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第4章 2.ヒボコ登場の頃に、まだ国は存在しなかった

[caption id=“attachment_145915” align=“alignleft” width=“300”] 「韓国朝鮮の歴史と社会」吉田光男 古代三国の成立と抗争(斜線部分は伽耶諸国)[/caption]

ヒボコの年代については、数少ない史料からさぐるしかない。

古事記』『日本書紀』(合わせて記紀)をはじめ古文書は、日付を在位天皇と年で記している。記紀が使用している年号は、今日の太陽暦ではなく、倍数歴で半年を1年としているが、その日本最初の国史である記紀奈良時代に偏されたもので、天日槍に関わる記述も神話や伝承をもとにしている。但馬にやって来たのは、いつ頃なのかを知るのに苦労していた。いまだ決定的な決め手はないが。

 

古事記応神天皇記 和銅5年(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

日本書紀養老4年(720年) 垂仁天皇3年3月(BC27年) 新羅王子の天日槍が渡来した。 『古語拾遺』大同2年(807年)編纂 垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなした。 「『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(前340年・縄文後期)新羅国皇子天日槍帰化す。 この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

ヒボコの帰化を、『紀』は垂仁朝3年春3月(前27年)と伝えており、『記』では、これを応神朝の段で述べている。これでは年代が合わない。本巻(『但馬故事記』)のごとく孝安朝五十三年(前340年)の方が正伝と思われる。久米邦武は、この命の帰化を孝安朝と考定する。(『日本古代史』P391)

倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那加羅」と併記される。加羅任那といっても入り組んでいて、その頃の半島の国は、高句麗百済新羅加羅任那が流動的に動いており、加羅任那も、その一つののちの弁韓地域にある小さなムラというべきクニ。

天日槍登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない

天日槍の頃に、半島北部には高句麗があったが、朝鮮半島南部には国と呼べる地域は成立しておらず、三世紀の頃の新羅の前の辰韓と・加羅任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、縄文時代から北部九州から南部には倭人が移り住んでいた。

3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に、人皇六代孝安天皇五十三年 新羅国皇子天日槍帰化す。

それは、算定で紀元前340年とされ、弥生時代中葉前半になる。まず、ヒボコが新羅からやって来たという『古事記』の「むかし」とされるころにはまだ、日本列島にも半島にも、国家といえるものはなかった。まして百済新羅などなかったのだ。

九州北部が倭人のクニの中心地だったことはわかっているが、邪馬台国が、九州北部か大和(奈良)かの論争はさておき、ローカルな邑(ムラ)程度のクニに過ぎなかった。まして縄文人から朝鮮半島南部は、九州北部同様の土器などが半島南部から見つかっているように、むしろ九州から半島へ倭人が渡り、土器や稲作等の文化を伝播した。朝鮮半島南端部は、倭人の生活範囲であって、のちの倭国の範囲であった。縄文人以前の旧石器人の遺跡は、中国の黄河文明はじめ世界四大文明をさかのぼる時代から日本列島に人は住み着いていたことが分かってきた。韓はもともと空という字で何もない空白地域の意味だという説もある。なんでもかんでも半島の渡来人が伝えたというのはことごとく覆されて、むしろ日本列島から朝鮮半島に伝わったのである。

天日槍はおそらく伝説上の人物、または、一人をさすのではなく出石に定住した鉄の国・渡来系の人々ではないかという意見もある。

いずれにしろ時代考証から、伽耶(または任那)の人々でないとおかしいのです。第十一代垂仁天皇は、四世紀初めで、実在性の高い最初の天皇であるとされており、この頃から「記紀」は、日本海側の但馬・丹後・若狭・越前周辺に関わるものが多くなる。その時代は、朝鮮半島日本海側の重要性が増したためだと考えられるのだ。

ともかく、新羅という記述について誤解があってあならない。記紀が記されたのは奈良時代であるので新羅百済は建国されていたが、垂仁天皇の記述は神代のころで、まだ半島南部にクニはなく、縄文人弥生人がいわゆる倭人と呼ばれていた九州北部および島嶼部の人びとが住んでいた未開の地が、徐々に日本の王を建てて小さなクニが誕生していった頃である。

