但馬国ねっと風土記

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第5章 2.但馬国は朝鮮半島南部との国際ターミナルだった?!

 

また、神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみこと)。父は開化天皇の玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日槍の裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王(ひこいますのきみ)の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母しょうもとも呼ばれる。

彦坐王人皇9代開化天皇の第三皇子で、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。

丹後三大古墳や但馬の池田古墳など、日本海側では巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りの話ではないだろうか。

『但馬故事記』には、第10代崇神天皇の御代、彦座王が丹波青葉山の陸耳・土蜘蛛と多遅麻の狂の土蜘蛛を退治した話が克明に記されている。これは大丹波大和朝廷が完全に平定しなければならない理由によるものだと考えられる。

日本書紀』は、第11代垂仁天皇の御代に新羅国皇子・天日槍が謁見したと記してあり、神功皇后は第14代の仲哀天皇の妃となる。但し、但馬故事記では第6代孝安天皇53年に針間(播磨)国で天皇の使者、大伴主命と長尾市命の二人に会って来日した理由を述べている。もちろん但馬故事記編纂は記紀も参考にしていたのに、あえて第11代垂仁天皇の御代ではなく、第6代孝安天皇53年としたのは、『日本書紀』が、天日槍の5世孫・5第多遅麻国造天清彦命が垂仁天皇に八種の神宝を奉じた話を天日槍来日の年代と間違えているからではないか。

突如、よそ者で、しかも新羅の渡来人であるアメノヒボコが、大丹波のしかもその丹波の中心から離れた西の但馬に入っていて、但馬国の初代国造として丹波から分立する。国家である倭国丹波国倭国に加える必要があったのではないだろうか。そのような作為的なことが出来るのは、関与しているからに他ならないと思えてならない。

それは半島南部、日本海との中継地として、当時倭国(やまと)にも属さないが出雲、越とともに勢力的に大きかった丹波国。その中で但馬を分国させ直轄的な国にしなければならない理由があったからではないだろうか。但馬国式内社が全国で五番目に多いことの不思議。都や畿内周辺の伊勢、近江、また神話の出雲といった大きな国でも中心でもないし、平野部が少なくほとんど山間地帯の国である。

縄文人は海洋民族で早くから八丈島や南方、中国大陸、日本海の季節によって潮の流れを利用して対馬や半島南部と往来していた。当初大和朝廷は、敦賀や若狭、あるいは丹波(のちの丹後)から大和から進んでいったが、琵琶湖を経由して敦賀・若狭、丹波へ出るより、大和から円山川を下り、日本海へ出る最短ルートとして、但馬が重要になったのではいか。

但馬・丹後・若狭敦賀にかけての日本海が、大和から新羅への国際ターミナルとして重要度が増したのではないか。縄文時代から江戸期の北前船まで、日本海側が本州から北海道や大陸との表玄関で、朝鮮半島沿海州と本州の人々・物資を運ぶ海上交通を担っていた。

天日槍が但馬を治めたのは偶然ではない?!

摂津へ丹波の氷上(いまの丹波市)は水分れという。南の瀬戸内海に注ぐ加古川と北東に流れ日本海に注ぐ由良川の、日本列島で最も低い分水嶺がある。丹波と但馬の境に遠坂峠があるものの、そんなに険しい峠ではないだろう。峠から粟鹿川が円山川に合流する。

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、

人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ物部多遅麻連公武もののべたぢまのむらじきみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡か?)

45年、新羅朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1は往きてこれを破る。

(*1  将軍・荒田別命・鹿我別命  この両臣は神功皇后摂政期に、新羅鎮撫のため、征討将軍となって新羅に赴いた。この命が平定した比自[火本]ヒシホ他六国の名称は『日本書紀』と全く同じ)

比自[火本]ヒシホ加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后新羅征伐を描いたものかも知れない。

兵主神社が但馬に特に多いわけは?

軍団設置と兵主神社

国司文書 但馬故事記』には、神功皇后よりずっとのちにも、新羅が登場する。

 

これ以降、但馬に気多郡・朝来郡に兵庫(やぐら)が設けられ、軍団が設置される。次いで出石郡城崎郡・養父郡にも軍団が設けられていく。

兵庫を高橋村(豊岡市但東町)に設け、兵器を納め、大兵主神を祀る(式内大生部兵主神社 豊岡市但東町薬王寺)。

このように耐えず半島南部の情勢は、神功皇后の時代になると、倭国にとって緊々の重大事であったことが分かる。新羅の王子天日槍は、大和言葉朝鮮語に精通していただろうし、その子孫が代々多遅麻国造に置いた時代が暫く続いている。皇統であれば信用度はあり、倭国と半島南部の外交官として適任であろう。

人皇37代孝徳天皇の大化三年、朝来郡朝来村*3と、気多郡高田郷に兵庫やぐらを造り、軍団を置く。(朝来軍団・気多軍団)

(式内兵主神社兵庫県朝来市山東町柿坪、式内久斗寸兵主神社兵庫県豊岡市日高町久斗)

人皇40代天武天皇白凰12年、城崎郡赤石原に兵庫を設け、兵主神を赤石原に祀る(式内兵主神社 祭神:スサノオ 兵庫県豊岡市赤石)

同年 兵庫を出石郡高橋村に設け、兵器を蔵(オサ)む。(式内大生部兵主神社兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848)

同年 美含郡 兵庫を伊久刀丘に設け、兵主神を祀る。(兵主神社兵庫県美方郡香美町九斗)

 

人皇40代天武天皇4年秋7月朔(1日)、小錦上 大伴連国麿おおとものむらじくにまろを以て大使と為し、小錦下三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差遣した。

人皇41代持統天皇2年、養父郡更杵さらきね村に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村兵主神社 祭神:スサノオ(式内更杵兵主神社 いまの兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷)

人皇44代元正天皇の養老三年(719) 養父郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所コンデイショを置く。判官・伊久刀首武雄いくとのおびとたけおは、浅倉に兵主神を祀り、その祖雷大臣命を赤坂丘に祀る。兵主神社(式内兵主神社兵庫県豊岡市日高町浅倉)・伊久刀神社(式内伊久刀神社:兵庫県豊岡市日高町赤崎)是れなり。

*3朝来村 式内兵主神社(祭神: 大己貴命オオナムチ)を兵庫の側に祀るとあるので、兵庫は朝来村(今の朝来市山東町柿坪)

以上のように、円山川流域にまず朝来郡・気多郡に軍団を配置し、ついで城崎郡出石郡、翌年に養父郡で、糸井から浅間へと円山川下流へ移している。

また但馬ではないが、氷上の水分れからすぐの重要だと思われる地に兵主神社がある。


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