但馬国ねっと風土記

但馬国ねっとで風土記 【はてな】

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

3 第三巻・養父郡故事記

アメノホアカリ(天照国照彦饒速日天火明命)は、その后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょにサカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・アメノフナヤマ(天船山命)・サクツヒコ(佐久津彦命)を率いて、アマテラス(天照大神)の勅により天の磐船に乗り、タニワ(田庭)の真名井原に降り、トヨウケ(豊受姫命)に従い、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子をとり、射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、水稲の種や麦・いも・アワの陸種をつくるために、大小の田に蒔いた。秋には垂穂の長い穂が一帯に広がった。

トヨウケは、これを見て大いに喜び、「大変良い。これを田庭中に植えなさい」と皆にいった。

そしてトヨウケはアメノクマビト(天熊人命)に、アメノホアカリに従って田作りの事業を補佐をさせて、そしてのち、高天原に上って(帰って)いった。

したがって、この地を田庭タニワという。丹波の名はこれに始まる。

そのあと、アメノホアカリは五穀蚕桑の事業を国中に起こし、大いにおおみたから(蒼生)を幸福にした。この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ少彦名命)・ウカノミタマ(蒼稲御魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。 「あなたは、この国を治めるのがよい。」 アメノホアカリは、大いに喜び言った。 「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる) それでこの地を志楽国という。(京都府舞鶴市志楽あり)

アメノホアカリは、これより西に向かい、タニマ(谿間)に来た。清明スアカリノミヤに駐まる。

豊岡原に降り、御田を開く。

タルヒノアマモノノベに真名井を掘らせ、御田に灌水する。するとその秋、垂穂の長い穂が一帯に広がった。 それでその地を豊岡原といい、真名井を御田井という。(のち小田井に改める)

アメノホアカリは、また南に向かい、佐々前原に至り、磐船宮に止まる。 サクツヒコ(佐久津彦命)を、篠生原に就かせ、御田を開き、御津川を掘り、水を引く。後世、その地を真田の稲飯原という。いま佐田伊原と称する。これが気多郡佐々前村である。

サクツヒコは佐久宮に坐し、アメノイワフネ(天磐船命)は磐船宮に坐す。 アメノホアカリは、またアメノクマビト(天熊人命)を夜夫やぶに遣わし、蚕桑の地を物色させる。アメノクマビトは夜父の谿間たにまに就き、桑を植え、蚕を屋岡やおかう。それで谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。(谿間は但馬たじまの古名)

天火明命はこの時、浅間の西奇霊クシヒ宮に坐し(式内浅間神社)、アメノイワフネの子、船山命を供にまつる。

佐々前県主のサクツヒコは、アメノホアカリの妃、アメノミチヒメ(天道姫命)の侍婢、シマヘノアマモノノベの娘、佐々守良姫命を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)を生む。

天火明命は、サキツヒコに命じて、浅間原を開かせる。サキツヒコは小田井にたたえ、これを御田にそそぐ。それで稲栄イナサ大生原オオイハラという。(今の伊佐の大江)

サキツヒコは、タルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメ(美井津比売命)を妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。

サキツヒコとアルチは花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。

アメノフナヤマ(天船山命)は、船山宮に坐(いま)す。 アメノミチヒメ(天道姫命)は、浅間の東奇霊宮に、アメノホアカリ天火明命)は、西奇霊宮に鎮まり坐し、 ミイツヒメ(美井津姫命)は、深谷の丘に鎮まり坐す。

その時、オオナムチ・スクナビコナ・ウカノミタマは、高志国より帰り、御出石県に入り、その地を開いて、この地に至り、アメノホアカリを招集して、

「なんじは、この国を治めなさい」といった。

アメノホアカリは大いに喜び、 「あな美し永世です。青雲弥生国なり」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)と。(*1)

