但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

日本文学概論 2/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。

6 兼好と頓阿

1.文学の再構築

「誰でも書ける散文」のスタイルを提起した兼好 「誰でも詠める和歌」のスタイルを提起した頓阿

兼好 『徒然草』の著者。この二人は、藤原定家の粗孫に当たる二条為世(1250-1338)門下の「和歌四天王」と呼ばれた同時代の歌人。四天王の残りの二人は、浄弁と慶雲(父子) 兼好は散文を、頓阿は和歌を、それまでにないくらいに大きく進展させた。 兼好と頓阿によって文学概念が、現代まで直接繋がるような変貌を遂げた。

藤原定家が切り開いた本歌取り文化圏は、『小倉百人一首』という誰でも暗誦可能なシステムによって、第一歩が記される。後続する文学者たちは、このシステムを補強・修正しながら、永く機能させ続けた。そのシステムの一人が、頓阿だった。頓阿は、定家の学習システムを応用して、「誰でも詠める和歌の書き方」を創出した。

2.兼好の散文

新しい散文のスタイル

文学を大きく和歌と散文に分けて考えるなら、和歌は五句・三十一音という定型の文学。

和歌にはさまざまな制約があり、むし制約を守ることが、おのずと和歌らしさを生み出す。 和歌の稽古を重ねれば、上達が保証される。

散文にはそのような枠組みがないだけに、「何を、どう書くか」という最初の段階で早くも頓挫しかねない。 ただし、散文の中にも物語というジャンルは、『源氏物語』において、ストーリー・登場人物・場面設定などが集約されている。既に大きな枠組みが完成しているので、『源氏物語』に学べば書きやすい。そのことと、日本文学における隆盛とは、決して無関係ではない。 日記や紀行文学は基本的には自分自身が体験した日々の出来事や、旅のありさまを書くという枠組みがあるので、これもその枠組に則ることによって、筆はおのずと進む。

兼好(1283頃-1352頃)の『徒然草』は、それ以前に書かれた散文とどこが違い、どこが新しいのか。

散文の多様性をまず最初に提示したのは『枕草子』(清少納言)。ごく短い単語の列挙とも言えるような、「もの尽くし」の文体。「山は」「木の花は」「美しきもの」「ただ過ぎに過ぐるもの」など。一つの命題のもとに、それに適合するものがいくつも集められる。

枕草子』は、清少納言という個性が見聞し、彼女が書くに値すると認定した話題である。清少納言が自由に伸び伸びと書いているが、散文システムとしては誰もが模倣できるものではないという限界が指摘できる。『枕草子』と同様のことは、鴨長明(1155頃-1216)の『方丈記』にも言える。

徒然草』の画期性と影響力

徒然草』の画期的だった3つの重要な点

  1. さまざまな話題や内容を、次々と転換しながら、短いサイクルで書き連ねる文学形式を明確化した。
  2. 書かれている内容に応じて、文体も多様であること。王朝的な散文(和文)・和漢混淆文(漢文調)
  3. 真摯なもの、ユーモラスなもの、哀愁に満ちたものなど、表現の幅が大きいこと

この3つの要素から、『徒然草』は散文の手本となった。簡素で分かりやすく、多彩な内容を、ユーモアと鋭い洞察力を発揮しながら、自分の体験を超えて思索を外界に広く及ぼした。『徒然草』を読んだ後世の人々は、散文の極意をおのずと掴みとることができた。簡潔でわかり易い文章を書く方法を手に入れた。

3.歌人・歌学者としての頓阿とんあ

頓阿(1289-1372)は、和歌四天王の筆頭歌人。子孫はずっと歌人の系譜を守り、室町時代には断絶した二条家に替わり、二条派の正統として歌道の第一人者となった。頓阿の和歌の師匠である二条為世は、定家の曾孫で、為世の高弟である和歌四天王たちに『古今和歌集』の伝授を行っている。頓阿の子孫が連続して古今伝授という和歌の最高権威の裏付けを得て、和歌の伝統を室町時代まで繋げた。

頓阿は歌論書『井蛙抄せいあしょう』『愚問賢注ぐもんけんちゅう』を著し、和歌の読み方や本歌取りについて、懇切丁寧に解説している。和歌の正統たる二条派の歌学を、万人に開かれたものとすることにより、和歌の裾野を広げようとした。

『草庵集』の影響力

頓阿の和歌は、『草庵集』と『続草庵集』にまとめられている。『頓阿法師詠』は、延文2年(1357)に頓阿自身が、おそらくは勅撰集である『新千載和歌集』の選集史料として、自作をより直ぐって提出したものと見られ、368首から成る。

恩頼図みたまのふゆのず』は、本居宣長が学恩を受けた人々を図示したもので、宣長の子である本居大平が書いたもの。その中に頓阿の名前が挙げられている。また頓阿の家集『草庵集』に対して『草庵集玉箒たまははき』という注釈書も書いている。

明治時代以前には、頓阿は和歌を学び、和歌を詠もうとする人々にとって、歌人の代名詞のような存在だった。

近世、頓阿の『草庵集』の歌を、歌題別に分類し直して配列した『草案和歌集類題』(1695)が作られた。この時代の和歌は、自由に自分の感情を詠むものではなく、歌の題に沿って詠むものであった。表現・内容にある種の類型性が求められ、その累計性が歌を詠む人と歌を鑑賞する人との「共通理解」を可能としていた。どのような題の場合にどのような和歌を詠むかということを学び、認識しておくことは、和歌の初学者にとって必須のことだった。頓阿の和歌は初学者にとって最適であり、頓阿の和歌を学ぶことが「歌人への道」であった。

