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第4章 1.ヒボコはいつ頃の人なのか?

天日槍はいつ頃の人なのか?

日槍の渡来時期?

天日槍(以下、ヒボコ)の年代については、数少ない史料からさぐるしかない。記紀をはじめ古文書は、日付を在位天皇と年で記している。古事記日本書紀が使用している干支による年代を、現代年に書き換えて天日槍が但馬にやって来たのは、いつ頃なのかを知るのに苦労していた。 天皇の在位年代は、歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後であるとされ、諸説あることを先に述べておきたい。

古事記応神天皇記 和銅5年(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

 

まず『記』(『古事記』)第15代応神天皇の段から見ていこう。

「むかし新羅国の王子で、名は天之日矛(ヒボコ)という人が日本に渡来ワタってきた…云々」と伝えるが、来朝期を明らかにしていない。

『紀』(『日本書紀』)では、第11代垂仁天皇3年3月条に、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」と記している。

国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」は、延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(前340年・縄文後期)新羅国皇子天日槍帰化す。

この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

「『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(前340年・縄文後期)新羅国皇子天日槍帰化す。 この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

ヒボコの帰化を、『紀』は垂仁朝3年春3月(前27年)と伝えており、『記』では、これを応神朝の段で述べている。これでは年代が合わない。本巻(『但馬故事記』)のごとく孝安朝五十三年(前340年)の方が正伝と思われる。久米邦武は、この命の帰化を孝安朝と考定する。(『日本古代史』P391)

また、注目すべきなのは、縄文前期から中期にかけていわゆる縄文海進によって海水が内陸部まで入り込んでいた(黄沼前海)が、後期になると弥生後退と呼ばれる海水面の低下がおきる。円山川の瀬戸を切り開いたという伝説が、いつごろの出来事かというと、この時代に合致していることは確かだ。

国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記では、人皇16代仁徳天皇十年秋八月 海部直命を城崎郡司となし、諸田の水害を憂い、子の西刀宿禰命に命じて、西戸(いまの瀬戸)水門を浚渫させる。(式内西刀神社・豊岡市瀬戸)となっている。 小田井神社の由来では、オオナムチ(国作大巳貴命)が、出石神社ではアメノヒボコ天日槍命)が、粟鹿神社ではアマツヒダカヒコホホデミノミコトが、瀬戸・津居山を切り開いたと伝える。いずれも伝説で、縄文時代の終わり頃(前23世紀まで)から弥生時代の初め頃(前10世紀頃から)にかけての弥生後退と呼ばれる海水面の低下であろう。2m程度下がり、海岸線が後退して沿岸部に低湿な平地が出現した。→「黄沼前海(キノサキノウミ)」豊岡盆地から豊岡市日高町国府平野、豊岡市出石町の出石川下流域袴狭近辺まで

[caption id=“attachment_140141” align=“alignnone” width=“300”] 縄文海進の豊岡盆地と黄沼前海 Mutsu Nakanishi さんより[/caption]

垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる記述が多くなり、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っている。海運の要路として、朝鮮半島日本海側(出雲・但馬・丹後・越(こし)国・若狭(福井県)の重要性が増したためと考えられている。

つまりいつ頃なのかは記されていないので、垂仁天皇3年3月に渡来したと解釈する学者もいるが、これは『紀』が正史だから間違ってはいないだろうという、お上のすることはなんでも正しいと信ずるのと同じである。

『日本古代史』(久米邦武著)は、記紀の伝承を比較検討し、玄孫・田道間守タヂマモリが第12代景行天皇の在位年代の人であることから年代的にヒボコを考え、第8代孝元期(紀元前214年2月21日- 紀元前158年10月14日)に渡来したと考定する。 そして久米は、種々考証の結果、「孝元天皇の御代は、倭国大乱の最中であるから、ヒボコが但馬及び伊都の主(ぬし)となれたのは、伊都県は儺県に近接し、伊都津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要津となした れば、その接近の地を占拠したるは、伊都県に去り難き所縁のありての帰化なるべし」と論述した。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、 『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦(倍数年)」だといわれている。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうという。 垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記しているが、推定では垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとしている。

アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、次のように書いている。

日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し 、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

『校補但馬考』(桜井勉)が偽書だと決めつけている『国司文書 但馬故事記』だが、一概にそういい切れるのだろうか。そのような考え方であるといえるかも知れない。 しかし、『国司文書 但馬故事記』を読むとことの他但馬の出来事を詳細に記述しており、しかも編者らは但馬国府に赴任していた役人であり、弘仁五年(814)から天延二年(974)という160年という長い年月と79回も草稿し直して完成させた公文書だ。桜井が偽書だと言い切ったから偽書なのだというならば、国の要職を退職し出石へ帰り民間人の郷土史家として著したのが『校補但馬考』。『国司文書 但馬故事記』は役人が長い歳月をかけた公記録である。