オオナムチはウカノミタマに、「アメノクマビトとともに心を合わせ、力をともにし、国作りの事業を助けなさい。」と教えられた。

2人の神は、アメノホアカリに、比地の原を開かせ、 タルヒノアマモノノベに、比地に行き、真名井を掘り、御田を開き、水を引く。すぐに垂穂が秋の野一帯に充ちた。 それでこの地を比地の真名井原という。(比地は霊異の意味。比地県はのち朝来郡アメノホアカリは、 イキシニギホ(稲年饒穂命)を小田井県主とし、(小田井県は、のち黄沼前県、その後、城崎郡) イキシニギホの子、タケニギホ(武饒穂命)を美伊県主とし、(美伊県は、のち美含郡) サクツヒコを佐々前県主とし、(佐々前県は、のち気多郡) サクツヒコの子、サキツヒコを屋岡県主とし、(屋岡県は、のち養父郡) イサフタマ(伊佐布魂命)の子、イサミタマ(伊佐御魂命)を比地の県主とする。

アメノホアカリは、タケニギホ(武饒穂命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)らを伴い、天の磐船に乗り、美伊県に至る。 その時、狭津川(のち佐津川)より黄色の泥水が流れ出て、船を黄色にした。それでこの川を黃船川という。 船はイカリ山に泊まり、川の瀬戸を切り開き、瀬崎を築いた。その水嶋山のうしろに漂う。せれで水ヶ浦という。 アメノホアカリは黄船宮に鎮まり坐す。タケニギホは、オオナムチの娘、白山比咩命(またの名は美伊比咩命、または木俣命)を妻にし、タケシマ(武志麻命)を生む。狭津の美伊谷という。

アメノホアカリの神としてのしごとは終わり、徳は大いにあり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡回し、田庭国(丹波)を経て、河内に入り、哮峰イカルガミネに止まり、大和白庭山に至る。

跡見酋長跡見長髄彦の妹、ミカシキヤヒメ(御炊屋姫命)を妻にし、ウマシマジ(宇麻志麻遅命)を生む。

第1代神武天皇8年(BC653年)夏6月 サクツヒコの子サキツヒコを屋岡県主とする。サキツヒコはタルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメを妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。※

※すでに、アメノホアカリの項に記載があるが、気多郡故事記もこの年号なのでこちらを採用する。サキツヒコは佐々前県主から弟のサクタヒコ(佐久田彦命)が同9年10月、佐々前県主となるまで、しばらく両県を兼務していたことになる。

15年(BC646年)秋8月 サキツヒコは、オオナムチを朱近(夜夫の苗葉山)に斎き祀り、またアメノホアカリを浅間の西奇霊宮に、アメノミチヒメを浅間の東奇霊宮に斎き祀る。(式内 養父神社・浅間神社

因幡ヤガミヒメ(八上姫命)は、御子のミイヒメ(御井比咩命)を大屋の比々良木の下に置いて去る。それで、土地の神たちは崇めて、大屋宮に祀る。(式内御井神社兵庫県養父市大屋町宮本481) ミイヒメはのちに母に従い、気多の比遅井宮に遷り、鎮まり坐す。(式内御井神社豊岡市日高町土居228) ヤガミヒメは天珂森宮に鎮まり坐し、ミイヒメは美伊県主のタケニギホに嫁いだ。 天珂森神社豊岡市日高町山本269

第2代綏靖天皇15年(BC567年)夏6月 サキツヒコの子、アルチを屋岡県主とする。 アルチは、アメノフナヤマヒメ(天船山毘売命)を妻にし、オオテルヒコ(大照彦命)を生む。

第4代懿徳天皇20年(BC491年)夏4月 アルチの子オオテルヒコを屋岡県主とする。オオテルヒコは大屋宮に遷る。 オオテルヒコは、佐々前県佐久山彦命主の娘、サクラビメ(佐久良毘売命)を妻にし、ナカオマワカ(中男真若命)を生む。 オオテルヒコは、サキツヒコ・アルチを花岡山に祀る。 (花岡神社養父市八鹿町坂本650-1)

第5代孝昭天皇40年(BC436年)夏5月 オオテルヒコの子、ナカオマワカを屋岡県主とする。 ナカオマワカは、御出石県主アメノハガマ(天波賀麻命)の娘、大美毘売命を妻にし、トチノヤヒコ(遠屋彦命)を生む。ナカオマワカは、遠屋宮に在す。(遠屋はのちの建屋郷)