近世には、頓阿の『草庵集』に関する注釈書が次々と書かれた。

兼好と頓阿

兼好と頓阿が切り開いた、散文と和歌の普遍化は、すぐには花開かなかったが、近世に入ってから彼らの新機軸が幅広い範囲に浸透し、近世の和歌や散文を作り上げる基盤となった。

7 転換期の文学

1.文学の継承

師承ということ

14世紀頃から、文学的な直接の師弟関係がかなりはっきりとわかるなるようになる。

兼好や頓阿の時代以降、まず、今川了俊いまがわりょうしゅん(1326-1414頃)

九州探題に任じられた武将であるが、歌人としても優れ、冷泉為秀に学んだ。冷泉家は、二条家と同じく藤原定家の血脈を受け継ぐ和歌の名門。

主な著作 歌道教訓書『了俊弁要抄りょうしゅんべんようしょう』、『了俊歌学書りょうしゅんかがくしょ』『落書露顕らくしょろけん

正徹(1381-1459) 了俊に和歌を学び、室町時代を代表する優れた歌人。歌論書『正徹物語』 心敬しんけい(1406-75) 正徹の弟子。 東常縁とうのつねより(1401-84) 〃 宗祇そうぎ(1421-1502) 常縁から古今伝授を受け、心敬からは連歌を学んだ。一条兼良からも、『伊勢物語』や『源氏物語』などの古典学や有職故実などを学んだ。

正徹による中世文学の集約

正徹は、歌論書『正徹物語』の冒頭で、歌道に生きるものの心得として、「この道にて、定家を蔑せむ者は、冥加も有るべからず。罰を蒙るべきことなり」と述べている。歌人は定家一筋に学ばなくてはならず、そうしないと、必ずや罰を受ける事になる、というのである。それくらい強く確信して、藤原定家の歌がすべてだと、正徹は考えている。しかしその直感とも言えるような確信は、膨大な読書体験と永年の試行錯誤の結果でもある。

師承ししょう」とは、過去の偉大な文学者との心の交流が生まれることである。この師承をさらに確実に形にすべく、二人の文学者が師と弟子として向かい合い、「文学の本質」を継承する儀式こそが、「古今伝授」なのだ。

「古今伝授」に連なる中世後期の文化人たちは、揃って『源氏物語』や『伊勢物語』の重要な注釈書を残している。「古今伝授」は、和歌だけでなく王朝物語のエッセンスの伝授をも目指していた。

細川幽斎と古今伝授

その中で、『明星抄みょうじょうしょう』を著した三条西公枝から「古今伝授」を受けたのが、細川幽斎(1534-1610)である。幽斎は、藤原定家から流れ始めた中世の和歌文化と物語文化を、総合して受け継いだ。言い換えれば、幽斎は古典文化全体の体現者だった。幽斎は、足利将軍家織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた。戦国時代から徳川時代まで、権力の中枢にあって、戦乱の時代を生き抜き、熊本藩54万石の基礎を築いた武将である。彼は卓越した文化人でもあった。

幽斎の場合は、その時々の権力者との関わりの中で、文学的な教養が大いにプラスに作用した。豊臣秀吉の和歌や古典の師匠として多くの逸話を残している。秀吉の死後、「古今伝授」の存在を天下に知らしめる出来事が起こった。慶長五年(1600)の関が原の合戦の前夜、徳川家康の東軍に属し、居城である田辺城(現。京都府舞鶴市)に籠城する幽斎を、西軍の石田三成の軍勢が包囲した。この時、「古今伝授」を絶やさないため、後陽成天皇の勅命で、和議が結ばれたのである。

これが示すように、文学は政治と密接に結びついていた。文学の力は、政治を動かすまでに大きかった。この時代頃から、貴族以外の人々の中からも、一生を文学に賭ける人々が現れる。

幽斎の教養は測り知れなく、室町時代までに蓄積された古典学(古典文学の註釈研究)は、膨大な量にのぼっていたが、それを整理して集大成して、時代に手渡したのが幽斎である。家集『衆妙集』、紀行文『九州道きゅうしゅうみち』がある。学問の集大成としては、『伊勢物語』の注釈書の金字塔である『伊勢物語闕疑抄けつぎしょう』がある。また中院通勝なかのいんみちかつ(1556-1610)に古今伝授を授け、資料を提供し、助言も与え、中世源氏学の集大成『岷江入楚みんごうにっそ』がある。

3.中世から近世へ

松永貞徳の功績

松永貞徳(1571-1653)は、細川幽斎から古今伝授を受けた文化人。「地下伝授」の水路を開き、古典文学の教えを庶民に広げる役割を果たした。貞徳が書いた『戴恩記』は、彼の学問の師匠たちを回想しているが、その数は50数人にも上る。

北村季吟の歌学拝命と註釈書の刊行

松永貞徳の弟子 野々口立圃(1595-1669) 『源氏物語』のダイジェストである『十帖源氏』『おさな源氏』。貞徳の周囲で、註釈と本文を合体させた『首書源氏物語』、挿絵入りの『絵入源氏物語

北村季吟(1624-1705) 貞徳の弟子 『源氏物語』を広く一般に解き放った注釈書『源氏物語湖月抄』。幕府の歌学方に抜擢され、66歳で京都から江戸へ出て、82歳で没するまで江戸で暮らす。

北村季吟の文化的業績としては、『増山井』における知識の集約。かなりの頻度で、一条兼良の『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』の書名を挙げながら、季語、とくに年中行事の解説を書いている。これを読めば、江戸時代の人々は王朝時代以来の宮廷文化の一端に触れることができる。文化・文学の蓄積が、15世紀の一条兼良によって総合され、季吟の選択眼によって時代を超えて当時の社会に十分に機能する項目が選び取られたので、『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』が忘れ去られることはなかった。

