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1-2 第一巻上 気多郡故事記「上の2神功皇后から」 現代語版

(前回までの簡単なあらすじ)

  • アメノホアカリ丹波に降りて、丹波を開いてのち但馬にやって来て、但馬ナミツキ(両槻天物部命)の子サクツヒコに佐々原を開かせた。
  • 第十代崇神天皇のころ、丹波のクガミミやツチグモが但馬のツチグモを加え日本海岸で暴れ、四道将軍タンバミチヌシの子ヒコイマスが但馬の将兵とともにやっつけた。
  • ヒコイマスに、タンバ・タジマ・フタカタ三国を与えられた。
  • 第12代景行天皇のころ、ヤマトタケルは東国を平定し、その臣下オオメフは摂津川辺・但馬気多・城崎を与えられる。オオメフは気多の大県主となる。

 

第15代(1) 神功皇后立朝の2年5月21日 気多の大県主オオメフ(物部連大売布命)が亡くなった。寿79歳。射楯丘(2)に葬る。

オオメフの子、キミタケ(物部多遅麻連公武)を多遅麻国造とし、府を気立県(のち気多)高田邑(今の久斗)に置く。 キミタケは、 アメノマヒトツ(天目一箇命)のスエ 葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、 ヒコサチ彦狭知命)のスエ 楯縫首を召し、矛・盾を作らせ、 イシコリトメ(石凝姥命)のスエ 伊多首を召し、鏡を作らせ、 アメノクシタマ(天櫛玉命)のスエ 日置部首を召し、曲玉(勾玉とも)を作らせ、 アメノホアカリ天明命)(3)六世の孫、タケハチネ(武碗根命)の裔 石作部イシツクリベ連を召し、石棺を作らせ、 ノミノスクネ(野見宿祢命)のスエ  土師臣陶人ハジノオミスエトを召し、埴輪ハニワカメ秀罇ホダリ(4)・陶壺スエツボを作らせた。 また、オオメフの御遺骸におもむき、 御統玉ミスマルノタマ(5)を以って、モトドリ(6)を結い、御統五十連ミスマルノイツラ(7)のタマを御クビに掛け、御霊ミタマの鏡を御胸に掲げ、御統玉を、手まとい・足まとい首に結び、 御剣を御腰に履かせ、御楯を左手に捧げ、御矛を右手に携え、磐石の上に立て、これを石棺に納めて、射楯の丘に葬る。 そして、埴輪ハニワを立てて、御酒を秀樽に盛った。 御食ミケを陶壺に盛りて、これを供え、草花を立てて、祀った。

上代の首長墳墓=古墳の埋葬方法が詳細に記述されている。)

神功皇后45年、新羅は、朝貢(*8)しなかった。将軍であるアラタワケ(荒田別命・豊城入彦命4世の孫)・カガワケ(鹿我別命・大彦命の末裔)は、新羅に行き、これを破った。

比自[火本]ヒシホ(ひしほ)・加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平定した。なお兵を移して西に廻り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラ耽羅タムラ済州島)倒し、百済クダラに向かった。

百済王は古沙山に登り、磐石の上にすわり誓った。

「もし草を敷いて座ろうとすれば、恐らくは火で焼かれるだろう。木を取って座ろうとすれば、恐らくは水のために流されるであろう。枯れ磐石にすわり、チカイを表わし、永久に臣を称すると信じよ。」

二人の将軍は、これらにより、増封され、荒田別命に多遅摩タヂマの太多邑(今の豊岡市日高町太田)および山口邑(いまの 〃栃本)を与えられた。

第16代仁徳天皇の元年(313年)4月に、 キミタケの子・タヂマビコ(物部多遅麻毘古)を、多遅麻国造タヂマノクニノミヤツコとし、府を日置邑に遷した。 タヂマビコは、キミタケを射楯丘に葬った。