第6代孝安天皇50年(BC343年)秋7月 ナカオマワカの子、トチノヤヒコを屋岡県主とする。 トチノヤヒコは、比地県主オオテルヒ(大照日命)の娘、テルワカビメ(照若毘売命)を妻にし、イサワヒコ(石禾彦命)を生む。

第7代孝霊天皇30年(BC261年)秋9月 トチノヤヒコの子、イサワヒコを屋岡県主とする。 イサワヒコは、小田井県主フクヒノスクネ(布久比足尼命)の娘、ミミイヒメ(美々井比売命)を妻にし、ミカタラシヒコ(美香帯彦命)を生む。

第8代孝元天皇20年(BC195年)冬10月 イサワヒコの子、ミカタラシヒコを屋岡県主とする。 ミカタラシヒコは、比地県主・玉前真若命の娘、玉前毘売命を妻にし、ミツタマヒコ(美津玉彦命)を屋岡県主とする。

第9代開化天皇56年(BC102年)秋7月 ミカタラシヒコの子、ミツタマヒコを屋岡県主とする。 この御世になると、土地は大いに開ける。それで弥生ヤブと名づける。

ミツタマヒコは、伊曾布県主・黒田大彦命の娘、アサヂヒメ(浅茅比咩命)を妻とするが、御子はなし。

第10代崇神天皇10年(BC88年)秋9月 丹波青葉山の賊クガミミのミカサ、ツチグモヒキメら群盗を集め、民のものを略奪する。

(これ以降は、気多郡故事記にて割愛)

第11代垂仁天皇10年(BC20年)夏6月 気多県主・当芸利彦命を夜父県主とする。母はイコハヤワケ(伊許波夜別命)の娘、伊曾志毘売命である。

天皇は、狭津彦命の妹・狭穂姫命(またの名は佐比遅比売命)を妻にし、ホムツワケ(誉津別命)を生み給う。

ホムツワケは、長いあごひげを生やし、年は30になっても、なお泣き、話すことができない。天皇はこれを大いに憂い、23年秋9月初め、群卿に詔して申された。

「ホムツワケが30になってもあごひげを長く伸ばし、泣くこと子どもの如く、常に話さず、何の原因か。みなで会議せよ。」

冬10月初め 天皇は大殿の前に立ち、ホムツワケ王は、そば近くにひかえている。その時、クグイ(*2)が鳴いて大空を渡った。

ホムツワケ王は、それを見て、「これは何ものだ?」と話した。

すると天皇は、王子が鵠を見て、初めて言葉を得たのを知って喜び、 「誰かこの鳥をつかまえなさい。」と命じた。 これに、鳥取部の祖、アメノユカワタナ(天湯河板挙命)は、 「必ず捕まえて参ります。」と申し上げた。 天皇はアメノユカワタナに命じて「この鳥を捕まえれば、必ず厚く賞する」と。

アメノユカワタナは、クグイを追い、紀の国・播磨を経て、因幡・但馬・丹波と東の方を追い回り、近江・美濃・尾張信濃・越の国・丹波を越えて、ついに但馬の和那美水門に網を張り、その鳥を捕まえ献上した。それでこの水門を「和那美の水門」という。

天皇は大いに喜び、姓の鳥取部連を与え、諸国に命じ鳥取部を定め、アメノユカワタナに与えた。

出雲の宇夜江(現在の島根県出雲市斐川町宇屋谷付近)・因幡丹波・越・信濃・美濃・播磨・紀の国の鳥取部らはこれである。

アメノユカワタナは、夜父県の和那美神社に鎮座する。(式内和那美神社養父市八鹿町下網場156)

第12代景行天皇3年(73年)秋7月 アセビヒコ(阿瀬日彦命)の子、タカノヒコ(竹野彦命)を夜父県主とする。母は多遅麻国造、天橘守命の娘、細見姫命である。

第13代成務天皇5年(135年)秋9月 丹波竹野君の同祖、ヒコイマス(彦坐命)の5世孫、フナホノスクネ(船穂足尼命)を、多遅麻国造とする。

フナホノスクネは、県主オオタムサカ(大多牟坂命)の子で、母は墨坂大中津彦命の娘・大中津姫である。

神功皇后は、仲哀天皇の2年(193年)夜父大神に参拝し、熊襲の降伏を祈願する。

神功皇后の元年(201年)夏5月 多遅麻国造のフナホノスクネが亡くなる。寿67歳。21日、大養父船丘山に葬る。

それで、この地を弥生やぶと云う。(中略)佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて屋岡県主と為し、(屋岡は弥生の丘の義)