文学が大きく変わる時

日本文学の流れ

室町時代、特に後半 それ以前の文学が集大成され、大きく変容した転換期

近世 貴族階級から武士出身者へ、文学の担い手が変わった

 

日本文学概論 1/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。

まえがき

  • 日本文学は、千三百年以上にわたる長い射程を持つ。
  • 絶え間なく変化するいつの世にも、文学は私達の姿を映す鏡である。
  • 描かれてきた人々の思いは、まことに個性的であるので、すぐれた作品は一回限りの輝きを放ちつつ、時代の流れを貫いて、思いがけぬほど遠い世界まで到達する。
  • 地下深く滲み入り伏流し、一見消滅したかと思われた作品や文学者の存在が、長い時代を隔てて再び地上に現れてくることがある

それゆえ、古代から現代までの、日本文学の全体像を視野に収めることが、必要になってくる。 本書の目的 我が国における文学のあり方 すなわち、何が日本文学の根幹を形成し、何が文学の存続を保証してきたかを、捉え直すこと。

日本文学の特徴といて

  • 繊細な季節感
  • 無常観と鎮魂
  • 諸外国の文学や思想の積極的な摂取

それらを包み込んで 誰がどのようにして新たなスタイルの文学作品を生み出したか 誰がそれらを自らのものとして切実に熟読し、共鳴し、どのようなかたちで次世代に伝えていったのか

着目点として 新ジャンルの誕生、アンソロジー(選集)の出現

文学は閉じられたものではなく、本来、誰に対しても開かれた自由な時空である。 現代に至るまで、文学が日本文化を形成する基盤として機能し続けている。

1 日本文学をどう捉えるか

1.文学はどう捉えられてきたか

一口に文学といっても、その内容は多岐にわたり時代により様々な特徴を持っているので、文学の全体像を把握することは容易ではない。

多くの人びとにとって文学とは 『万葉集』や『源氏物語』、『徒然草』などの具体的な作品名 小野小町西行松尾芭蕉夏目漱石森鴎外といった文学者の名前 あるいは、物語や紀行文、和歌や俳句、日記や随筆、説話や軍記、能や歌舞伎など、内容や表現様式

近代になってこれらのすべてを包括的に捉え、文学概念の輪郭を明確にする試みを「文学概論」と銘打った著作が出現した。それ以前には、文学はどのような形で意識され、認識されてきたのだろうか。

「目録」と「叢書(そうしょ)」 「目録」…膨大な数の書物の名前を記載したもの 「叢書類」…同一の体裁で多数の書物を集めたもの

日本国見在書目録』 9世紀終わり寛平三年(891)頃 その頃までにわが国に伝来した中国の書物を、「経・史・子・集」の四部門に分類し、書名・巻数・著者・編者などを記す 掲載数 17,000巻の書物 「経」 儒学の経典、「史」は政治・経済・制度など、「子」は諸子百家のうち「経」に入らないものや、技術書・随筆など。「集」は詩と文で最も部数が多い。

『本朝書籍目録』(鎌倉時代) わが国最初の和書目録

日本国見在書目録注稿』狩谷棭斎(1775-1835) 『日本国見在書目録』に記載された書名や巻数などを、中国の図書分類目録と照合し注記したもの。完成には至らなかった。 『慶雲輪菌(草冠はなし)付録』渋江抽斎狩谷棭斎の弟子)天保六年(1835)時点で現存する漢籍目録と本の所蔵者名も記した

和書の叢書

江戸時代になってから 『扶桑拾葉集』徳川光圀 元禄六年(1693) 和文で書かれた作品そのものを30巻にまとめる 分類は「序・跋・記・日記・辞・紀行・賛・哀悼・雑著・雑」の十項目

群書類従塙保己一 安永八年(1779)-文政二年(1819)完成 古代から江戸初期までの1,300点近い文献を、神祇・帝王・官職・装束・和歌・物語・日記・紀行・蹴鞠・合戦など二十五の項目に分けて分類。 それらの本文を校訂して収め出版。 小品や貴重な史料などの散逸を防ぐことができたこと、多くの人々が出版物によって作品を読めるようになった意義は計り知れない。

2.文学史と文学概論

文学史

『日本文学史』 三上参次高津鍬三郎 明治23年(1890)

それ以前には本居宣長の古代からの文学の系譜を図示した「歌詞展開表」がある。

文学概論

『文学概論』 島村抱月 明治42年度の早稲田大学講義録

『文学評論』 夏目漱石 〃 東京帝国大学で「十八世紀英文学」という講義をもとにしている

どちらも西洋文学論

『文学入門』桑原武夫 昭和25年、『日本の文学』ドナルド・キーン 1953、『日本文学史小西甚一 昭和28年、『文学入門』伊藤整 昭和29年、『古典と現代文学』山本健吉 昭和30年など

3.日本文学の3つの推進力

蓄積

17世紀初め木版印刷による版行が、文学作品を多くの人々が読み、本を所有することを可能にさせた

さらに遡れば、室町時代末期、戦乱を避けるための文化人の移動が、文化・文学を都から地方へ伝播させる要因となった

両方とも、ある程度の文学的な蓄積があって、それを圧縮して次代に伝える人の出現が、日本文学を現代まで繋いできた

集約的抽出

選集(アンソロジー)や叢書などのスタイル

詩歌の場合は勅撰和歌集に代表される選集(アンソロジー)、散文作品は叢書

また、複数の作品を集めて叢書や集成にしたもの 『古今和歌集』『和漢朗詠集』『小倉百人一首』など 『源氏物語』『徒然草』などは、作品が時代を超えて読み継がれてゆく場合、外界を集約的に封じ込めている 「集約的抽出」は、ある人物、ある作品の出現が必須であり、それ以前の「蓄積」とそれ以後の「浸透」を繋ぐ。

