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あめのひぼこ 6

天日槍

伽羅色(きゃらいろ)#d8a373

天日槍の足取り

概 要

目 次
  1. 氣比(ケヒ)神社
  2. 海神社
  3. 西刀(せと)神社

天日槍神社

日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは菟道河(うぢがは)=宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。 名前に神の字がついた三人の天皇と一人の皇后がいる。神武・崇神・応神と神功皇后である。もちろん神武天皇はずっと後になってつけられた名前であり、カムヤマトイワレビコが正しい。実在する初代天皇は、崇神天皇ではないかとする説がある。さて、すでに触れたので最後の応神天皇である。 もともと古来の自然神なども、神は原則として天変地異をもたらす恐ろしい存在なのであってこれを必至に敬い恐縮し、祀りあげることによって、どうにか平穏な日々がもたらされるという発想である。そうであるならば、四人の「神」の名をもつ人びとに用心しなければならない。彼らは、立派な業績を残した方々というよりも、国中を震え上がらせた恐ろしい人びとではなかったか。 その証拠に、神功皇后平安時代になっても「祟る恐ろしい女神」と考えられていたようだし、神武天皇は、まさに祟る恐怖を振りまくことで、ヤマト入りを成功させている。崇神はまさに祟る神と書くとおり恐れられ、応神天皇も、喪船に乗せられ、「御子は亡くなられた」とデマを流すことで、敵に恐怖心を植え付け、ヤマトの入ることができたのである。 そうなると、なぜ初代王の二人に神の名が付けられ、また、第十五代応神天皇やその母の神功皇后をも神扱いした(鬼扱いでもある)意味も考え直さなければならない。 神功皇后とそっくりなアメノヒボコの足跡 『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』 著者: 関裕二氏には、 アメノヒボコから神功皇后につながる系譜は、『古事記』が書き留めたもので、『日本書紀』無視しているのだが、ここにも『日本書紀』の作為が働いていたと思われる。『古事記』と『日本書紀』は、ともに八世紀に記されているが、二つは似て非なる文書である。 どちらも天武天皇が編纂のきっかけを作ったとされるが、どうもそうでないらしい。また『日本書紀』が百済を『古事記』が新羅を重視しているところには、大きな問題が隠されている。『日本書紀』が八世紀の朝廷の思惑を代弁しているとするならば、『古事記』は必ずしもそうとはいえない。いやむしろ、『日本書紀』の記述に反している点が少なくない。 谷川健一氏『日本の神々』の「天日槍とその妻」の中で、朝鮮からの渡来人の中で、記紀に最も取り上げられているのは天日槍(天日矛)であろう。(以下アメノヒボコ)は『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。 『筑前国風土記逸文に「高麗の国の意呂山(オロサン)に、天より降りしヒボコの苗裔(すえ)、五十跡手(イトテ)是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山(ウルサン)にある。意呂とは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにアメノヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、アメノヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。 ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。アメノヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、天にヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。 『古事記』にはアメノヒボコの妻が夫といさかいしたあと日本に逃げてきて、のちには難波に留まり、比売碁曾(ヒメコソ)神社の阿加流比売神(アカルヒメ)になったことを伝えている。『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡)の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。 福岡県糸島郡の前原町高祖(タカス)に高祖神社がある。もとは高磯(タカソ)神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。(中略) 一方、アメノヒボコは『播磨国風土記』には、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・アシワラシコヲノミコト)または伊和大神との間に激烈な闘争を繰り広げる。そのあと『日本書紀』によれば、アメノヒボコ宇治川をさかのぼって、北の方の近江国の吾名邑(アナムラ)に入って、しばらく留まった。また近江から若狭国を経由して但馬国に至り、住居を定めた。近江国の鏡村の谷の陶器作りは、アメノヒボコの従者である、となっている。 この記事に見られる吾名邑は、蒲生郡の苗村(ナムラ)にある長寸(ナムラ)神社の付近だとする考えを『地名辞書』はとっている。苗村の西は鏡山に接している。その鏡山の東のふもとの鏡谷はヒボコの従者たちが住んでいたところとされている。鏡山の地はもと須恵村、つまり陶人の居住地を暗示する村の大字でもあった。そうしてこの近くの野洲市野洲町の小篠原から、二度にわたって大量の銅鐸の出土が見られたことは有名である。 ヒボコは『日本書紀垂仁天皇三年の条によると、但馬国の出石に留まり、そこの豪族の娘である葛木出石姫を娶って子孫を増やしたとある。ヒボコは、まず糸島半島に上陸し、そこから日本列島を東に移動し、但馬が終着点となった。 『魏志東夷伝』の中の辰韓の条には、「国は鉄を出す。韓、濊(ワイ - 古代の中国東北部及び朝鮮における民族の1つ)、倭はみな欲しいままにこれを取る。諸々の市買はみな鉄をもらう。中国で銭を用いるが如し」とある。辰韓(のち新羅)に劣らず金海地方(弁韓伽耶)も有名な砂鉄の産地であった。 しかし天日槍という名は多くの人が指摘するように、中国や朝鮮名にふさわしくない日本名である。『日本書紀』に次の記事がある。 「石凝姥(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香具山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全(うつはぎ)に剥ぎて、天羽鞴(あまのはぶき・ふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国にまします日前(ひのくま)神なり。」 