き祀り清明すが宮と申し祀る。(いま杉宮と云う。当初は円山川下流に点在していた中洲のいずれかにあったのだろうか)

*1 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと

小田井県から黄沼前県へ

人皇八代孝元天皇56年夏六月、美々井命の子・小江命を以て、小田井県主と為す。 人皇十代崇神天皇九年秋七月、小江命の子・穴目杵命を黄沼前きぬさき県主と為す。 (この間に小田井県から黄沼前県に改められている) 人皇17代仁徳天皇十年秋八月、海部直命を以て、城崎郡兼海部直と為す。 (この御代には県は郡と改められ、黄沼前県は城崎郡となる)

最初から豊岡だった?!

城崎が豊岡になったのは、一般には次のようにされている。

1580年(天正8)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤の支配となった。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。

しかし、上記の通り、『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)の冒頭から、天火明命は豊岡原と名づけて、のちに小田井と改めていたのだ。宮部継潤は、自分の発案で豊岡と改めたのではなく、寺社の有力者から聞いたり、こうした古文書を読んでのことではなかったろうか。

順番でいうと、豊岡原→小田井→黄沼前→城崎→豊岡

となるので、最初の通りになったとも云える。 『但馬郷名記抄の第五巻・城崎郡郷名記抄』に、

黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔は上は塩津大磯より、下は三島に至る一帯の入江なり。これを黄沼海という。黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島(今の戸島)・三島・小島・小江・渚浦(今の奈佐)・干磯(ひのそ)・打水浦・大渓島(今の湯島)・茂々島(今の桃島)・戸浦など、その中にあり。

他にも宮島がある。『但馬郷名記抄』が記された平安後期(975)には、現在の地形とほぼ同じであったと思うが、これらは地名として残っていたものであろう。

小田井県神社と三江(御贄)

次にこれらの地理的要因による地名以外に、城崎郡には、小田井県神社を中心にした神社信仰による地名がある。それが小田井県神社とは円山川対岸に位置する三江郷である。

『但馬故事記』には、

人皇40代天武天皇白凰三年(663?)夏六月、物部韓国連神津主の子・久々比命を以て、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(豊岡市畑上・式内重浪神社)

この時大旱たいかん*1に依り、雨を小田井県宮に祈り、戎器を神庫に納め、初めて矛立神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時これを行う。

(*1 大旱 大旱魃・大干ばつ)

また、祖先累代の御廟を作り、御幣ごへいを奉り、豊年を祈り、御贄田みにへた神酒所みきとを定め、歳時これを奉る。また海魚の豊獲を海神に祈る。これにより民の飢餓を免れる。(これはあまの神社、今の絹巻神社だろう)

故れ、酒解子神さかとけこのかみ大解子神おおとけこのかみ小解子神こどけこのかみを神酒所に、保食神うけもちのかみを御贄村に斎き祀る。是に於いて各神の鎮坐を定む。

(中略) 酒垂さかたる神社 祭神 酒解子神・大解子神・小解子神 御贄神社(御食津みけつ神社) 祭神 保食神

下ノ宮なら上ノ宮はどこをさすのか

下宮という地名はどこに由来したのであろう。通常神社の上社・下社は同じ祭神である場合は、山中の元社は日常の参拝には不便なため、集落の近くに里宮・下宮が設けられることをいう。例えば富士山を祀る浅間神社の上社は富士山頂だが、下社としては富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社総本宮とされている。久々比神社がある場所が下宮であるから、下宮は久々比神社であることは間違いない。国道312号線で河梨峠で京都府との府県境あるので、上ノ宮は同じ谷あいにあったのだろうか。酒垂神社と御贄神社、或いは久々比神社が祭神も異なり、このような上社(上ノ宮)・下社(下ノ宮)の関係にはないが、小田井県神社の御贄と御神酒を司った場所という意味では、御神酒を司った酒垂神社と久久比神社は、上宮・下宮の関係があったかもしれない。酒垂神社は創建以来、遷座の記録がない。式内酒垂神社がある今の法花寺の古名は神酒所と云った。三江郷の二つの式内社の高低差で考えれば上にある酒垂神社が上ノ宮、低所にある久々比神社を下ノ宮と呼んでいたのかも知れない。

