但馬国ねっと風土記

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

但馬国ねっとで風土記

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

まえがき

教科書で教えられた稲作や文化は朝鮮半島から伝わったと教えられ、日本は戦争で隣国に迷惑をかけたと思い、誤った自虐史観に陥ってきた。 今日、GHQによりはじめられた日本は戦争を犯した悪い国という戦後教育の自虐史観の延長で教えられ、刷り込まれてきた…

カテゴリー・サブカテゴリーを並べ替えました

記事投稿が増えてくると、カテゴリー分けが増える。 WordPressではかんたんなカテゴリーとその階層にサブカテゴリーをつくる方法は、「はてなブログ」ではまだできないので、いろいろネットで検索すると、 例:親カテゴリー「時代」とすると、記事が増えると…

はてなブログデビュー

はじめまして。 WordPressでいくつかのホームページやブログを持っています。 WordPress大好きなのですが、WordPressは独自のサーバー経由。それ自体はいいのですが、多くのユーザーが利用しているブログサービスには、超有名クラスなら別ですがアクセス数な…

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市・養父市・豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と…

韓國神社と城崎郡司・物部韓国連

但馬には式内社が全国的に見ても5番目と大変多い。大和や伊勢、出雲、近江はわかるが、その次に多いのは不思議である。結論から先に言えば、都(大和)から朝鮮半島へ通じる最短地点であったからだと考えている。式内社や重要な神社は、歴史(郷土史)のラン…

歴史は史実の新発見において語るべきもの

【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。 当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上…

小田井県神社と酒垂神社の関係

城崎郡は、今の豊岡市が誕生する合併以前の、豊岡市と城崎町、竹野町、日高町、出石郡出石町、但東町であるが、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域を改めて城崎郡が発足(美含郡・気多郡は消滅)した。城崎郡は、古…

日本文学概論 2/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。 6 兼好と頓阿 1.文学の再構築 「誰でも書ける散文」のスタイルを提起した兼好 「誰でも詠める和歌」のスタイルを提起した頓阿 兼好 『徒然草』の著者。この二人は、藤…

日本文学概論 1/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。 まえがき 日本文学は、千三百年以上にわたる長い射程を持つ。 絶え間なく変化するいつの世にも、文学は私達の姿を映す鏡である。 描かれてきた人々の思いは、まことに個…

旧日高町内に多い垣のつく区名

豊岡市日高町の旧日高町内には、頃垣、猪子垣、篠垣と◯◯垣という区名が多い。市内で区と呼んでいるのは、明治以前までの村名で、平安期に編纂された『但馬郷名記抄』によれば、他にも頃垣の近くには漆垣という村があった。また、芝も当時は柴垣、国府地区の…

筑紫紀行 巻九より 6 湯島にて

十二日晴。 神社仏閣を尋ねるべく参詣せんとて宿を出て町を西の方に行けば、町幅狭く町並みは悪しき。されど三階造りの大なる宿屋、或いは華好(きれい)なる小間物屋、及び麦わら細工の職人など多し。中の町に至れば四所明神の社あり。これは出石明神をうつ…

筑紫紀行 巻九より 5 城崎郡へ

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下す豊岡。(納屋村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下なり。 川舟の湊なり。出待ちという一箇所に橋あり。ここに茶屋多し。町は通筋二十丁余りもあり。海舟も北海…

筑紫紀行 巻九より 4 気多郡へ

ニ、三丁行けば(気多郡)岩中村。農家三、四十軒あり。引き続いて宵田町。(小田村よりここまで一里半) 上中下の三町あり。商家・宿屋・茶屋あり。町の中通に溝川あり。 引き続きて江原村。人家百四、五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。 二丁ばかり…

筑紫紀行 巻九より 3 養父郡へ

十日晴れ。卯の刻過ぎに立ち出ず。 二丁行けば堀畑村。農家三十軒ばかりあり。五丁ばかり行けば西は出石領、東は御公領(天領)という領地境の表あり。 これより大川(円山川)の岸を通って二十丁ばかり行けば養父(やぶ)の宿。(高田より是まで二十五丁)…

筑紫紀行 巻九より 2 上粟賀村~竹田

九日晴、卯の刻頃に立ち出ず。 駅を離れて板橋を渡れば、上粟賀村。人家二百軒ばかり茶屋あり。出口に戸田川渡りて四十間余りの川あるを土橋より渡る。これより山道に入る。 入口はよし殿村。二十丁ばかりの間に一つの小農家まぶたにあり。その先は八百軒余…

筑紫紀行 巻九より 1 播但道を粟賀へ

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行…

第二章 3 天日槍の足取りと神社

3.槍(やり)と矛(ほこ)の違い 青銅製武器の種類 矛(ほこ)と槍(やり)の違い 一方、考古学的には、矛(ほこ)と槍(やり)と戈(クヮ)とは区別される。 弥生時代の遺物としては、矛が多数出土しているが、槍はほとんど出土していない。福岡県前原市三…