新羅という国はないので、新羅の王子であるわけがないのだ。朝鮮半島南部は駕洛国(大伽耶金官伽耶があり、新羅金官伽耶を吸収したのが532年で、やがて安羅も新羅に降伏します。さらに最後まで抵抗していた大伽耶国も562年に新羅に滅ぼされた。

古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)編纂時代は、朝鮮半島百済新羅、高麗(高句麗)の古代三国時代であり、伽耶諸国は新羅に吸収されていたので、伽耶は忘れられていたか使われなかったのか?但馬、丹後などに伽倻・安羅に似た地名が残る。それはそれぞれのクニから帰国してきた倭人が、懐かしむ地名として残ったのではないかと推測できる。

事 例

阿加流比売神を妻としている点で但馬出石神社のアメノヒボコ敦賀気比神宮の都怒我阿羅斯等は同一視されている。 ・豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と伽耶、近くには出石町安良(ヤスラ)=安羅? 新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。 ・丹後加悦町(与謝野町)と伽耶日本海最大の三大前方後円墳や古墳群の多さ、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する? ・入江から入った地理が海運を利用していた点で似ている。 2000(平成12)年、豊岡市出石町袴狭遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。 1998(平成10)年2月、舞鶴湾口部に位置する浦入遺跡群から約5300前の丸木舟を発見

縄文時代には、日本列島全域にわたるような遠隔地交易が存在し、ヒスイ製玉類をはじめ黒曜石やサヌカイトなどの石器用材などが特産地から港を経由して遠くの消費地へ運ばれていたとされています。 この広範な交易ネットワークには、外海航行用の大型丸木舟が不可欠であり、浦入の丸木舟は、その大きさなどから外海航行用であるとみられ、わが国における縄文時代の交易を論じるうえで極めて重要な発見といえます。 ・日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する) ・敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

第一章 新羅の基礎は倭種が造った

問題の脱解について、『三国遺事』では、漂着した場所は慶尚道の同じ海岸(阿珍浦アジンポ)だが、堰そのものではなく「船に載せられた堰」になっている。それを見つけたのはただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女だった。この海女も倭種だったに違いない。そうでなければ、半島に到着したばかりの脱解と会話ができないではないか。この時代は「海女」という職種そのものが、倭人・倭種ならではの独特の技の発揮であり、倭人・倭種であることを示したのではないか。(中略)『三国史記』全編を通じて、「漁業」が出てくるのは、脱解に関するこの部分だけだ。 (中略) 半島は三方を海に囲まれているのに、新羅の「朴」「昔」「金」の三王室、高句麗王室、百済王室の始祖建国神話(説話)の中で、海が舞台になっているのは「昔」王室=脱解だけだ。 (中略)初期新羅の主民族も、現在の慶州市中心部ではなく、そこを取り囲む山間の盆地に住んでいた。海辺や低地は彼らが住む場所ではなかったのだ。