現存せず所在不明であり、三江の古名は御贄で、御贄神社が今の三江には唯一梶原の八幡神社のみだ。当社を下社とすれば、三江村がのちに下ノ宮となった所以と考えられなくもない。現存する式内久々比神社が下宮と思われるわけだが、久々比神社創建はこれより後であるのだ。下ノ宮は古名の御贄田、御贄村、三江村である。久々比神社がのちの時代に別記されている。久々比神社創建以前に御贄神社があったようである。

「人皇42代文武天皇大宝元年(701)、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。 物部韓国連格麿の子・三原麿を以て、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。 佐伯直赤石麿を以て、主政と為し、大初以上を授く。 大蔵宿祢味散鳥を以て、主帳と為し、小初位上を授く。 佐伯直赤石麿はその祖阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申し祀る。(また荒都神社という)」とあるので、『但馬故事記』では他の式内社と酒垂神社、御贄神社が併記されている。

下宮で他に神社の古社地が見当たらない。御贄神社の境内に久々比神社が建てられ、のちに久々比神社の方が残ったとも考えられなくもない。

『但馬郷名記抄』に、

古くは御贄郷といい、小田井県大神御贄みにえの地なり。この故に名づく。 神田かむた(今の鎌田)・神服部かんはたべ神酒所みきと・白雲山・馬地村・殻原村(今の梶原)・火撫(今の日撫)・物部村・白鳥村・金岡森(今の金剛寺)・磐船島(今の船町か?) ()にあるのは、現存する地名で分かる範囲である。

御贄とは神饌で、神に供する供物のこと。主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする「直会(なおらい)」とよばれる儀式が行われる。神田が鎌田と考えるのが自然であるが、御贄田が三江村であったから、御贄田はのち神田とも考えられる。とすれば今の下宮となる。 御贄郷につながる地名としてあと、神服部かんはたべ神酒所みきとがある。

神酒所は酒垂神社のある今の法花寺であることは間違いないが、神服部はどこだろう。ここでさす神服部の神は当然、小田井県神社だ。その小田井県神社の服部であり、服部は機織部(はたおりべ・はとりべ)で衣食住の衣を司る部である。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域をいう。「部」(ベ)が黙字化し「服部」になったという。神服部と呼ばれていた別の集落が三江郷のどこかにあったことになる。また、神服部の部は、のちに省略され、神服かむはたが今の鎌田かまたであるとも思えるし、その例が、同じ豊岡市日高町篠民部しのかきべが篠垣、猪子民部いのこかきべが猪子垣のようにあるので、神服部の部が部民制が廃れると部落といい、省略され神服と云うようになったと想定することは充分にあり得る。

『但馬郷名記抄』の順はほぼ南から列記している。とすれば、現存する殻原村(今の梶原)から磐船島(今の船町か?)まではだんだん北になる。神田が鎌田、神酒所が法花寺、白雲山は愛宕山(今の山本)ではないかと考えたが、『但馬故事記』に「天平18年冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎。美含二郡の壮丁を招集し、兵士に充て、武事を調練す。」とあるから、すでに山本は存在していたことになる。物部村・白鳥村が赤石・下鶴井だろう。残るは馬地村と神服部だ。現存地名では祥雲寺と庄境が残る。馬地村は馬路村とも書く。その名のとおり、交通の要所とすれば庄境しかない。

神社と田結

豊岡市日本海に面した場所に田結たい集落がある。明治の市町村再編までの郷村制では、円山川河口から円山川下流域の広大な郷域を城崎郡田結郷といった郷名になった村である。戦国時代から安土桃山時代に、山名氏の重臣に田結庄是義がいる。山名四天王の一人で、愛宕山に鶴城を築いて城崎郡を領した。その田結庄という姓は、『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。