5月、将軍アラタワケは、子のタカハセ(多奇波世君・他に竹葉瀬公と書く)の弟・タジ(田道公・他に田路と書くのであるいはトウジ)を山口邑に置き、タジの子・タダビコ(多田毘古)を多他邑(今の太田)に置いた。 それで、タダビコを多他別の田道という。 多他の名は、このアラタワケが夜夫県主ヤブアガタヌシ(三代)・タカノヒコ(竹野彦命)の娘・ウイヒメ(宇日比売命)を妻とし、タカハセ・タジを生んだことに基づく。

2年(314年)春3月、タヂマビコ(物部多遅麻毘古)は、キミタケのミタマ気多神社に合祀した。 これにならい、葦田首アシダノオビトは、鍛冶カジの祖・アメノマヒトツ(天目一箇命)を鍛冶の丘に合祀した。(式内葦田神社豊岡市中郷) 楯縫首タテヌイノオビトは、楯縫の祖・ヒコサチ彦狭知命)を楯屋の丘(多田ノ谷)に祀った。(式内楯縫神社豊岡市日高町鶴岡(古社地は多田谷) 伊多首イダノオビトは、鏡造りの祖・イシゴリドメ(石凝姥命)をイフク(鋳含)の丘に祀った。(式内井田神社豊岡市日高町鶴岡) 石作部連土師陶人イシツクリベノムラジハジノスエトらは、その祖・タケハチネ(建碗根命)・ノミノスクネ(野見宿祢命)を陶谷スダニの丘に合祀した。(式内須谷神社豊岡市日高町藤井) 日置首ヒオキノオビトは、その祖・クシタマ(櫛玉命)を日置の丘に祀った。(式内日置神社豊岡市日高町日置)

 

49年、新羅シラギは(またもや)朝貢しなかった。アラタワケ(荒田別命)の子・タカハセ(多奇波世君)を責めた。白鹿を獲って帰り、これを献上しました。重ねて、その弟の田道公を遣わしましたが、新羅はあなどりそむきました。田道公はこれを撃破し、4つの邑の人民を捕虜にして帰った。

55年、蝦夷エゾがそむいた。田道公を遣わして、討たせた。しかし、田道公の軍は敗れ、奮闘して死んでしまった。地元の人がそれを心痛めて葬った。蝦夷はますます怒り、略奪しようとその塚をあばくと、中に大蛇がおり、死体はほとんどなかった。

第18代反正天皇の3年(408年)春3月、タヂマビコ(物部連多遅麻毘古)の子、物部連多遅麻公タヂマノキミを、多遅麻国造とする。タヂマノキミは、タヂマビコを射楯丘に葬る。

第21代雄略天皇3年(459年)秋7月、黒田大連クロダノオオムラジを以て多遅麻国造とし、府を国府村に移す。

黒田大連は、アメノコヤネ天児屋根命)の末裔にして、大職冠・藤原鎌足公の5世の祖なり。

黒田大連は、アメノユカワタナ(天湯河板挙命)の末裔・美努連嘉摩ミヌノムラジヨシマを召し、鳥取部とし、鳥を捕まえ、御贄ミニエを作らせる。

有功の諸人を祀り、神門臣カムトノオミを召し、神人ミワヒトとする。

4年(460年)秋9月 美努連嘉摩ミヌノムラジヨシマは、その祖アメノユカワタナを国府邑に祀り、美努ミヌ・ミノ神社と称えまつる。(式内三野神社豊岡市日高町野々庄)

神門臣神人は、その祖、天穂日命12世の孫、鵜濡渟命を、神門の丘に祀る。(式内神門カムト(かんと)神社豊岡市日高町荒川)

17年(473年)春3月サク(1日) (国々に)詔して、土師ハジ等をしてまさに朝夕の御膳に盛る清器スエキ(須恵器)を献上させる。 これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、ただちに、摂津国来佐々村(大阪府豊能郡能勢町宿野・式内久佐々神社)、山背国内村(京都府宇治市)、俯見村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波京都府福知山市土師)・但馬・因幡の私民部を献上する。