オオメフ(物部連大売布命)の子・キミタケ(物部多遅麻連公武)を多遅麻国造とする。船穂足尼命の娘・美愛志姫命を妻にし、物部連多遅麻毘古を生み、美愛志姫命の弟・ウルハ(宇留波命)を夜父県主とする。

ウルハは、フナホノスクネを夜父宮下座に斎き祀り(名神大養父神社養父市養父市場827-3)、また将軍・丹波道主命を水谷の丘に祀り、これを水谷神社と称しまつる。(名神大水谷神社養父市奥米地235)

第15代応神天皇元年(270年)秋7月 ウルハの子・建稲種子命を夜父県主とする。母は朝来県主マサカツノスクネ(当勝足尼命)の娘・勝田姫命である。 建稲種子命は、その父・ウルハを宮代の丘に祀る(式内宇留波神社養父市口米地1)

第16代仁徳天皇30年(342年)夏6月 建稲種子命の子・オオイリネ(大入尼命)を夜父郡司とする。母は多遅麻国造物部多遅麻連公武の娘・綾目姫命である。

第18代反正天皇2年(407年)秋9月 オオイリネの子・大足尼命を夜父郡司(県を郡に改め県主を郡司とする)とする。母は紀の国名草郡紀直吉角の娘・若毘売命である。

第20代雄略天皇17年(473年)春3月初め 土師連らに詔して、朝夕の御食を盛る清器を納めさせる。 献上させる。 これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、摂津国来佐々村(大阪府豊能郡能勢町宿野)、山背国内村(京都府宇治市)、俯見村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波京都府福知山市)・但馬・因幡私民部キサイカキベ鳥取県八頭郡八頭町市場)をたてまつり、これを贄土師部という。

養父郡土田ハンダ村はこれである。土師の民部・本の民部・内蔵(のち大蔵)の民部はこの地に居り、のち部落をなす。

土師の民部らは、その祖・野見宿祢ノミノスクネ命および阿笥アケ命を土田ハンダの丘に祀り、民部カキベ神社という。(村社大歳神社朝来市和田山町土田1238)

第30代敏達天皇5年(574年)夏6月 若足尼命の甥・高野直夫幡彦タカノノアタエフバタヒコを夜父郡司とする。紀国名草郡の人である。

この御世、仏を信じ、国の祭りを軽んじる(*3)。これによってか、諸国に悪い疫病が流行り、穀物は実らず、人が多く死に、民が苦しんだ。

天皇は詔して、神祇を崇拝させる。

郡司高野直夫幡彦は、この災害を(*4)祓おうと願い、14年(583年)夏5月 石原山に祀ろうと、草むらを開き、

天御中主アメノミナカヌシ神・高皇産霊タカミムスビ神・神皇産霊カミムスビ五十猛神(またの名は大屋津彦命)・抓津姫ツマツヒメ神、己が祖・大名草彦命のおよそ7坐を祀る。(式内名草神社養父市八鹿町石原1755-6)

五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神スサノオ素盞鳴神の御子、大名草彦命は神皇産霊神の御子である。

第33代推古天皇15年(607年)冬10月 多遅麻国夜父郡養耆邑に屯倉(*5)を設け、米・粟を貯え、貧民救済のために備える。 大彦命の子、波多武彦命の末裔・大与比命に、これを管轄させる。その後裔を三宅氏という。 三宅首は、その祖・大与比命を三宅に祀り、大与比神社と申しまつる。(式内大輿比神社養父市三宅392 輿は与の旧字)

