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第2章 2.天日槍と伊和大神の国争い

[caption id=“attachment_146961” align=“alignnone” width=“300”] 播磨国一宮 伊和神社[/caption]

奈良時代に編集された播磨国の地誌『播磨国風土記』(国宝)の成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。ちなみに『風土記』とは奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。写本として現存するのは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。後世の書物逸文として引用された一部が残るのみである。その中で『但馬国風土記』の焼失を惜しんで、のちに但馬国府の役人が編纂した『国司文書 但馬故事記』は貴重な史料である。

播磨国風土記』[*1]には伊和大神いわのおおかみ天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。

ヒボコと伊和大神の国争い

(中略)ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命アシハラシノミコトに土地を求めたが、海上しか許されなかった。 ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘イイボノオカに上がった。 葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿シニダケ(=藤無山)[*1]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。 その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。 ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。 神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

[現代語訳]

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。 日本に着いたアメノヒボコは、難波なにわ(=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。 そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国はりまのくににやって来たのです。 播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、 「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」 と断りました。 ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。 「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」 大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。 一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。 二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。 二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。 「このままではまわりの者が困るだけだ。」 そこで二人は、こんなふうに話し合いました。 「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」 二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。 二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。 「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、 「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。 「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」 伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。 アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコ但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。 ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。 その後アメノヒボコ但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。

「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」より

*1 志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま) 宍粟市養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。

播磨国風土記』にあるヒボコの足取りをまとめると、

播磨国揖保川河口-粒丘(揖保郡)-神前(神崎)郡多駝里粳岡(福崎町)-志爾蒿(シニダケ=藤無山)-御方里(宍粟郡三方)御形神社━

┳━(天日槍は但馬国)  出石 但馬国一宮 出石神社 ┗━(伊和大神は播磨国) 宍粟 播磨国一宮 伊和神社

播磨国風土記

[caption id=“attachment_145629” align=“alignnone” width=“281”] 御形神社[/caption]

式内 御形神社

兵庫県宍粟市一宮町森添280 中殿 葦原志許男神(アシハラノオ) 左殿 高皇産靈神(タカミムスビ素戔嗚神スサノオ) 右殿 月夜見神ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ

ご祭神葦原志許男神の又の御名を大国主神。社名「御形」は、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植え形見代・御形代より。 この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。「御形神社HP」

 

[註]

*1 伊和氏(いわし) 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされます。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在します。

参考資料:兵庫県立歴史博物館 「考古学と歴史」放送大学客員教授奈良大学教授 白石太一郎 2009/08/29


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