浸透

文学作品の蓄積が人々の中に浸透してゆくことによって、さらなる新しい文学展開が生じる。このようなサイクルが、日本文学の全体像の中で、何度も発見できる。

4.日本文学の水源

紀貫之以前

記紀万葉の時代

日本文学の始発 八世紀前半の『古事記』『日本書紀

最初の開花  八世紀後半の『万葉集

古事記』 元明天皇和銅5年(712)に撰上、『日本書紀聖武天皇養老4年(720)は、神話と歴史を叙述する漢文体

万葉集』の成立年代は不明だが、淳仁天皇の時代までの歌がおさめられ、八世紀半ば頃の形態の歌を集めている。山上憶良柿本人麻呂山部赤人大伴家持といった現代でも著名な歌人が輩出。

八世紀までに早くも散文と歌の双方の形式が出現した

漢詩文の時代

懐風藻』 最初の漢詩集 天平勝宝3年(751)から、その後80年足らずの間に、漢詩集が 立て続けに編纂された

勅撰漢詩集『凌雲集』 弘仁5年(814)を嵯峨天皇に撰上、弘仁9年(818)『文華秀麗集』、淳和天皇の天長4年(827)『経国集』が成立

全てに共通する点

  • 序文を備えている 序文を読むと、それぞれの漢詩集の特徴がよくわかるだけでなく文化史を眺望できる
  • 中国の『文選』『玉台新詠』などが活用・引用されたりしている。この時代にとどまらず中国文学・中国文献の摂取・活用は、日本文学の基礎となっている

最澄空海

仏教の世界では、八世紀後半から九世紀前半 ともに中国への留学体験を持つ最澄(767-822)が天台宗を、空海(774-835)が真言宗を開いた。このように一対の巨匠が同時期に出現する現象も、日本文化の特徴である。一条天皇の時代の清少納言紫式部、明治時代の森鴎外夏目漱石

菅原道真とその系譜

菅原道真(845-903) 日本漢詩文を担った。『菅家文草』昌泰3年(900)、『菅家後集』延喜3年(903)

平安時代に花開いた日記文学の中でも、ひっそりと可憐なイメージが香り立つ『更級日記』 菅原道真の五代目、菅原孝標の娘

2 紀貫之 文化基盤としての和歌と散文

紀貫之(868頃-945頃)は、日本文学の輪郭を確定した最初の文学者。『古今和歌集

「和歌」に対する「散文」の確立者でもあった

古今和歌集』の仮名序、『大堰川行幸和歌』の仮名序、『土佐日記

古今和歌集』の様式美

古今和歌集』は、最初の勅撰和歌集で、最後の勅撰和歌集である『新続 古今和歌集』にいたるまでずっと踏襲された。「勅撰」とは天皇の下命を意味する。巻頭に和歌の力と効能を高らかに宣言する「仮名序」、以下千百首の和歌が二十巻に収められ、最後に漢文の「真名序」で締めくくる。

第一巻から六巻 四季歌(春上・春下・夏・秋上・秋下・冬)、その後に賀歌・離別歌・羇旅歌・物名

第十一巻から十六巻 恋歌、続いて哀傷歌・雑歌上下・最後の二巻は雑体(長歌・旋頭歌・俳諧歌)と大歌所御歌(儀式で歌われた歌謡の他、神遊歌・東歌を含む)

精緻に時間や心情の変化と対比が考慮されている。

土佐日記』の画期性

紀貫之が土佐守の任期を終えて、都に帰還する海路の旅日記

和文による日付を持つ日記というスタイルの最初の作品

最大の意義

  • 「散文で、直接自分のことを書く」という大枠を作り上げたことにある ↔ 「和文で、自分以外のことを書く」スタイルを確立した『徒然草
  • 旅の情景を散文で描きつつ、和歌も織り交ぜて書くスタイルを確立した

3 藤原公任ふじわらのきんとう 傑出したアンソロジスト

藤原公任(966-1041) 通称は四条大納言。歌人・歌学者として、宮廷のしきたりである有職故実ゆうそくこじつの専門家として、何よりも傑出したアンソロジスト(編纂者)として、日本文学史上で非常に大きな存在。

自作の和歌をまとめた家集『公任集』、秀歌選の『拾遺抄』『三十六人撰』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』、詩歌選集『和漢朗詠集』、有職故実書『北山抄』など。

和漢朗詠集』とその影響力

上下二巻からなる、和歌と漢詩文のアンソロジー(選集)。上巻は、和歌と漢詩を、春・夏・秋・冬の四季に分類して配列し、下巻は四季以外の雑部。同じ選集の中に、漢詩と和歌を並立させたところに最大の特徴がある。

4 清少納言紫式部 ライバル誕生

1.『源氏物語紫式部と『枕草子清少納言

  • 王朝文学(平安文学)の双璧
  • どちらも平仮名で書かれ、女性による作品
  • 公式ではないスタイルの中に、かえって本音も真実も宿ることを証だてている

源氏物語』 文学の王道を切り開き、後々の時代には最高の権威となった。大規模で、長期に渡る時間の流れを描きとり、想像し、創作する物語

2.『枕草子

  • あくまでも私的な身の回りのことを描いた文学作品
  • 最大の新機軸は、和歌から独立した散文世界を切り開いたこと

長大な『源氏物語』が早くも鎌倉時代から研究に継ぐ研究によって、詳細精緻に解読されてきたのに対し、『枕草子』の注釈書はようやく江戸時代初期になって北村季吟の『春曙抄』があるくらいに遅れていた。注釈書が少ないのは、それだけ個性的な文学であり完結していたからであろう。