但馬国出石郡埴野ハニノ村・養父郡土田ハンダ村・美含ミクミ阿故谷アコダニ村(今の豊岡市竹野町阿金谷)を贄土師部ニエハジベというのはこれによる。

18年(474年)春4月 気多郡陶谷スダニ村(今の豊岡市日高町奈佐路)の人、陶谷甕主スダニノカメヌシ出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人らは、美含郡に入り、阿故谷・陶谷(今の〃須谷)・埴生(今の〃羽入)・小碗(今の〃小丸)にて、陶器・清(須恵)器の類を作り、部落をなす。

陶谷甕主はその祖、野見宿禰ノミノスクネ命を陶谷丘に祀り、陶谷神社と申し祀る。(八幡神社豊岡市竹野町鬼神谷)

阿故氏人は、その祖土師連の祖・阿居命(一に吾笥)を阿故谷丘に祀る。(森神社・式内阿古谷神社豊岡市竹野町轟

小埦甕人はその祖、建小埦根命を小埦丘に祀り、小埦神社と申しまつる。(八坂神社豊岡市竹野町小丸) 土師臣手抓は、その祖土師部連命を埴生の丘に祀る。

第25代武烈天皇3年(501年)夏六月 大鹿連オオカノムラジは、その祖アメノコヤネ天児屋根命)・黒田大連命を大鹿山(大岡山)に祀る。

(大鹿連の子大鹿首は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)

4年(502年)春4月 大鹿連玉祖宿祢タマソノスクネを召し、五百個の御統玉ミスマリタマを作らせ、大鹿神の御首に掲げまつる。日置部首玉磨ヒオキノオビトタマスリに、 かつら・手まとい・足まといの玉を作らせて着ける。 伊多首真澄に、胸乳の鏡を作らせ、胸乳に掲げる。

5年(503年)夏5月 玉祖宿祢は、その祖・玉荒木命を伊爪の丘に祀り、玉荒木神社と称えまつる。(式内玉良木神社 (多摩良木・多麻良岐・玉荒木)神社豊岡市日高町猪爪字玉谷367)

第28代宣化天皇の3年(538年)夏6月 能登臣気多命を多遅麻国造とする。 能登臣命は、その祖、大入杵命オオイリキ気多神社に合わせ祀る。 大入杵命は、崇神天皇尾張連の祖、武刀米命の娘、大海部姫命を妻にし、生まれた。能登臣の祖である。

第30代敏達天皇13年(584年)春3月 止美連吉雄トベノムラジヨシオをもって、多遅麻国造とする。 吉雄は、その祖 大荒田別命の子 多奇波世君の弟・田道公を多他タダ村に祀り、止美トベ神社と称えまつる。(式内名神大 ヘ・との神社豊岡市日高町十戸18-1) また多他毘売命を多他丘に祀り、太多神社と称えまつる。(国主神社?:豊岡市日高町太田1) 田道公の子孫は田道村にあり、田道公を斎き祀る。これ田道にある一宮神社はこれなり。(威徳神社豊岡市日高町栃本301)

第34代舒明ジョメイ天皇の3年(631年)秋8月 垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命イカタラシヒコの裔 山公峯男ヤマノキミミネオを多遅麻国造とする。 山部を司る山公峯男は、その祖 五十日帯彦イカタラシヒコ命を太多村に祀り、山宮ヤマノミヤと称えまつる。(式内名神大 山神社豊岡市日高町山宮409-3)

第36代孝徳天皇の大化3年(647年) 多遅麻国気多郡高田ムラ兵庫ヤグラ9)を造り、郡国の甲冑カッチュウ・弓矢を収集し、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含をツカサどらせる。 (高田村は今の久斗) ウマシマジ(宇麻志摩遅命)の六世孫・イカシコオ(伊香色男命)の末裔、矢集連高負ヤヅメノムラジタカフを、大穀ダイキ(10)為し、 大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀ショウキ(10)とする。 景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉コウイ(10)とし、 道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および的羽イクハの武矢・勇矢を以って旅師ロソチ(10)とし、 伊多(井田・伊福、今の鶴岡)首の末裔・貴志麻侶、葦田首の末裔・千足、石作部の末裔・石井、日置部の末裔・多麻雄、楯縫部(今の鶴岡多田谷)の末裔・鉾多知ホコタチ美努ミヌ・ミノ(三野・今の野々庄)連の末裔・嘉津男らを隊正タイショウ(10)とする。