これをみると、日矛というのは、日前神社の鏡と同じく銅製のものであったことが推測される。『古語拾遺』には鐸(たく)をつけた矛という表現があるが、大和の穴師の兵主神社には、日矛または鈴をつけた矛が御神体として祀られている。こうしたことから、天日槍(天日矛)も、金属製の祭器を人格化したものにすぎないと思われる。たしかにその事跡をたどるとき、播磨でも、近江、若狭、但馬でも金属に関連があることがうかがえる。 たとえば、ヒボコが近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長(おきなが)村と呼ばれ、息長一族の本拠であった。ヒボコの従者たちが住んだという鏡谷の近くの御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛冶の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は、息長水依比売(おきながみずよりひめ)であるから、息長氏とも関係があることは疑えない、(中略) 天日槍の名は太陽神の信仰とも関係があるに違いない。太陽神の妻である阿加流比売という神号を奉られたのも、太陽との関係があるからだろう。阿加流比売を下照姫と異名同神とする説がある。「照」の字がつくことから巫女とみなしても差し支えなく、日矛の妻の阿加流比売も巫女と見ても良い。(中略) ヒボコの妻は糸島半島から姫島に移動する前に、福岡県田川郡の香春(かわら)に足を留めた。そこに新羅の神が宿った、と『豊前国風土記逸文に見える。香春の北に採銅所という地名があり、古くから銅山で知られている。また香春の近くに「赤」という集落もある。『地名辞書』によると、赤に鎮座する八幡の縁起に、上古この峰の頂上が振動して鳴りとどろき、赤光を放ち、神霊が現れた。よって「明流の神岳」と称し、その里を赤村といったという。これはもちろん付会に過ぎない。むしろ「阿加流比売」とのつながりを韓ガルのが自然である。 天日槍(天日矛)は、もともと太陽神を祀る金属製の祭器であり、その矛をもって跳躍し、神がかる「明る姫」と称する巫女がいたのであろう。こうしてみると天日槍とその妻の物語は、太陽神の巫女の話であると共に、また朝鮮半島から渡来した青銅や鉄の生産技術に長じた一群の人びとの物語でもあったと考えられるのである、と記している。 そして問題は、『日本書紀』が大切な氏族の系譜をときどき書き漏らしていること、その一方で、『古事記』がその隙間を埋めるかのように、記録していることだ。『日本書紀』は蘇我氏の祖の名を語っていないし、神功皇后の母方の祖も、漏らしてしまい、『古事記』がこれを補っている。 このような両書の関係は偶然ではなく、『日本書紀』はわざと蘇我氏神功皇后の系譜を黙殺してしまったとしか思えない。 その証拠に、神功皇后アメノヒボコは、多くの接点を持っている。たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコ神功皇后(オキナガタラシヒメ)の伝説地を地図上につないで、地理的分布が驚くほどよく似ていると指摘している。似ているのではなく、両者はまるで手を携えて行動をしていたようにピッタリと重なっている。 『古事記』に従えば、神功皇后アメノヒボコの系譜上のつながりは、系図を見れば分かるように、かなりかけ離れていたことになる。その二人が、なぜここまで重なってくるというのだろう。どうにも不可解な謎ではあるまいか。 もうひとつ奇妙なことがある。それは『古事記』のアメノヒボコ記事は、応神天皇の段に載せられている。これがどうにもよく分からない。 応神天皇神功皇后の息子であり、その応神天皇の知政を述べるくだりで、「又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき」と、アメノヒボコを紹介していたことになる。これはとても不自然だ。また、「昔」とはいつのことなのか、『古事記』の記事を読む限り、はっきりとしないのも問題が残る。 さらのもうひとつ、アメノヒボコが「神話」の時代だったと、『古事記』は証言している。それが、アメノヒボコ来日後の次のような話からくみ取ることができる。 アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。その伊豆志の八前の大神には娘がいて、その名をイズシヲトメノカミといった。多くの神々(八十神)がこの女神と結婚したいと思ったが、皆かなわなかった。いろいろないきさつがあったのち、弟は乙女と結ばれ子供が生まれた。だが兄は、呪いにあって衰弱するのだが、ここでは省略する。 ここで指摘しておきたいのは、この話の出だしが、どこか因幡の白兎を連想させることだ。出雲の大国主や多くの神々が、因幡のタガミヒメを娶ろうとしたが、途中で白兎をいじめた兄たちは得ることができず、白兎を助けた大国主八上比売と結ばれたという、あの話だ。舞台背景となった但馬は、因幡のとなりで山陰道の隣国であり、海でつながっている。 なぜ『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、「神話」を語ったのだろう。すべて順番が逆になっている。 はたして何かしらの意図があったからなのだろうか。なぜヤマト朝廷の実在の初代王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。 『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖は来日した新羅皇子・アメノヒボコの末裔にあたるのだが、『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、アメノヒボコこそが、ヤマト建国の真相を知っていたからである。 『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神天皇を慕ってやって来たというが、『播磨国風土記』は、「天日槍、韓国より渡り来て、…」として、新羅としていない。『古事記』702年より『風土記』編纂713年からで後だ。すでに新羅は成立後なので、あえて韓国と書いている。もちろん風土記は地方官がその土地の伝承を集めたものであるから、編纂年の事柄ではない。韓は弁韓辰韓でもあり、彼らの祖地・中国の漢であり、カラ(伽耶)でもありうる。私は別に書いたが、伽耶だという説がもっとも強いと思っている。ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国の直前」ということであろう。 三品彰英氏が指摘しているように、アメノヒボコ神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」(ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。 