日本海側の地から来た賢者

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解」だ。 「新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。 脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里 (脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。) その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。 (中略) 「新羅本紀」の記述からは、多婆那国が「ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは確実に読み取れるのだ。 (中略) 『三国遺事』には、もう一カ所、脱解に触れた部分がある。巻二の最後に収められている『駕洛国記(抄録)』の中に、 「駕洛カナク」は「伽耶カヤ」「加羅カラ」と同義とされる。広義の「任那」だ。(中略)『駕洛国記』とは、高麗11代王の文宗の時に、金官(現在の金海地域)の首長として赴任した文人が、滅亡した駕洛諸国に関して、地元の伝承や古史書を集めた作とされる。成立は1076年だから、『三国史記』より70年ほど前になる。(中略) 脱解に関する件は「[王完]夏国の含達王の夫人がにわかに身ごもり卵を産んだ。その卵が化して人間になったので、名前を脱解といった」と始まる。 つまり、この伝承では、脱解は船に乗せられた時、既に卵ではなく、名前もあった。脱解は駕洛に着くや、金首露の宮殿に入っていき、「王位を奪いに来た」と宣言する。しかし、王と変身の術を競って敗れると、船で鶏林(新羅)の方へ逃げていったー抄録に[王完]夏国の所在地を示す記述はない。しかし、抄録そのものを『三国遺事』全体の流れの中で見るべきだ。 「新羅本紀」『三国史記』、『駕洛国記(抄録)』の脱解に関する記事を基に大胆に想像するとこうなる。 日本列島の日本海側にあった多婆那国で、何らかの事情があり、若君を追放することになった。多婆那国には「海人の国」らしい追放の仕方があった。若君は側近、奴婢、それに相応の財宝とともに船に乗せられ、「どこにでも行ってしまえ」と追放されたのだ。 しかし、列島の北方は農耕にも不向きだ。といって対立している倭国に行くわけにもいかない。だから朝鮮半島を目指した。最初に着いた金官国では相手にされなかった。 次に着いた新羅の海岸では、王のために魚や貝を獲る役を務めている倭種の老海女にコネを付けられた。当初は海辺で網元のような仕事をしていたが、やがて市場がある慶州に移り住んだ。ここで老海女のコネを利用して朴王室に近づき、多婆那国から持ち込んだ財宝で新羅の廷臣を包摂して、「賢者」としてまんまと…権力の座に就くと、新羅の初代王にあやかって「自分も卵から生まれた」と称した。 (中略) 新羅とは、二代王の前半の時代から、すでに脱解が大輔として国政・軍事を司っていた。即ち倭種が実験を握っていたー「新羅本紀」を“素直に”読めば、そういうことになる。二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。 新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった。三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公ホゴンを大輔(総理大臣に相当。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)に任命する。この瓠公は倭人だ。 「新羅本紀」の朴赫居世38年(前20年)の条に、こうある。 瓠公者未詳其族姓、本倭人。初以瓠繁腰、度海而来。故称瓠公。 <瓠公とは、その族姓は詳らかではないが、そもそも倭人だ。瓠(ひょうたん)を腰に提げて海を渡ってきた。それで瓠公と称された。> (中略)脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。瓠公が海を渡ってきたのは、新羅の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は新羅王室で重用されていた。 (中略)

倭種とは

三国志』の中の『倭人伝』(俗に魏志倭人伝)は、あまり良い表現ではないが、日本列島に住む人々を倭人といい、その国を倭国と記述した。倭や奴国、那国などは、今も相変わらず変わりない中華思想の他を蔑む語で、魏の直轄地だった帯方郡(ソウル付近)から倭国に至る道筋、そして女王・卑弥呼が君臨する邪馬壹国を盟主にして倭国を構成する様々な単位国家の名前を記している。 脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。(中略)『三国志』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。それなのに脱解に関しては「倭人」とせず、その生国を「倭国の東北一千里」と紹介している。これは多婆那国が倭国の支配圏外にあったからだろう。 (中略)

『日韓がタブーにする半島の歴史』第二章「倭国新羅は地続きだった」

安羅は倭人の国だったから列島(おそらく九州)にいた倭王には、狗邪韓国など弁韓諸国も、新羅など辰韓諸国も、在住倭種の比率に差はあれ、韓族と倭種、さらにはワイ族や中国系流民が雑居しながら混血が進むという点で、『三国志・韓伝』に「(半島の)南は倭と接し」とある。倭は「同じような国々」としか見えなかったことだろう。

『日韓がタブーにする半島の歴史』終章

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市但馬国、あるいは丹波国に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

 

 

これをみると、ヒボコが渡来して出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれない。

安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても、新羅が勃興するのは前57年とされるが、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。新羅が半島中南部加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れたのは6世紀中頃である。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号であった新羅としたのも頷けるが、ヒボコの伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の地域の一つ「辰韓」であって国はまだない。縄文時代から半島南部から対馬壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから千年近く経っていて信ぴょう性に欠ける。(日本書紀百済百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)

出石や丹後に残る伽倻知名

ヒボコゆかりの出石川流域には、安羅に似た安良やすら伽耶加羅(または加羅諸国)に似た賀陽かや(今の加陽)やその大師山古墳群は朝鮮半島の横穴式石室古墳であり、半島南部にあった小国との関わりが指摘されている。


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