およそ軍事においては、 弓一張、征箭ソヤ11) 50隻、太刀タチ一口、一火、駄馬6頭、一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭(5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人を一軍団と為す) (1 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。) 革鼓2面 軍穀これを掌り、大角2口 校尉これを掌り、 小角4口 旅師これを掌り、努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌り、 兵庫は主帳これを掌る。 能登臣命の末裔、広麿を主帳に任じ、兵器の出納および調達を掌らせ、兵卒を招集し、非常を警備し、駅鈴(12)を鳴らす。 駅鈴は鈴蔵に蔵し、国司がこれを掌り、典鑰テンヤク13)これを出納し、健児コンデイ14)は、これを守衛する。

美含の郡司桑原臣多奇市の4世孫、吉井麿は鈴蔵の典鑰となる。 葦田氏はツルギホコカブラヤジリを鍛え、 矢作氏は弓矢を作り、 楯縫氏は革楯・木楯を作る。 箭竹ヤダケは竹貫氏が調達し、 矢羽は鳥取部氏が調達し、 矢作のマユミは真弓氏が調達し、 鞘柄サヤエ栗栖クリス氏が調達し、 石矛・石鎚は石作氏が調達し、 すべての鋳物は伊多氏が調達する。 矢作氏はフツヌシ(経津主命)の末裔である。大毅の矢集連高負は、これを大和国に報告し、多田村に置く。 真弓氏は二方国造真弓射早彦の子である。壇を二方国真弓岡で徴収し、作る。壇岡は山公峯男の領める所である。(壇岡は今の美方郡香美町村岡区柤岡ケビオカ) 竹貫氏はいわゆる武貫彦命の末裔である。篠竹を篠丘に徴収し、作る。篠民部シノカキベ村(今の豊岡市日高町篠垣)である。 鳥取部はいわゆる美努連の末裔である。 栗栖氏はウマシマジの末裔である。

大化4年(648年)秋8月 矢作連は、その祖フツヌシを矢作丘に祀る。栗栖連はウマシマジを栗栖邑に祀る。矢作神社・栗栖神社これなり。(豊岡市日高町栗栖野)(村社三柱神社豊岡市日高町栗栖野184、八重垣神社豊岡市日高町神鍋字長者ヶ森851)


[註] 1 神功皇后は、第14代仲哀天皇の大后。仲哀天皇崩御の後、摂政となられたので歴代天皇ではないが、『国司文書 但馬故事記』では人皇十五代としている。 2 射楯(イダテ) 石立村 明治に今の国分寺と合併 3 天明命 石作神社(岐阜県羽島郡岐南町三宅)に、「建眞利根命は、天照大神の御孫天火明命の6世の子孫である。石作氏一族は石作りを業とし、各地で活動する大氏族となり、祖先をお祀りする石作神社を創建した。式内社尾張地方に4社もあることは石作氏一族の繁栄を示している。」とあるので、天火明命のようだ。 4 秀罇 ホダリ 酒を入れる、銚子(ちょうし)・瓶子(へいし)の類 5 御統玉(ミスマルノタマ) 御統は、多くの玉を糸に通して輪とし、首にかけたり腕に巻いたりして飾りとした古代の装身具。その玉は丸い石やガラスであったり、勾玉を用いた。 6 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上に束ねた所。たぶさ。 7 御統五十連(ミスマルノイツラ) 人間の視(みる)・聴(きく)・嗅(かぐ)・味(あじ)・触(ふれる)の「五器官」は、霊界にも、幽界にも感知する超五官器官、 即ち時間空間のない無限世界を知ることの出来る魂を持っていると思われていたのだろうか。 8 朝貢 朝貢とは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。しかし倭国神功皇后の頃、大和地方を中心に国家が統一され中央集権化されていたかははっきりしない。 9 兵庫 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。 10 大穀(だいき)・他 軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。 軍団の規模によって 千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。 六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。 五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。 11 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。 12 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。 13 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。 14 健児 奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。)


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