そうなってくると、アメノヒボコと準宮皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。 アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。 但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。 (神功皇后のルートが、「播磨国風土記」でヒボコがさまよったルートと逆にすると似ているし、近江は息長氏の拠点でありヒボコや穴師ゆかりの神社や兵主神社が多い。 出石は古くは「伊都志・伊豆志」と記していた。どうも糸島半島にあったとされる伊都国との関わりがあるのではいかと思っていた。 また、神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。 彦坐王開化天皇の第三皇子、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。 丹後や但馬にに巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りではないだろうか。 第11代垂仁天皇の御代に新羅国皇子・天日槍が謁見したと記してあり、神功皇后は第14代の仲哀天皇の妃となる。 垂仁天皇の第一皇子が、成人しても言葉を発することができなかった誉津別命である。鵠(くぐい、今の白鳥)を出雲で捕らえて話すことが出来たので、出雲大社を造営したといわれている。 近江国と天日槍万葉集を携えて」近江国の吾名邑さんによると、 近江国 近江蒲生 鏡山神社「天日槍命滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289 滋賀県竜王町鏡 御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。 近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命滋賀県草津市穴村町 滋賀県草津市穴村町 御祭神 「天日槍」 神社由緒記には、 「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。 「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。 滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。 越前国 敦賀   氣比神宮伊奢沙別命」摂社 角鹿神社「ツヌガアラシト=ヒボコ」敦賀市曙町11-68 若狭国 若狭大飯 静志神社「天日槍命 今は少彦名命福井県大飯郡大飯町父 子46静志1 但馬国 但馬城崎 気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286 但馬国 但馬出石 出石神社伊豆志坐神社「出石八前大神、天日槍命兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池 滋賀県竜王町には「苗村神社(ナムラ)」が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。 米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。 米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。 伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)   この神社にはつぎのような口伝がある。 古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。 息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。 息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。 王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。 天日槍は近江国の吾名邑(あなのむら・滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。 西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。 「万葉集を携えて」近江国の吾名邑さんによると、 1.竜王町 滋賀県竜王町には「苗村神社(ナムラ)」が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。 鏡山神社 滋賀県竜王町鏡 御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。 2.草津市穴村説 滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。 安羅(ヤスラ)神社 滋賀県草津市穴村町 御祭神 「天日槍」 神社由緒記には、 「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。 「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。 兵庫県豊岡市出石町袴狭(はかざ)の近くに安良(ヤスラ)、穴見郷という地名がある。 3.米原市(旧近江町)説 米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。 伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町) この神社にはつぎのような口伝がある。 古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。 息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。 息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。 王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。 天日槍は近江国の吾名邑(あなのむら・滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれなし。 須可麻(すかま)神社 福井県三方郡美浜町菅浜 式内社 御祭神 「世永大明神(菅竈由良度美姫)」「麻気大明神」 『古事記』によると、菅竈由良度美姫は天日矛神の子孫であり、 神功皇后の祖母、応神天皇の曾祖母にあたる姫。 敦賀地方は、天日矛一族の渡来気化地とする説があり、 その子孫を祀った神社と考えられている。
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