清少納言は、身の回りで実際に見聞したこと、あるいは書物を通して知ったことを、物語とは違って筋を持たせないで書いている。そのほとんどが自分自身の価値観や、抗悪の感情で書き連ねている。清少納言自身の個人的な意見・考え・感覚が前面に出ているからこそ、何とも言えぬ魅力的で親しみやすい作品となっている。つまり、客観的な註釈研究は不要だった。

日記・紀行文・随筆(エッセイ)・私小説などと呼ばれて、現代に至るまで根強い人気をもって書き継がれてきた作品群は、実生活との関わりが大きく、『枕草子』が切り開いたと言っても過言ではない。

二つの異質な文学世界が、散文の世界に同居しているのである。同時代の宮廷女房である二人の女性が、どちらも達意の散文で、十二分に自らの資質を全開させた作品である。もっとも重要なのは、このような視点を変えればまったく似ていない作品が、同時期に出現したことである。このような文学現象が、わが国では一貫して起きていることに注目することが、日本文学の特質を考える手がかりとなるだろう。

3.『源氏物語』のスタイル

源氏物語』で使われた言葉、登場する人物たちの性格、ストーリー、そして主題は、それ以前に存在した美しい言葉、魅力的で多彩な人物像、感動的なストーリーと主題を、あたかも百科事典のように集成し、ただし、寄せ集めるのではなく、光源氏という主人公の人生として、一つに融合させることに成功した。

源氏物語』を学べば、この物語に流れ込んだ和漢の文化のすべてを知ることができる。

ここからその後の日本文化は流れ始めた。この物語は、いつの時代にも、現代と未来の日本文化の土台となってきた。

5 藤原定家 本歌取り文化圏の成立

1.日本文学における藤原定家の位相

藤原定家(ていか・さだいえ。1162-1241) 特に、アンソロジーの編纂に力点を置いて、次代に伝えるべき作品を的確に抽出して、確実に数百年の文学的命脈を与えた功績によって、藤原定家を「歌人」という呼称から解放し、より大きな観点から命名し直すことが必要である。

定家は、当時までに出現した、文学史上最高の批評家であった。

この特権的な位置に立ちえた理由としては、定家が優れた批評精神と文学的な表現力、さらに透徹した文学観を持っていたからである。

定家の多面性

定家ほどオールラウンドな文学者はめったにいない。歌人であるばかりでなく、歌学者であり、物語作家であり、『小倉百人一首』の編者であり、古典の校訂者・書写者、長期間にわたる漢文体日記『明月記』も残している。彼の独特の筆跡は、「定家様」と呼ばれて珍重され、書道だけでなく茶道の世界でも尊ばれた。

歌人としては、八番目の勅撰集『新古今和歌集』(1205)の撰者の一人であり、九番目の『新勅撰和歌集』(1235)では、単独撰者を務めた。また、約3750首余りの自撰家集『拾遺愚草』。父の藤原俊成が撰修した七番目の勅撰集である『千載和歌集』(1188)に初めて選ばれてから、21番目で最後となった勅撰集である『新続古今和歌集』(1439)まで、合計すると勅撰集に463首も入集している。

歌学者としては、『近代秀歌』『詠歌之大概』『毎月抄』などの歌学書は、永く重んじられた。定家が理想とした「有心体」(うしんてい、うしんたい)と呼ばれる深い余情を湛えた和歌の姿は、中世和歌の理念とされた。

物語作者としては、若い頃に『松浦宮物語』という和文の物語を書いている。

彼の「本領」は、「定家をめぐる和歌と散文」という観点によって、つまり、「和歌と定家」、「定家と源氏物語」という二つの窓 1.「定家と和歌」 定家の歌論や、定家が確立した本歌取りの技法、『小倉百人一首』の選定が果たした文学史上の画期性 定家の文化的意義の双璧は、『小倉百人一首』と「青表紙本」と呼ばれる『源氏物語』の本文校訂にあったのではないか。

2.「定家と源氏物語」 定家が『源氏物語』の意義を文学史上初めて確定した。この物語の本文校訂や註釈研究史における役割の大きさ

定家の時代に至るまでのわが国の文学

8世紀半ば 漢詩集『懐風藻』と和歌集『万葉集』、その後勅撰漢詩集『凌雲集』(814)、『文華秀麗集』(818)、『経国集』(827)

その後、後に「三代集」と総称される初期の勅撰和歌集古今和歌集』(905)、『後撰和歌集』(951)、『拾遺和歌集』(1005年頃)

これらを集約し、整然たる秩序のもとに配列したのが、藤原公任の『和漢朗詠集

和漢朗詠集』は、それまでの和漢にわたる膨大な文学作品群を凝縮・選択して、平安時代のコンパクトな選集(アンソロジー)として完成させ、後世の人々に文学の模範を提供した。この文化的な達成を受けるようにして、11世紀の初めには、その後の散文の二台潮流となる『枕草子』と『源氏物語』が書かれた。

文学の窯変ようへん

この藤原定家に代表される新古今時代、つまり第八番目の勅撰和歌集新古今和歌集』が編纂された時代が、まさに「文化の変容」の時代だったのだろう。漢詩文から和文の時代を経て、もしここで新しい文学潮流が生み出されなかったとしたら、文学は立ち枯れとなり、立ち消えとなる。しかしここに藤原定家という巨人が出現し、それ以前の文学の全体像を視野に収め、力強く引き寄せ、愛でつつ、もはや後戻りできないほどの新たな変容を施した。定家は日本文学を窯変させた、と言ってよいだろう。定家は、自らが窯を作り上げ、その中にそれ以前の文学を投げ込み、強力な火力を与えた。窯から出てきたのは、それまでのものとは異なる相貌を持ち、魅力的に耀く新しい文学世界だった。