第一章 1.天日槍(あめのひぼこ)の謎

1.天日槍(あめのひぼこ)の謎 荒神谷博物館(左から銅戈・銅鐸・銅矛) 天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬(たじま・兵庫県北部・旧国名)に住んでいる人なら知らない人はまずいない。新羅の王子で日本にやって来て、但馬・出石に留まり、帰化し…

神功皇后と朝鮮半島

第五章 神功皇后・但馬物部氏編 『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)に、 第6代孝安天皇の御代、新羅の王子天日槍が但馬出石で帰化し、初代多遅麻国造となった。 突如、よそ者、しかも新羅の渡来人が大丹波では中心から離れた但馬に入っていて、但馬国を…

丹後の巨大前方後円墳

[wc_box color="danger" text_align="left"] 丹後の巨大前方後円墳と池田古墳 [/wc_box] [catlist id=587] かつては丹波(道)が丹波・但馬・丹後に分立するまで、丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びと…

最初の但馬人

第一章 黎明編 豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、 「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千…

8 銅鐸はなぜ消えたのか

[wc_box color="warning" text_align="left"] 銅鐸はなぜ消えたのか [/wc_box] 砕かれた銅鐸見つかる! 久田谷銅鐸片 豊岡市立歴史博物館(但馬国府・国分寺館)蔵(許可を得て拙者撮影) 久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復…

山陰・北陸に多い気多神社

山陰・北陸に多い気多神社 越中国一宮 射水神社 能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。物部氏→変更したい? 劔神社 越前国 福井県丹生郡越前町 越前…

第三章 ヒボコと伊和大神の国争い

1.ヒボコと伊和大神の国争い 『播磨国風土記』[*1]には伊和大神いわのおおかみと天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。 ヒボコは宇頭(ウズ…

第二章 2 天日槍の足取りと神社

2.天日槍の足取りと神社 [wc_box color="danger" text_align="left"] 天日槍の足取り [/wc_box] 天日槍(以下、ヒボコ)は但馬出石に安住の地を決めるまで、どういう足取りを辿ったのか。 『日本書紀』、『播磨国風土記』にその足取りが記されている。 『日…

第六章 ヒボコは日本人だった 神功皇后とそっくりなアメノヒボコの足跡

第六章 ヒボコは日本人だった [wc_box color="danger" text_align="left"] 神功皇后とそっくりなアメノヒボコの足跡 [/wc_box] 神功皇后とアメノヒボコは、多くの接点を持っている。 たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコと神功皇后(オキナガタラシヒメ)…

第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか

第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか 日槍の日本渡来時期? 天日槍はが渡来したのは、いったいいつ頃なのであろうか? まず『記』(『古事記』)から見ていこう。『記』では、人皇15代応神天皇の段に、 「又昔(むかし)新羅国主の子、名は天之日矛(ヒボコ)と…

第三章 4.ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

3.ヒボコより伊和大神の方が鉄の集団っぽい 『播磨国風土記』にある伊和大神とヒボコの争いを、鉄原料の奪い合いであると見て、タタラ製鉄に優れていた出雲からやって来た伊和大神の方が鉄の集団にふさわしいという説もある。 伊和大神(いわのおおかみ) …

第六章 ヒボコは日本人だった ヒボコ登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない

第六章 ヒボコは日本人だった [wc_box color="danger" text_align="left"] 天日槍登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない [/wc_box] 天日槍(以下、ヒボコ)の年代については、数少ない史料からさぐるしかない。記紀をはじめ古文書は、日付を在位天皇…

第一章 2 なぜ「天」の日槍なのか

2.なぜ「天」の日槍なのか 『日本書紀』は、天日槍(あめのひぼこ)について詳しくは記していない。 しかし、なぜ、天日槍は、新羅の王子としながら、例外的に天皇家を表す天津神である「天」の日槍としたかが疑問だ。『日本書紀』は天日槍を、皇統以外の新…

第二章 天日槍の足取りと神社 5 出石神社 8種ものご神宝の謎

5 出石神社 8種ものご神宝の謎 なぜ8種ものご神宝が祭神として祀られているのか? 神社のご祭神は、神社に山や岩、川、火、雷など自然の神を神格化したものはあるが、出石神社は天日槍命を祭神とするのではなく、八種の神宝を伊豆志八前大神とし、合わせ…

第五章 但馬国は朝鮮半島南部への出兵基地だった?! 但馬国は朝鮮半島南部との国際ターミナルだった?!

第五章 但馬国は朝鮮半島南部への出兵基地だった?! [wc_box color="danger" text_align="left"] 但馬国は朝鮮半島南部との国際ターミナルだった?! [/wc_box] 突如、よそ者、しかも新羅の渡来人が大丹波では中心から離れた但馬に入っていて、但馬国を分立する…

第六章 ヒボコは日本人だった ヒボコは日本人だった?!

[wc_box color="danger" text_align="left"]天日槍(あめのひぼこ)は日本人だった [/wc_box] 天日槍の出自と倭韓一国説 『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の…

第六章 大化の改新編 但馬に圧倒的に多い兵主神社の訳は?!