それはさておき、田結郷はすでに平安後期に編纂された『但馬郷名記抄』にある。 田結郷は古くは伎多由郷といい、[魚昔きたゆ](魚へんに昔)貢進ぐしんの地なり。この故に名づく。小魚・[魚昔きたゆ]の地。[魚昔きたゆ]は古語で伎多由または伎多伊なり。「きたゆ」とはサメのことらしい。「きたゆ(い)」が「たゆ(い)」に転訛し田結と書くようになったたものと思われる。

上記の御贄(三江)が神社にお供えする神饌の米や穀物・酒を、田結は神饌の海産物を納めていた重要な村であった。だからこそ郷名として三江郷・田結郷と名づいたのだろう。

日本の国のおこりから、人々は山や海、風、雨、雷などの自然には神が宿ると信じ、祟りを畏れ敬う。政り、祀り、祭りと漢字がいろいろあるが、すべてまつりごとは神事とつながるものなのである。城崎郡のまつりごとの頂点は、名の通り小田井県神社であり、その御神田が三江の古名御贄田の御贄神社、神酒所の酒垂神社、海の守護神、海神社(今の絹巻神社)という関係になる。

『但馬郷名記抄』の伎多由郷(田結郷)に、大浜・与佐伎村・赤石島・結浦・鳥島・三島・干磯浜打水浦、久流比・気比浦・白神山・[魚昔きたゆ]・大渓島、桃島・小島・西刀(今の瀬戸) 余部郷として墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(今の三原)

鳥島戸島)・打水(二見)の間、磐水を支え、黄沼海きぬまうみ・きぬうみとなり、巌上より滴り滝となって岩を打つ。故にその地を打水浦(二見浦)という。

城崎の古語である黄沼前を、この黄沼海の前(手前)をいうとすれば、小田井県神社あたりをさす。

最後に、黄沼前郷に記されている内容をまとめてみたい。

黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔はかみ、塩津大磯より、しも、三島に至るの間一帯の入江なり。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出て、草木青々の兆しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。

故に天火明命黄沼前に鎮座す。小田井県神これなり。

降りて、稲年饒穂命・味饒田命・佐努命あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き墾田となす。(中略)黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

黄沼前郷と田結郷の混同が見られるが、この黄沼崎島とは円山川西岸の北は奈佐川・大浜川から南は佐野までの川に囲まれた平地を島になぞらえているものだろう。

ちなみに絹巻神社の山は絹巻山といい、山の斜面一帯に上坐・中坐・下坐と分かれており、今の境内は下坐であろう。絹巻山の社が絹巻社、絹巻神社という通称で、古語は名神大海神社である。『但馬故事記』の人皇13代仲哀天皇神功皇后の記述に、

皇后ついに穴門国(長門)に達し給う。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神と為す。水先主名の子を以て、海部直となすは、これに依るなり。

絹巻山とは黄沼前山のことであり、黄沼は黄色い泥の意味なので、黄沼前を絹巻の二字の好字に替えたものだ。城崎も絹巻も、黄沼前から転訛した同じ語源である。

神社の由来や地名を調べれば、郷土の成り立ち。歴史が分かる。その点で『国司文書 但馬故事記』『但馬神社系譜伝』『但馬郷名記抄』など関連史料のように、神社や古墳時代の風習等を克明に記したは、全国的にも珍しく貴重な史料である。

この中から、字の変更を拾うと、次のようなものがある。律令制導入により、郷村名や地名を二字の好字(縁起の良い)にすることを奨励しているが、同様に伎多由は田結に、機紙は波多(今の畑上)、墾谷は飯谷、久流比は来日、百島(茂々島)は桃島、西刀は瀬戸、鳥島戸島、与佐伎は都留井・鶴井、楯野は赤石、(立野も楯野だと思う)、耳井は宮井、島陰は下陰、野田丘は福田、深坂は三坂、鳥迷羅は戸牧、火撫は日撫、穀原は梶原、狭沼は佐努・佐野に、黄沼前郷は城崎郷、渚郷は奈佐郷、新墾田郷は新田郷、御贄郷は三江郷、