2.本歌取り文化圏の成立

本歌取り

定家が生み出した新しい文学上の新システム。たった三十一音からなる一首の和歌の中に、和歌の伝統や物語文学の世界を圧縮し鋳込んでしまう手法の発見。

大空は梅のにほひに霞みつつ 曇りも果てぬ 春の夜の月   藤原定家

平安時代前期の大江千里の詠んだ、「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜おぼろづくよに如くものなぞなき」という古歌の本歌取り大江千里の和歌も、『白氏文集』の「明らかならず暗からず朧々たる月」という漢詩を踏まえている。『源氏物語』花宴巻では、朧月夜という女性が口ずさむ名場面がある。

定家の「大空は」の歌は、この歌の表現それ自体の上に、大江千里の和歌、『白氏文集』の漢詩、『源氏物語』花宴巻を重ねて、三十一音を四層から成る文学空間まで拡大している。ここに「本歌取り」の醍醐味がある。

この本歌取りという手法は、定家ならずともある程度文学世界に習熟している者ならば、誰でも参入できる手法だった。本歌取りは、新しい和歌の世界を不朽のものとするために、普及可能なシステムとして発明されのである。

一首の和歌の中に、文学という広大な天地を凝縮することは、和歌が文学そのものとしての存在感を獲得したことを示している。

定家が文学史上に提出した「本歌取り」という技法は、表現技法のレベルを超えて、古典文化の再利用と窯変という、文化システムとして「中世文化」を進展させるエネルギーとなった。それが「本歌取り文化圏」である。

3.『小倉百人一首』の文化的意義

定家の文化的な業績として、もっとも影響力が大きく、影響範囲も大きかったものは、彼が選んだ『小倉百人一首』である。

成立事情

定家の息子の岳父である宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で書かれた。 それはまず、武士たちに和歌を詠むための手本として構成された。

近世には、この『小倉百人一首』の普及が、さらなる歌人層の拡大につながった。

→広く一般庶民の教養として和歌が身近なものとなった。

膨大な和歌の中から、たった百首だけ選ぶというのは、至難の業である。定家のように和歌に通じ、自分自身優れた歌人・歌学者であった文化人が選んだものでなかったら、人々がこれほど『小倉百人一首』を重んじることはなかっただろう。 万葉集以来、鎌倉時代初期までの秀歌が、たった百首だけ選び抜かれた。

  • 百人の歌人のバラエティ
  • 一人から一首だけを選ぶ大胆さ

 

旧日高町内に多い垣のつく区名

豊岡市日高町の旧日高町内には、頃垣、猪子垣、篠垣と◯◯垣という区名が多い。市内で区と呼んでいるのは、明治以前までの村名で、平安期に編纂された『但馬郷名記抄』によれば、他にも頃垣の近くには漆垣という村があった。また、芝も当時は柴垣、国府地区の西芝は、芝垣と書していた。同史で餘部等の部の付く村名はあるが、但馬の旧八郡でも垣の付く村名は、他では見られない気多郡(旧日高町)の特徴である。

垣は民部(カキベ・部曲とも書く)の転訛したもの

垣というと垣根や石垣、神社の周りに張りめぐらせた瑞垣等をイメージするが、『但馬郷名記抄』によれば、篠垣は「篠民部」、猪子垣は「亥猪民部」(古語は為能己訶支部)、頃垣は「己呂訶伎」垣は民部(かきべ)の転訛したもののようである。 同様に苗字の太田垣、小田垣さんも旧日高町内に多い苗字だ。あくまでも推測の域を出ないが、大きい面積の田を司っていたので太田民部⇒太田垣、小さいので小田垣民部が姓を称するようになり、垣と書くように転嫁したと考えるのが自然だろう。

垣は民部の転訛

日本大百科全書』には、

民部とは、664年(天智称制3)の甲子(かっし)の改革で設定された身分階層の一つで、家部(やかべ)とともに諸氏に設定された。その性格・意義については諸説があるが、大化改新によって公民になった民衆への私民的支配の復活や、また後の律令(りつりょう)制の帳内(ちょうない)・資人(しじん)的な従者の源流と推測するよりも、なお広く残っていた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制を加え、その認定・登録を図ったものとすべきであろう。民部・家部は670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)に載せられ、壬申(じんしん)の乱を経た675年(天武天皇4)、家部よりも身分の高かった民部(部曲(かきべ))は公民化された。[野村忠夫]

部は、大和王権の制度である部民制(べみんせい)がはじまりで、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。その集団である村が「部落」であり、朝来市物部、養父市軽部、美方郡香美町余部(50戸に満たない村の総称で固有地名ではない)などが区名として、また豪族名として日下部氏、石部、伊福部などが残っている。

筑紫紀行 巻九より 6 湯島にて

十二日晴。 神社仏閣を尋ねるべく参詣せんとて宿を出て町を西の方に行けば、町幅狭く町並みは悪しき。されど三階造りの大なる宿屋、或いは華好(きれい)なる小間物屋、及び麦わら細工の職人など多し。中の町に至れば四所明神の社あり。これは出石明神をうつし祭るといえり。さて出石神社は、神名帳但馬国出石郡伊豆志座神社八座とあり。今出石という城下に坐(いま)す神社なるべし。

f:id:kojiyamane:20170110075023j:plain 但州城崎里客舎 井筒屋

末代山温泉寺。これは聖武帝の勅号なりとぞ。楼門に仁王あり。燈道を三丁ほど登れば本堂あり。道智上人の開祖にて。本尊は十一面観音。□□仏師の作なりとぞ。また楼門の右に宝塔あり。左に茶師堂あり。堂の前に桜多し。右に羅人という俳人の塚あり。碑は一尺四方ありて高さ六尺ばかりなり。面に