但馬には兵主神社という神社が出石神社を取り囲むように郡境などにあって際立って多い。このような地域は全国的にも例がない。 兵主とは武神で、後の八幡神社も武神です。滋賀県野洲市にある兵主大社の祭神は八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神…

DNA研究による日本民族

DNA研究の進展 長いあいだ、日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする埴原和郎氏らの二重構造説が占めていた。しかし、少なくとも、従来の時代的概念としての「縄文人/弥生人」という単純な図式では説明できないとする説が台頭し、今日で…

日本民族は世界最古の発明家

[wc_box color="danger" text_align="left"] 日本民族は世界最古の発明家 [/wc_box] [catlist id=582]長い間、日本では稲作は弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人がもたらしたと思い込まされてきた。 『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、こう述…

水田稲作と技術は伝播していない

[wc_box color="danger" text_align="left"] 稲作と技術の伝播 [/wc_box] [catlist id=583] 縄文時代から行われていた稲作 狩猟や自然の恵みを採集していた縄文人と大陸から渡来してきた人々が水田稲作をもたらし人が稲を栽培するようになった。人々の中には…

コメは6000年前の縄文時代から作られていた

コメは6000年前の縄文時代から作られていた 第一章 縄文期の章で触れたが、日本民族には複数のDNAがあるように、陸続きだったころから少しずつ北方や朝鮮半島、あるいは南方から海を渡ってやって来た人々がいた。やがて日本列島は大陸と離れ、長い年月の…

第二章 天火明命編 丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト

第二章 天火明命編 [wc_skillbar title="丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト" percentage="100" color="#e45e32"] (丹色) [catlist id=589] 丹波国は、古くは但馬・丹後を含む大きな国だった。 『但馬故事記』は、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命が、この国を…

第四章 彦座王と大丹波編 大江山の鬼退治~彦坐王と陸耳の御笠は大丹波平定だった

第四章 彦座王と大丹波編 [wc_box color="danger" text_align="left"] 開化天皇の御子・彦坐王と陸耳の御笠 [/wc_box] [catlist id=26] 『但馬故事記』は、人皇十代崇神すじん天皇から、記載がにわかに詳細になるが、二方郡を除き、八郡のどの郡の故事記も「…

第二章 天火明命編 天火明命 谿間に来たり

第二章 天火明命編 [wc_skillbar title="天火明命 谿間に来たり" percentage="100" color="#e45e32"] [catlist id=589] 弘仁5年(814)-天延3年(975)にわたり、但馬国府の多数の国学者によって編纂された『国司文書・但馬故事記』は、第一巻・気多郡故…

但馬の神奈備(かむなび)

たじまる

「瀬戸の岩戸」を切り開いた国造り伝承は縄文海進だった

第一章 黎明編 [wc_skillbar title="「瀬戸の岩戸」を切り開いた国造り伝承は縄文海進だった" percentage="100" color="#007bbb"] [catlist id=582] 黄沼前海(キノサキノウミ) 縄文時代の豊岡盆地 (Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました) 天日槍(あ…

最初の日本人はどこから来たのか

第一章 黎明編 [wc_skillbar title="最初の但馬人(たじまじん)" percentage="100" color="#007bbb"] [catlist id=582] 最初にやって来た但馬人はどのようにやって来たのだろう。そもそも、われわれの日本人の祖先はどのように日本列島にやってきたのであろ…

【但馬史パラドックス】

[wc_skillbar title="但馬史パラドックス" percentage="100" color="#6adcfa"] [wc_button type="danger" title="但馬国誕生ものがたり" target="self" position="float"]但馬国誕生ものがたり[/wc_button][wc_heading type="h3" title=" -定説を覆し真実を…

豊岡の地名の由来

豊岡(とよおか) 「豊岡」は、羽柴秀吉による但馬占領後の1580年、当地を与えられた宮部善祥房継潤が「小田井」に入り、小高い丘(神武山)に築城し、城崎キノサキ(荘)を佳字・「豊岡」と改めたことが起源というが、山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したと…

式内社の廃絶と論社

延喜式神名帳に記載されている神社を式内社というが、平安期に作成されたその記載から、江戸期にはすでにその神社が廃絶となったり、その論社であるとする神社が多々ある。 当時、延喜式に記載された各地の神社が指定された経緯は、当時のその土地の歴史を知…

但馬の中世武家社会の台頭と但馬守護

奈良時代の律令制からにおける地方行政組織である国司・郡司などは、平安時代末期の平治政権から、武家政権(幕府)である鎌倉時代には無実化し、地頭が設置された。平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家…

山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。 正法寺城は今…

鶴ヶ峰城と殿区とは

国道482号線久田谷付近と鶴ヶ峰(三方富士) 子供の頃から何か周りと違い神秘性を感じていた三角おにぎりみたいな山 国道482号線を神鍋かんなべ方面へ久田谷くただに付近まで進むと、前方にきれいな三角形の山がぽっかりと現れてくる。通称「三方富士…