35年(627年)秋5月 高野直夫幡彦の子、高野直石木麿を夜父郡司とする。母の若香毘売は若足尼命の子である。

第36代孝徳天皇の大化元年(645年)春3月 多遅麻国造フナホノスクネ(船穂足尼命)九世孫、日下部宿祢を夜父郡司とする。

白雉4年(653年)秋7月 日下部宿祢の子、都牟目を夜父郡司とする。第40代天武天皇の白凰12年(683年)冬10月 紀臣の子・麻奈臣の子・保奈麻臣を夜父郡司とする。 保奈麻臣は遠佐郷(今の養父市八鹿町小佐)を開き、その祖・武内宿祢を屋岡の丘に祭り、屋岡神社と申しまつる。(式内屋岡神社養父市八鹿町八鹿1513)

また紀臣を大恵保(今の養父市八鹿町大江)に祀り、保奈麻神社と申しまつる。遠佐郷開拓の祖である。(保奈麻神社は現存しないが、大江の村社は春日神社養父市八鹿町大江542-1)

第41代持統天皇2年(688年)秋7月 三宅宿祢神床(6)は、陣法博士イクサノリノハカセ大生部了オホフベノサトル(7)を率いて、夜父郡更杵サラキネ邑(今の朝来市和田山町寺内)に来る。一国の壮丁(*8)の四分の一を招集し、武事を講習する。

またその地に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。(式内更杵神社朝来市和田山町寺内字宮谷・十六柱神社朝来市和田山町林垣字門前1285)

神床の子、博床は、更杵邑に留まり、大生部了の子、広とともに軍事を司る。(博床の子孫を糸井連という) また兵器を造るため、 楯縫連吉彦を召し、楯を作らせ、 矢作連諸男を召し、矢弓を作らせ、 葦田首形名を召し、矛および刀剣を作らせる。

楯縫連吉彦はその祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる。 矢作連諸男はその祖・経津主命を兵庫の側に祀り、桐原神社と申しまつる。(式内桐原神社朝来市和田山町室尾169-21) 葦田首形名はその祖・天目一箇命を兵庫の側に祀り、葦田神社と申しまつる。

第42代文武天皇大宝元年(701年)冬12月 朝来郡司・荒島宿祢の子、磯継を夜父郡司とし、 保奈麻臣の甥・寺人を主政とし、 その弟・少君を主帳とする。

第43代元明天皇和銅5年(712年)秋7月 糸井連厳床は勅を奉じ、幡文造束緒を召し、織工を集め、綾錦の方法を教え、栲を和田に作り、その皮で栲布を織らせる。また蚕を高生に養い、繰糸で錦綾を織らせる。 そして、天萬栲幡姫命を栲幡原に祀り、錦綾の精巧を祈る。歳時に祀り奉る。 幡文造束緒を高生に祀り、産土神とする。(村社若宮神社朝来市和田山町高生田656) 糸井連厳床の子孫らは、厳床を竹野内の丘に祀り、氏神とし、厳床神社という。(村社威徳神社朝来市和田山町竹ノ内303-1)

第44代元正天皇の養老3年(719年)冬10月 機業が拡張したので、当郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所を置く。 伊久刀首武雄を判官とし、 大蔵宿祢散味を主典とする。 伊久刀首武雄は、兵主神を浅倉に祀り、その祖・雷大臣命を赤坂の丘に祀る。兵主神社・伊久刀神社これなり。(式内兵主神社豊岡市日高町浅倉202・式内伊久刀神社豊岡市日高町赤崎字家ノ上438)

7年(723年)春2月 但馬国の寺人・小君・椅君・寺君・由君ら5人を改めて、道守臣の姓を与える。 道守臣寺人は、その祖・波多八代宿祢を盈岡ミツオカに祀る。 石禾邑はその所領である。(式内盈岡神社朝来市和田山町宮内42) 主典・大倉宿祢散味は、その祖・阿智王を青山に祀り、大蔵神社と申しまつる。阿智王は後漢霊帝劉宏リュウコウの子・延王の子孫である。(村社大蔵神社養父市八鹿町青山82-2)

第45代聖武天皇天平2年(730年)春3月 多遅麻国造・山公峯男の末裔・山公樽男を夜父郡司とし、 杜公芳男を主政とし、 吉井宿祢幕里を主帳とする。(養父市万久里がある) 山公樽男はその祖・五十日足彦命を養耆邑に祀り、夜伎坐山神社と申しまつり、(山神神社(式内 夜伎村坐山神社)養父市八鹿町八木1182-1) 杜公芳男はその祖・大確命を建野屋邑に祀り、杜内神社と申しまつり、(式内社内神社養父市森919) 吉井宿祢幕里は、その祖・高麗国人、伊利須使主麻弖臣を養耆邑に祀り、井上神社と申しまつる。(式内井上神社養父市吉井1656-1)

10年(738年)夏5月 健児所を廃止する。 11年(739年)夏6月 兵庫の百丁を調べ、神庫に納め、衛守を置き守らせる。 18年(746年)冬12月 さらに兵士を置き、一国の壮丁を招集し、これに充てる。 先帝の元正天皇は、天下に令し、地方の荒れ地を開くため、三世一身の制(*9)を定める。 そうとはいっても、三世続かなければ、すぐに公に返す定めとする。これによって、開発をする者は少なかった。

今の聖武天皇は、この制を改め、永く私領とすることのできる制を定められた。 これによって、高位高官はもとより、伴造(10)・国造(11)らの旧族に至るまで、国守・郡司の官を罷め、その土地に住む。そして各々は私領を召し、租庸調の役(12)を免れるために、本籍の人を離してその耕田に従事させる。 これにおいて、軽の我孫らは因幡国より当国に来た。軽邑を開く。軽邑部民ら、のち改めて軽部という。(今の養父市上箇。村社軽部神社) 軽の吾孫らは、大国主彦坐命の4世孫、彦白髪命の末裔である。子孫はいっぱいに増えて聚楽をつくる。武屋・乙屋・建屋などである。 水を田畑に注ぐため垂樋(用水路)を作る。垂水公(13)の祖・賀保真若命を玉水の丘に祀り、玉水神社と申しまつる。(村社玉水神社養父市玉見38) 軽の我孫らはその祖・彦坐命4世の孫・彦白髪命をそれぞれの地に祀る。

笠臣益世がやって来る。大屋邑を開く。笠臣益世はその祖・稚武彦命を大屋の丘に祀り、加佐神社と申しまつる。(加保の一ノ宮神社ではないだろうか)

志賀連果安がやって来る。養耆の羽山を開く。それでその地を志貴という。 志貴連果安は、その祖・彦湯支命を羽山の丘に祀り、志貴神社と申しまつる。(関神社養父市関宮1017の1)

第47代淳仁天皇天平宝宇3年(759年)夏6月 田中臣正名を健児所の判官とし、小田寄人を主典とする。 田中臣正名は、その祖・許勢小柄宿祢を宿南の丘に祀り、(村社田中神社養父市八鹿町宿南1027) 小田寄人は、その祖・屋奈岐命を小田の丘に祀る。屋奈岐命は、豊城入彦命の八世孫・射狭命の子である。(村社柳神社養父市八鹿町上小田448-4)

5年(761年)秋8月 坂合部連伊志岐を養父郡司とし、忍坂連美佐加を主政とし、吉井宿祢万佐喜を主帳とする。 坂合部連伊志岐は、その祖・大彦命を上山の丘に祀り、坂蓋神社と申しまつる。三方邑はその所領である。(坂益神社(式内 板蓋神社)養父市大屋町上山6-1) 忍坂連美佐加は、その祖・天火明命を三方の丘に祀り、忍坂神社と申しまつる。(式内男坂神社養父市大屋町宮垣字天満山196) 吉井宿祢万佐喜は、吉井宿祢を井上宮に合わせ祀る。(式内井上神社養父市吉井1656-1)

第51代平城天皇の大同2年(807年)夏4月 出石郡司高橋臣義成の末裔・高橋臣義材を養父郡司とし、高橋臣義材は、その祖・手谷神を石禾邑に祀る。石禾邑はその所領である。(式内手谷神社朝来市和田山町寺谷字宮ノ下162)(出石郡に同名の式内手谷神社豊岡市但東町河本885)

第52代嵯峨天皇の弘仁4年(813年)春正月 但馬国養父郡に令し、郡司の子妹、年は16歳以上20歳以下の容姿端麗にして、采女と為すに耐える者、各一人をたてまつらしむ。

第54代仁明天皇の承和7年(840年)夏5月初め 養父郡兵庫のツヅミが理由もなく夜に鳴り、数里に聞こえた。 また、気多郡兵庫のツヅミが自ら鳴らすことは、鼓行(太鼓を鳴らして進軍すること)のようだ。

12年(845年)秋7月 但馬国養父郡無位養父神に従五位上を授かる。国司らの解状による。

第56代清和天皇の貞観11年(869年)春3月22日 従五位上養父神に正五位下を授く。

16年(849年)春3月 正五位下養父神に正五位上を授く。

第57代陽成天皇の元慶元年(877年)春正月初め 天皇は豊楽殿にて即位され、3日間宴を群臣に振る舞われた。この日、但馬国は白キジをを献上する。よって貞観を改めて元慶という。

元年4月16日 その白雉を出した養父郡に、当年の庸を免じ、その捕獲者、但馬公得継を正六位上に叙する。

第59代宇多天皇の寛平5年(893年) 従八位上・荒島宿祢利実を養父郡司に任ずる。荒島宿祢の八世孫である。

右、国司解状により、これを進上する。 養父大領従八位上 荒島宿祢利実 承平五年(935)八月十五日


[註]

1 弥生国 『国司文書 但馬故事記』訳注者吾郷清彦氏は、「この弥生はヤフと読むべきであろう。このヤフにのち夜父と漢字を当て、これをさらに養父と字を改めた」とする。 2 鵠(くぐい) 白鳥の古名 3 仏を信じ、国の祭りを軽んず 敏達天皇元年、蘇我馬子の力が大きくなり、大臣に任じられている。5年頃になると馬子の勢力は益々大きくなり、仏教信仰が全国的に伝播していき、国の祭り、すなわち神を軽んずるに至った。全国的な悪疫流行と飢饉は、蛮神尊信による神罰として、保守的庶民の目に映った。 4 上記に対抗して、物部守屋は祭祀を司る中臣氏と手を組んで、蛮神排除・祖神崇拝を起こした。夜父郡においても、郡司の高野直夫幡彦は、神祠崇拝の詔を受けて、15年石原山に、造化三神の他に、五十猛神他二柱と、己の祖・大名草彦命を祀った。(式内名草神社 5 夜父郡養耆邑に屯倉 現在の養父市八鹿町八木・養父市三宅 6 三宅宿祢神床 多遅麻毛理の七世孫、中島公は出石郡屯倉を管理する。それで三宅氏となる。三宅吉士の姓を賜う。その祖・多遅麻毛理を屯倉の丘に祀り、中島神社という。神床はその子孫。 7 陣法博士大生部了 『日本書紀』に「陣法博士を遣わして、諸国に教え習わしむ」とある。大生部了は陣法博士として招かれ、きのさ 8 壮丁(そうてい) 律令国の成年に達した男子、または労役や軍役に服せられる者。 9 三世一身の制 養老7年(723)4月 太政官の上奏によって定められた新田開発に関する法令 10 伴造(とものみやつこ) 古代皇室の部民を率いる有力な氏が、朝廷に必要な手工業品等を生産する品部という部民を率い、これらの手工業品を朝廷に納める職務。 11 国造(くにのみやつこ) 地方の豪族的存在で、土地・人民を領有する国の首長。世襲的地方官としての地位が与えられた。 12 租庸調の役 租…獲れた稲50束に応じて稲2束を課す。庸…労役またはその代償として布を納める税。調…郷土の産物に課す人頭税(納税能力に関係なく、全ての国民1人につき一定額を課す税金)。 *13 垂水公 垂氷を司る役職

オホフベノサトルアメノホアカリ(天照国照彦饒速日天火明命)は、その后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょにサカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・アメノフナヤマ(天船山命)・サキツヒコ(佐伎津彦命)を率いて、アマテラス(天照大神)の勅により天の磐船に乗り、タニワ(田庭)の真名井原に降り、トヨウケ(豊受姫命)に従い、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子をとり、射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、水稲の種や麦・いも・アワの陸種をつくるために、大小の田に蒔いた。秋には垂穂の長い穂が一帯に広がった。


[catlist id=429]

 

広告を非表示にする