暮行やあしきの人の初桜 羅人横に宝暦八年戌寅正月建之と彫るなり。かうの湯。茶師堂の東の山の手にあり。半径三尺ばかり。窪みざる中小温泉を湛(たたえ)るなり。昔、鸛のきずを病むがここに来て浴すると癒えて去ったといい伝えなり。

独鈷水。極楽寺のうしろの山の手にあり。その他、愛宕山、弁天山、治郎兵衛塚、日より山、桃島、烏帽子岩、八畳岩、鞍掛山、絹巻島、絹巻大明神、気比村、小島、津居山、瀬戸山、猿ヶ島、千石岩、龍ヶ鼻、竹の浜などいう所には北海に出ざる海辺ゆえに、ふねなしでは行くべからず。この地の遊興としては今津の茶屋。または舟あそびのみとなり。北海に乗出て景色よき浦々を見るべし。或いは網舟をやといつれして魚を捕らせなどして楽しむなど。けれど荒海なれば、不意なる風波の恐れありといえり。網舟一人乗り。一日一艘の船賃四匁五分なりとぞ。

十三日晴。この地のそのまえにもいえるごとく。 病患療治のてあてにはよき所なれど、無病の人の遊息には便ならざるなし。湯は誠に天下無双と聞く上に、大酒女色の遊び絶えなけ事をば。病を治する事には必ずよくしてわざわざ遠路を尋ね来るとも必ずそういあるべし。予も年来(としごろ)聞き及びたるこの温湯なれば、この度幸いに立ち寄りて二三回も浴しつべしとおもいけれど、暑気の時節、ことに蚊の多き地に候。昼も蚊帳ありては居難く、将(もち)家を出しより。

月日久しくなりにければ、僻静の地にただ一人気屈して帰心急切なるにて。おのづと久留もなりに候。明日は立たんとその用意をいたしける。さて、この地より京大坂まで駕籠、荷物、人足等を引き受け弁ずる家は魚屋八郎兵衛という駕籠一挺人足二人。丹後の名所を回りて大坂まで六日に着する賃銭八十ニ匁五分にて。雑用は川を渡る船賃のほか、ここより出す事なり。もし大風雨川留めなどにて日数延びる時は、飯料として人足一人に一日にニ匁づつ与える。もしこれらの便によって日数を延びた時は、定まれる賃銀の格好をもって日数にのびて贈与か。賃銀の内五十匁をここにて先渡しして余りは大坂にて払う。これ定法なりといえり。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 5 城崎郡へ

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下す豊岡。(納屋村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下なり。 川舟の湊なり。出待ちという一箇所に橋あり。ここに茶屋多し。町は通筋二十丁余りもあり。海舟も北海より乗り入れる。出町まで来るも□□。泊まるも宿。船宿数多く有りて、湯島へ川舟を出す。

これより陸地を行けば、浜辺または河岸と進みし行くは岩石の難路なるよし事はならば舟に乗りて行く。右の方に愛宕山。宮島村、野上村。名山などを追い続いてあり。この石山の川岸に臨む一箇所に奇しき石あり(玄武洞のこと)。奇形の磨磐の如く上下平にして周りは三角四角五角八角などありて、石工の切立し如く、色は青黒し。それを掘り取り跡は洞のごとくになりたるなり。戸島村、楽々浦、左の方には一日村、二見浦。上山村、日磯(ひのそ)村、来日村、観音浦、今津村、この村の出口に茶屋あり。樓造ろうつくりの家ありて下には川に臨みてうけ造りすもの涼の床あり。舟中より見るにも、甚だ有り致なり。湯治人遊賞の所なりといえども、かくて二丁ばかりゆけば、城崎郡湯ノ島(豊岡よりここまで三里)

御公領ゆえ久美浜の御代官所に属せり。おいてここは一筋の町にて。町の中に細き溝川あり(大谿川)。上の町、中の町、下の町、合わせて人家二百五、六十軒。宿屋大小合わせて十軒あり。下の町井筒屋六郎兵衛を大家と聞きて尋ね入り、滞留の宿を定む。家の入口より奥まで、樓上樓下合わせて室(ざしき)の数三十に余り。さて一室に入り休み居うに。暑気なりして冷然しせり。土地北海に近く、その上山谷の間なればなり。

十一日巳の刻過ぎより曇天になりて、未の刻過ぎより雨ふりいでぬ。ここに諸国より湯治のために来たれる人多けなれど。辺国僻地なれば、遊覧のために託(うこつけ)来るはまれなり。実病の人のみ多いければ、自らしめようにして華々しき遊び業もあれば、有馬などには様の事なり。湯治人旅宿旅籠の商い一日ニ匁(もんめ)なり。朝と未の刻頃に茶漬けを出し、昼と夕方に本膳を出す。また、座敷を借用の事にて、食べ物を自調したるもあり。室代一泊三匁に候。米・味噌・薪その他の諸物みな宿に出入りする商人通いにて入るなり。また炊き出しと称するあり。それは米を自ら運んで宿に付して日に二回炊き出しする。さすれば宿より一汁一菜と合わせて出す。かくて一回の代金一匁五厘。座敷代に合わせて四文五厘なり。

温泉に浴する事。入り込み湯には湯銭なし。幕湯の商いは一回六文なり。一日に三度つく湯女(ゆな)に事をしめす。別に切幕というあり。一室限りに浴するなり。一日に二度なり。一回の商い金一歩なり。湯治人初めて宿に着く時、祝儀を贈る事定めなり。この度は主の妻に百匹贈る。下女四人、僕ニ人に百匹、湯女三人に六匁。湯支配菊屋元七に銀一両贈り奥へ。