『但馬故事記 序』には次のように記述されている。 但馬風土記が、第52代陽成天皇の御代に火災にかかり消失したことを残念に思った編纂者たちの編纂方針をこう記述している。

帝都の旧史に欠あれば、すなわちこの書(但馬故事記)をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、帝都の旧史をもって補うべし。 ゆえに古伝・旧記によりこれを補填し、少しも私意を加えず、また故意に削らず。編集するのみ。 帝都の正史といえども、荒唐無稽のことが無きにしも在らず。まして私史家においてはなおさらである。 この書を見る者は、その用いるべきは用い、その捨てるべきを捨てて、但馬の旧事を知れば(史実)に近いであろう。

その但記『第五巻・出石郡故事記』はヒボコについて最も詳しく記述している。

第6代孝安天皇の53年、新羅の王子・天日槍命帰化する。アメノヒボコウガヤフキアエズの子・稲飯命の五世孫なり。 ウガヤフキアエズは、海神トヨタマヒメの娘であるタマイヒメを妻にし、五瀬命稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生んだ。 父が亡くなり、世継ぎの狭野命は兄たちとともに、皇都を中州(畿内)に遷そうと、浪速津(大阪湾)から大和川を遡り、まさに大和に入ろうとする時、大和国の酋長ナガスネヒコは、天津神の子ニギハヤヒを立てて兵を起こし皇軍をくさかえ坂で迎え撃った。 皇軍は利がなく、兄・御瀬命は矢に当たって亡くなった。狭野命は他の兄たちとともに海路より紀の国(和歌山)へ向かおうとしたが強く激しい風に逢った。稲飯命と豊御食沼命は小船に乗り漂流し、稲飯命新羅に上り、国王となりとどまった。(中略)世継ぎの狭野命は熊野に上陸し、ナガスネヒコらを征伐した。ニギハヤヒの子・ウマシマジは、父にすすめてナガスネヒコを斬り、降伏した。世継ぎの狭野命は大和橿原宮で即位し天下を治めた。これを神武天皇と称しまつる。

『日本古代史』(久米邦武著)は、第8代孝元期(紀元前214年2月21日- 紀元前158年10月14日)としているが、但記『第五巻・出石郡故事記』は、第6代孝安天皇の53年とする。

天日槍が出石で帰化したのは、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には、「人皇6代孝安天皇53年新羅の王子・天日槍命帰化した」とする。それより前となる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した孝安天皇の実際の在位年代は、

第1代神武天皇 前660-585年 第6代孝安天皇 前392-前291年 第8代孝元天皇 前214-158 第11代垂仁天皇 前29-西暦70年 第15代応神天皇 270-310

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、記紀も含めて考察したと明記する。『但馬故事記』がわざわざ「人皇6代孝安天皇53年新羅の王子・天日槍命帰化した」と明記したのは、編纂者らが『日本書紀』の「垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」とする記述が間違っていると判断したためであろう。

神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?

史学者のなかで、「記紀」において系譜は存在するがその旧辞が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人のことや孫時代を、「欠史八代」(かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)といって、現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作されたとする見解が有力である。しかし実在説も根強い。 非実在

アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、「神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?」とクエスチョンマークを入れてこう記述している。

最初に時系列を乱したのは『日本書紀』だった。ヤマト建国の人物群を、ばらばらにして、いくつもの時代に振り分けてしまったのだ。神武も応神も、どちらも九州からヤマトに乗り込んだという。神武は神話と歴史時代の切り替わる場所に立っていたが、応神天皇は、朝鮮半島から神功皇后のお腹の中に入って対馬海峡を渡った。そして北部九州の地で誕生した。この話が「衣に包まれて九州に舞い降りたニニギ(天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊『紀』)にそっくりだという指摘がある。その後応神は瀬戸内海を東に向かって政敵を打ち倒してヤマトを建国したのだから、ひとりで天孫降臨と東征の両方を演じていたことになる。 『日本書紀』は始祖王を神武と応神にふたりに分解し、ヤマト建国の歴史を初代から第15代までの長い時間をかけて記述していたのだ。 (中略) ここで大切なポイントは、「応神天皇はヤマト黎明期の王で、アメノヒボコの来日はそれ以前だった」ということである。 これについて同書の説明はよくわからないので別記とする。

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