温泉はすべて五ヶ所。一には新湯、下の町の入口にあり。清潔にして甚だ熱し。一の湯二の湯と二つに隔たりなれど同じ泉なり。効能は気血を運び、胎毒・瘡毒を追い出し、創傷(切傷)など一旦うみてのち癒やすなり。

二つには中の湯ありき。匂いあり。甚だぬるし。腫れ物・切傷の類い、癒やすこと早き。故に癒え湯という。されども毒気を追い込むゆえに程もなく再発するとぞ。

三つには常湯(つねゆ)。四つには御所湯。五つには曼陀羅湯。この三つ大形あり。湯に同じ。曼陀羅湯はここの温泉の始めなりといえども。外(ほか)に殿の湯は平人が入る。非人湯は非人のみ浴なり。

この地の名物として売り物は、麦わら細工、柳行李、湯の花、海苔等なり。ここでも銀札通用す。十文より一歩まであり。銭は98文を以って一匁(もんめ)とす。 この地は北海(日本海)を隔てる事わずか一里なり。されど魚類多くして商いいと賤(やす)し。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 4 気多郡へ

ニ、三丁行けば(気多郡)岩中村。農家三、四十軒あり。引き続いて宵田町。(小田村よりここまで一里半) 上中下の三町あり。商家・宿屋・茶屋あり。町の中通に溝川あり。

引き続きて江原村。人家百四、五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。 二丁ばかりゆけば日置村。農家四、五十軒あり。

さて神名帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置神社とあるは、この村にあらざるなり。二丁ばかり行ば、伊福(いふ)村(今の鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。

四五丁行ば土居村。村ながら町にて。人家七八十軒。商家多く茶屋なし。町の中通に溝川あり。引き続きて手邊(てなべ)。(伊福村より是まで半里に近し)人家百軒計あり。商家多し。

十丁計行は水生(みずのう)村。岩山の裾なり。十四、五軒あり。岩の下より冷なる清水流れ出る。その水にてところてん・索麺(素麺か?)を冷やし売る。其の清水の上の岩に小さき穴ありて。奥底測られず。此の穴を隠れ里といひて。穴の中には白鼠あまた住むといへり。

これより山の尾を廻りて四五丁ゆけば納屋村。人家三四十軒。茶屋宿屋あり。

是より湯島へ向けて川舟に乗らんとて。(若しくは陸地をゆくときは。佐野村、九日村、豊岡と経歴し行んといふ)船宿藍屋勘十郎といふに入て船を出さしむ。船賃の定まりは借切一人乗り二百八十文。人数五人を限りとす。駕籠は二人に準ず。挟箱同じ。屋形賃四十文なり。人数五人に過る時は。其の過ぎたる人数の賃を増す。二人乗りも此格好にて賃を倍するなり。船の形状海船のごとし。かくて打ち乗り行くに。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 3 養父郡へ

十日晴れ。卯の刻過ぎに立ち出ず。 二丁行けば堀畑村。農家三十軒ばかりあり。五丁ばかり行けば西は出石領、東は御公領(天領)という領地境の表あり。

これより大川(円山川)の岸を通って二十丁ばかり行けば養父(やぶ)の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ばかり。商家大きなる造酒屋、茶屋、宿屋多し。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町を離れれば、道の両側松の並木のあるべき所に、桑をひしと植え並べたり。一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳但馬国養父郡水谷神社とある御社なり。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。 門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰って家に置く時は鼠をよく捕らうという。又、しばし行きて五社明神の御社なり。これは神名帳但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に山乃口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。故にこの神は狼を遣い□という。社僧の居所は水谷山普賢寺。本尊は薬師如来なる。

さて、大道を帰って五、六丁行けば、薮崎村(養父宿よりここまでニ五丁)。 人家四、五十軒。茶屋、宿屋あり。村のはずれより左へ行けば因州(因幡)道、右へ行けば湯ノ島道なり。一丁ばかり行けば大屋川。幅六、七十間もあるべし。夏秋の間は歩いて渡るも、冬春は舟にて渡すという。(中略)

六、七丁行けば網場(なんば)村。(薮崎よりここまで半里)人家百軒ばかり。茶屋宿屋あり。一丁ばかりゆけば下れば村。農家ニ、三十軒あり。五丁ばかりゆけば大森川。幅六、七十間あるを歩いて渡る。冬春は舟にて渡るという。川を渡れば大森村。御公領なり。農家ニ、三十軒。この辺り別に蚕飼を多くして家ごとにおびただしく飼う。

十丁ばかり行けば小田村。(網場よりここまで二十丁)人家四、五十軒。茶屋ありて宿屋なし。まっすぐに行けば出石の城下小出家へ。左の方湯ノ島の道にかかって三丁ばかり行く間に人家百軒ばかり立ち続くなり。また行けば下小田村。農家五十軒ばかりあり。これよりいささか上りありの坂を越えて五丁ばかり行けば江の宮(今の寄宮)村。農家ニ、三十軒あり。冬春はここより湯島へ渡る舟あり。夏秋は水浅きによりて渡さずという。二丁ばかり行けば、宿南村。農家三、四十軒。村はずれに茶屋のあるに立ち入り暫し休んで平道五、六丁行けば、左は岩山。右は気多川(円山川の気多郡内流域の名)にゆく。岩山の裾の川岸の上をば小坂を上り下りつつ行く足いと痛し。この間を岩箒(ほうき)というとなり。

十丁ばかり行けば浅倉村。農家五、六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に滝中川となり。幅十間ばかりの川あると歩いて渡る。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより