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5 第五巻・出石郡故事記 現代語

オオナムチ(国作大巳貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布(のちの七美郡)・黄沼前(のちの城崎郡)・気多(気多郡、いまの豊岡市日高町)・津(のちの美含郡)・藪(養父)・水石(ミズシ、御出石とも記す。のちの出石郡)の県を開く。

オオナムチは、この郡(出石郡)にいた時に、地上に毎夜光るものがあり、オオナムチはその光をさがして、地面をしばらく掘ると、白石を得た。その白石は突然女神と化す。

オオナムチ「汝は誰なのだ」 女神「わたしは稲葉の八上姫と申します。 わたしの夫神は本妻を愛しています。それで御子を木の俣に置いて去ってしまいました。 とはいっても慕っております。ここにいて夫神の帰りを待っております。 一人の御子は大屋の御井のもとにおります。」 といいました。

オオナムチは、これを聞いて答えた。 「愛しい少女だ。わたしは深く愛し慕う。」

オオナムチと八上姫の間に、ミヅシクシカメタマ(御出石櫛甕玉命)を生まれる。 御出石櫛甕玉命は、アメノホアカリ天火明命)の娘、アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生む。

第1代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を御出石県主とする。

6年(前655年)春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称しまつる。(式内御出石神社(名神大)豊岡市出石町桐野986、水石神社豊岡市但東町水石 447) 天国知彦命は、小田井県主・イキシニギホ(生石饒穂命)(または稲年饒穂命、城崎郡故事記には瞻杵磯丹穂命、美含郡〃には胆杵磯丹杵穂命と記す)の娘、ニギシミミ(饒石耳命)を妻にし、アメノタダチ(天多他知命)を生む。

第2代綏靖スイゼイ天皇6年(前576年)夏4月、天国知彦命の子、天多他知命を御出石県主とする。 天多他知命は、美伊県主の武饒穂命の娘、福井毘売命を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生む。

第4代懿徳イトク天皇7年(前504年)3月春2月 天多他知命の子、天波賀麻命を御出石県主とする。 天波賀麻命は、丹波国造の祖、真太玉命の娘、ユキヨヒメ(幸世毘売命、あるいはサチヨヒメ)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生む。

第5代孝昭天皇40年(前436年)秋7月 天波賀麻命の子、天太耳命を御出石県主とする。 天太耳命は、小田井県主の佐努命の娘、サイビメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生む。

第6代孝安天皇53年(前340年) 新羅の王子、天日槍命帰化する。 天日槍命はウガヤフクアエズ(鵜草葺不合命)の御子、イナイ(稲飯命)の5世孫である。 ウガヤフクアエズは、海神、トヨタマ(豊玉命)の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生む。

父君が崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに1)に遷したいと願い、船師(2)を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ東大阪市日下)に泊まる。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(今の奈良市登美ヶ丘)の酋長、ナガスネヒコ長髄彦は、天津神の子、ニギハヤヒ饒速日命を奉じて、兵を起こし、皇軍穴舎衛坂クサカエザカ(今の東大阪市日下)にて迎え討つ。

しかし、皇軍に利はなかった。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなられてしまう。世嗣の狭野命は、兄たちとともに退いて、海路で紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢われる。イナイ、トヨミケは、小船に乗り漂流され、イナイは、シラギ(新羅)(*3)に上り、国王となり、その国に留まられる。 トヨミケは、海に身を投げて亡くなられる。

世嗣狭野命は、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を討伐し、ついでナガスネヒコを征伐された。

ニギハヤヒ饒速日命)の子、ウマシマジ宇摩志麻遅命)は、父に勧めてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられると、国はことごとく平和になる。 世嗣狭野命は、辛酉(かのととり)の年(*4)、春正月元日、大和橿原宮で即位し、天下を治められる。これを神武天皇と称する。

天皇は、オオナムチの子、コトシロヌシ事代主命)の娘、ヒメタタライスズヒメ媛蹈鞴五十鈴媛命)を立てて皇后とし、 オオナムチの子、アメノヒカタクシヒカタ(天日方櫛日方命)を、申食国政大夫オスクニノマツリゴトモウスマエツキミと(*5)し、政事を補佐させ、 道臣命・大久米命は大伴部・大久米部を率い、宮門を護衛し、 ウマシマジは内物部を率い。矛楯を備え、殿内を宿衛し、 天冨命は斉部を率い、天璽・鏡・剣を神殿に奉安し、 天種子命は天ツ神の寿詞を奏し、 また国造・県主を置き、地方の政事を行わせる。

アメノヒボコ(『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」)は、八種ヤクサ神宝カンダカラを携え、御船に乗り、秋津州アキツシマ(本州の古名)に来る。筑紫ツクシ(九州北部)より穴門アナト(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間ハリマ国(播磨)に至り、宍粟シソウ邑(今の宍粟市一宮町)に泊まる。人々は、この事を孝安天皇にお知らせする。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国に遣わし、来日した理由を問うようにいわれた。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話した。

「わたしは、新羅王の子で、我が祖は、秋津州の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世におよぶ。 ただいま、秋津州に帰りたくなり、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一ウネの田を賜り、御国の民となりたい」と。

二人は帰り、この事を天皇に奉じる。 天皇ミコトノリ天皇のおおせ、命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与える。

しかし天日槍は、再び奏してう。 「もし、天皇の恩をいただけるのであれば、自ら諸国を視察し、意にかなうところを選ばせてください」と。 天皇はそれを許された。

ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国吾名あな邑に留まる。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま(*6)に止まり、住処スミカを定める。 ところで、近江国鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作る。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜る。(但馬を与える) 61年(前332年)春2月、ヒボコを多遅摩国造とする。 ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生む。(『古事記』では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)とあるので、ここでは諸杉をモロスクとする)

第7代孝霊コウレイ天皇38年(前253年)夏6月 天日槍命の子・天諸杉命を多遅麻国造タヂマクニノミヤツコとする。 天諸杉命は、丹波国造、真太味間ウマシマ命の娘、マエツミ(前津見命)を妻にし、アメノヒネ(天日根)命を生む。

40年(前251年)秋9月 天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝ヤクサノカンダカラを納む。(但馬国一宮 出石神社兵庫県豊岡市出石町宮内99)

第8代孝元天皇32年(前183年)冬10月 天諸杉命の子・アメノヒネ(天日根命)を多遅麻国造とする。 天日根命は、二県国造の布伎穂田中フキホタナカ命の娘、オオトミビメ(大富毘売命)を妻にし、ヒナラキ(天日楢杵命)を生む。 天日根命は天諸杉命を出石丘(*7)に斎き祀る。(式内諸杉神社豊岡市出石町内町28)

第9代開化天皇59年(前99年)秋7月 天日根命の子、天日楢杵命を多遅麻国造とする。 天日楢杵命は、伊曾布県主の弖良賀和比遅テラガノワヒヂ命(弖良賀は今の新温泉町照来)の娘、大比遅比売オオヒジヒメ命を妻にし、スガヒコ(天清彦命)を生む。

第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波国青葉山の賊、陸耳クガミミ御笠ミカサは、群盗を集め、良民を害する。その党の狂の土蜘蛛は多遅麻に入り、略奪を行う。 黄沼前県主のアナメキ(穴目杵命)は使いを馳せてこのことを天皇にお知らせする。

天皇開化天皇の皇子、ヒコイマス(彦坐命)にこれを討つように命じる。 彦坐命は丹波に下り、これらの賊徒を多遅麻伊技佐イギサ御碕の海上にて討ち、これを誅殺する。狂の土蜘蛛は従って平らぐ。

67年(前31年)夏5月 天日楢杵命の子、スガヒコ(天清彦命)を多遅麻国造とする。

第11代垂仁天皇88年(西暦59年)秋7月初め (天皇は)群臣に勅して、 「むかし新羅王・天日槍命が初めて帰来した時に携えてきた宝物が、いま多遅麻国の出石社(出石神社)にあると聞く。我はこれをぜひ見てみたい。よろしく持って参れ。」と。

群臣はこの勅を受けて、使いを多遅麻に遣わし、清彦(多遅麻国造)にこれを奉った。 清彦はそれに応じ、 羽太玉ハフトノタマ一個・足高玉アシタカノタマ一個・鵜鹿々赤石玉ウカカノアカシノタマ一個・石刀イヅシノコカタナ(*8)一口・出石杵イヅシノホコ(桙ほこの誤記ではないか?)一枝・日鏡ヒカガミ一面・熊神籬クマノヒモロギ一具・射狭浅太刀イササノタチ一口 を携え、皇都に上る。

清彦は、しばらくして神宝を奉ったが、考えて、ひとつの神宝は祖先に対して申し訳がないと、すぐに出石刀子を袍中ホウチュウ(*9)に隠し、残りを献上した。 天皇は大いに歓喜し、酒饌シュセン(酒と肴)を清彦に振る舞った。たまたまその出石刀子が袍中からこぼれ、帝の御前にあらわれた。

天皇はこれを見て清彦に申された。 「その刀子は、何の刀子であるか?」 清彦は、お言葉に対して隠すことができず、

「これもまた神宝の一つでございます」と申し上げた。 天皇は「神宝がその中より離れたか」と云われた。 これもまた他の神宝と共に宝庫に納めた。

それから後、天皇が宝庫を開かせると、刀子がなくなっている。 使いを多遅麻に遣わして、これを清彦に問うた。 清彦は「ある夜、刀子が私の家に至っておりました。これを神庫に納め、翌朝は改めておりません。」

天皇はこれを聞いて、その霊異をかしこみ、強いてこれを求めることはされなかった。その後、刀子は自ら淡路(島)に至った。

島の人は祠を建ててこれを祀った。これを世に剣ノ神と云う。(*10)

天清彦命は、大和・当麻タイマのメイヒメ(当麻咩斐毘売命)を妻にし、 タヂマモリ(『古事記』では多遅麻毛理命・『日本書紀』では田道間守)・タヂマヒダカ(多遅麻日高命)・スガノモロオ(須賀諸男命)・スガノカマドヒメ(須賀竈比咩命)・ユラトメ(由良度売命)は多遅麻毛理命を生む。

タヂマモリは、黄沼前県主、久流比命の娘、アサツビメ(阿佐津毘売命)を妻にし、橘守タチバナモリ命を生む。

90年(西暦61年)春2月 (後漢光武帝の世)タヂマモリを常世国に、非時(ときじく)の香果(『日本書紀』は香菓(かくのみ)・『古事記』は木実(このみ)と記す)を求めに遣わした。タヂマモリは、常世国に至り9年が経った。

第12代景行天皇元年(71年)春3月 タヂマモリは常世国(*11)より帰国する。しかし、垂仁天皇はすでに崩御された後であった。タヂマモリは嘆き悲しんで天皇の陵で自殺した。

夏4月 タヂマモリの弟、タヂマヒダカを多遅麻国造とする。タヂマヒダカはユラトメ(由良度売命)を妻にし、カツラギノタカヌキヒメ(葛城高額姫命)を生む。

葛城高額姫命は、息長宿祢オキナガノスクネ命に嫁ぎ、息長帯姫オキナガタラシヒメ命・虚空津姫ソラツヒメ命・息長彦オキナガヒコ命を生む。葛城高額姫命は、いわゆる神功皇后である。

第13代成務天皇5年(135年)秋8月 須賀諸男命を出石県主とする。須賀諸男命は、美伊県主、竹野別命の妹、多津賀姫命を妻にし、須義芳男命を生む。

第14代仲哀チュウアイ天皇2年(193年) 天皇は皇后の息長帯姫オキナガタラシヒメ命(神功皇后)と百人の群臣とともに越前笥飯ケイ宮(気比神宮)に行幸される。そして、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行し紀伊に至られる。この時、たまたま熊襲クマソがそむいた。(九州南部)

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后と穴門で会うことを教え、自らは海から穴門に至られる。

皇后は越前角鹿(今の敦賀)より御船で北海キタノウミ日本海の当時の名)に取り、若狭(丹波の誤り)の加佐・与佐・竹野タカノ海(今の京丹後市丹後町竹野)を経て、多遅麻タヂマ国の三嶋水門ミシマミナト(*12)に入り、内川(今の円山川)を遡り、粟鹿大神・養父大神に詣でられる。ついで出石川を遡り、伊豆志大神(出石神社)に詣でられる。

伊豆志県主の須賀諸男命は、子の須義芳男命を皇后に従わせる。 須義芳男命は、豪勇にして力があり、射狭浅太刀を脇に差し随身する。これを荒木帯刀部命という。

皇后は下って、小田井県大神(神社)に詣で、水門ミナトに帰り泊まられる。 ある夜、越前笥飯宮の五十狭沙別大神が夢に現れ、皇后に教えて曰く、 「船で海を渡るには、当然住吉大神を御船に奉れ」と。

皇后は謹んで教えにしたがい、 底筒男神ソコツウオノカミ中筒男神ナカツツオノカミ表筒男神ウワツツオノカミを御船に祀られた。船魂大神フナタマノオオカミである。 いま住吉大神神倉カグラ山に祀るのは、これがもとである。 また御食ミケ五十狭沙別イササワケ大神に奉る。それでこの地を気比浦ケヒノウラという。のちに香飯ケイ大前神13世の孫、香飯毘古命は五十狭沙別大神・仲哀天皇神功皇后をこの地に斎きまつるという。(式内気比神社豊岡市気比字宮代286)

皇后の御船がまさに水門ミナトを出ようとする時、黄沼前県主の賀都日方武田背命カツヒカタタケダセは、子の武身主命を皇后に従い、嚮導キョウドウ(*13)をする。それで武身主命のまたの名を水先主命という。

御船が美伊(のちの美含郡)の伊佐々の御碕に至り日が暮れる。五十狭沙別大神は御火を御碕に現し、これによって海面が明るくなる。それで伊佐々の御碕という。 御火は御船を導き、二方の浦曲に至り留まる。それでその地を御火浦という。 五十狭沙別大神を御碕に祀るのはこれに依る。(式内伊伎佐神社兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内2746-2)

皇后はついに穴門国に達しられる。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神とする。水先主命は水先宮に坐す。水先主命の子を海部直とするのはこれに依る。

神功皇后6年(206年)秋9月 須賀諸男命の子、須義芳男命を出石県主とする。須義芳男命は皇后に従い、新羅征伐の功あり。皇后は特に厚遇を加えた。

第15代応神天皇40年(309年)春正月 須義芳男命の子・日足命を出石県主とする。日足命は須義芳男命を荒木山に祀る。須義神社である。(式内須義神社豊岡市出石町荒木273)

第16代仁徳天皇40年(352年)夏4月 出石県を郡とする。 67年春3月 日足命の子・磯部臣命を出石郡司とする。

(同記されていないが、同じ国司文書 但馬神社系譜伝に、式内日出神社 祭神:日足命 豊岡市但東町畑山329)

第21代雄略天皇2年(458年)秋8月 磯部臣命の子、埴野命を出石郡司とする。 埴野命は磯部臣命を出石丘に祀る。(式内石部神社豊岡市出石町下谷62)

17年(473年)春3月初め 天皇は土師連らに勅して、青器を朝夕の御膳ミケを盛る清器スエキ(須恵器)を献上させる。 これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、ただちに、摂津国来佐々キササ村(大阪府豊能郡能勢町宿野)、山背ヤマシロ国内村(京都府宇治市)、俯見フシミ村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波・但馬・因幡私民部シミンベを献上し、贄土師部ニエハジベという。

丹波国天田郡土師ハジ村(京都府福知山市土師)・因幡国智頭郡土師村(鳥取県八頭郡智頭町埴師)、 但馬国出石郡埴野ハニノ村・養父郡土田ハンダ村・気多郡陶谷スダニ村・美含ミクミ阿故谷アコダニ村(今の豊岡市竹野町阿金谷)である。 美含郡陶居スエイ村は、同郡埴野村埴田の陶人が移住して、陶器・土器を作る所。(*14)その子孫が埴生に移りその業を営む。

この郡の贄埴師が居る所を挻師ヒキシ村という。(のちの豊岡市但東町矢根) 埴田の陶人が居る所を埴田山という。(のちの 〃 畑山) 清器を作る所を御出石村という。(いまの豊岡市但東町水石か?)鋺師マリシ陶人スエヒトは此の所に居る。 贄埴師部は野見宿祢を挺師村に祀り、(今の豊岡市但東町矢根) 埴田陶人は阿笥命を埴田山に祀り、(今の 〃 畑) 鋺師陶人はその祖、高麗国人宝輪王を弖良坂テラサカ山に祀る。 賀茂神社・埴田神社・鋺師神社はこれなり。

賀茂神社豊岡市但東町矢根943 埴田神社は三柱神社豊岡市但東町畑594 鋺師神社は天満神社豊岡市但東町奥矢根1097)

第26代継体天皇13年(519年)春2月 彦坐命の末裔、鴨県主桐野命を出石郡司とする。

11年春3月 桐野命はその祖、鴨県主命を埴野の丘に祀る。鴨県主命は(平安京の)左京の人である。(式内桐野神社豊岡市出石町桐野614、式内御出石神社豊岡市出石町桐野986)

第29代欽明天皇30年(568年)冬11月 桐野命の子、日野久世命を出石郡司とする。

第36代推古天皇15年(606年)秋10月 屯倉出石郡に置き、米・粟を貯え、貧民救済に備える。タヂマモリの7世孫、中島公はその屯倉を司る。それで三宅といい、氏とする。

34年(626年)秋10月 天下大いに飢餓し、屯倉を開き救済する。 中島に三宅吉士(*15)の姓を賜う。中島公がその祖、タヂマモリ屯倉の丘に祀り、中島神社という。(式内中嶋神社豊岡市三宅1)

第37代孝徳天皇の大化2年(646年)秋9月 小錦下・三宅吉士入石を出石郡司とする。

第40代天武天皇4年(675年)秋7月初め 小錦上・大伴連国麿を大使とし、小錦下・三宅吉士入石を副使とし、新羅に差遣する。

12年(683年)冬10月 三宅吉士神床は姓の連を賜う。

これより先、夏閏4月、三宅吉士神床は勅を受け、子弟豪族を集め、兵馬器械を備え、陣法博士大生部了オホフベノサトルを招き、武事を講習す。かつ兵庫(*16)を高橋村に設け、兵器を収める。 大生部了は大兵主神を兵庫の側に祀る。(式内大生部兵主神社豊岡市但東町薬王寺848) 大兵主神素戔嗚命・甕鎚命・経津主命・宇麻志摩(遅)地命・天忍日命なり。

13年(684年)冬12月 三宅吉士神床に姓の宿祢を賜る。

第41代持統天皇3年(巳丑)(689年)秋7月 三宅吉士神床は、陣法博士大生部了オホフベノサトルを率い、養父郡更杵村に至り、一国の壮丁(*17)の四分の一を招集し、武事を講習し、その地に兵庫を設ける。また大兵主神を祀る。これを更杵村大兵主神社という。 三宅吉士神床の子、博床を更杵村に留め、大生部了の子、広とともに軍事を司らせる。 また、兵器を作るために、楯縫吉彦を召し、楯を作らせる。楯縫吉彦はその祖、彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社という。 博床の子孫を糸井連という。

第42代文武天皇庚子4年(701年)秋10月 孝元天皇の皇子・大彦命の末裔、高橋臣義成を出石郡司とする。高橋臣義成は、大彦命を手谷の丘に祀り、手谷神社と称す。(式内手谷神社豊岡市但東町河本885)

第45代聖武天皇天平19年(747年)春3月 佐々貴山君大佐岐を出石郡司とする。高橋臣の一族である。 夏4月 忍阪連貢を出石主政とする。忍阪連貢はその祖、天火明命を赤樫の丘に祀る。小坂郷はその所領である。(式内小坂神社豊岡市出石町三木ミツキ字宮脇1、式内小坂神社豊岡市出石町森井59) 下村主東里を出石主帳とする。東里はその祖、(後漢光武帝の七世孫)慎近王を赤端の丘に祀る。資母郷はその所領である。(式内須流神社豊岡市但東町赤花632)

第48代孝謙天皇神護景雲2年(768年)春3月9日 久畑山が一夜にして生ずる。(*18)

第50代柏原天皇延暦3年(784年)夏6月 佐々貴山君波佐麻を出石郡司とし、 伊福部宿祢弘を出石主政とし、 葛井宿祢比遅を出石主帳とし、 佐々貴山君波佐麻はその祖、佐々貴山君を射阪の丘に祀り、(式内佐々伎神社豊岡市但東町佐々木48) 伊福部宿祢弘はその祖、天香久山命を出石の丘に祀り、(伊福部神社豊岡市出石町中村809) 葛井宿祢比遅はその祖、味散君(*19)を藤ヶ森に祀る。(式内比遅神社豊岡市但東町口藤字山姥547)

第54代深草天皇の承和12年(845年)秋7月 但馬国出石郡無位出石神に従五位下を授く。 また但馬国出石郡無位菅神に正六位上を授く。国司らの解状による。

16年(849年)秋8月 小野朝臣吉人を出石郡司とし、 安牟加首虫生を出石主政とする。 小野朝臣吉人はその祖、天帯彦国押人命を嘉麻土の丘に祀り、(式内小野神社豊岡市出石町口小野210-2) 安牟加首虫生はその祖、物部十千根命を資母郷に祀る。(式内安牟加神社豊岡市但東町虫生)

第56代水尾天皇の貞観10年(868年)冬12月27日 但馬国従五位上出石神に正五位下を授く。

閏12月21日 但馬国正六位上菅神に従五位下を授く。新羅征伐の功による。

16年(874年)春3月14日 但馬国正五位下出石神に五位上を授く。

第59代宇多天皇の寛平5年(893年)冬12月 小野朝臣吉麿を出石郡司とし、正八位下を授く。

第60代小野天皇の延喜3年(903年)春正月 安牟加首玉生を主政に任じ、従八位下を授け、 葛井宿祢比遅城を主帳に任じ、大初位下を授く。

右 国司の解状により、これを注進する。 出石(郡司)大領 正八位上 小野朝臣吉麿


[註] 1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに) 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。 2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。 3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人弥生人倭人が住んでいた。三韓馬韓弁韓辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。) 4  辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目 5 申食国政大夫 後の大連(土師氏、弓削氏など職能をもって天皇家に使える氏族)と大臣(多くは、蘇我氏平群氏、巨勢氏など、地名を氏族名とし、大和朝廷の勢力圏に入る前は、それぞれの地域の支配者だったと考えられる氏族)の前身。 6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。 出石丘(7) 諸杉神社は今は出石町内町だが、当初は小坂村水上の丘に祀られて、古くは諸枌(もろすき)神社と書かれていた。それを天正2年(1574年)に但馬国守護山名氏が居城を此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり、城の守護神として遷座したとされる。 8 刀子(とうす) 削るなど加工の用途に用いられる万能工具 9 袍(ほう) 訓:わたいれ・ぬのこ・うわぎ。昔の束帯の上着。 10 出石神社(生石オイシ神社とも言う。良湊神社が管理) 兵庫県洲本市由良生石崎 11 常世国 海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷 12 三嶋水門ミシマミナト 13 嚮導キョウドウ 先立ちをして案内すること 14  第一巻・気多郡では、「18年(474)春4月 気多郡陶谷村(今の豊岡市日高町奈佐路)の人、陶谷甕主スダニノカメヌシ出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人らは、美含郡に入り、阿故谷・陶谷(今の〃須谷)・埴生(今の〃羽入)・小碗(今の〃小丸)にて、陶器・清(須恵)器の類を作り、部落をなす。」 15 吉士(きし) 姓の一種で、帰化人に賜った姓。新羅の巻十七等の第14を吉士といったことから、これをとって蕃人の姓としたものと思われる。 16 兵庫 17 壮丁 成年に達した男。一人前の働き盛りの男子。労役や軍役に服せられる者。 18 久畑山が一夜にして生ずる。 不明だが天変地異が起きたということか。 *19 味散君(みさ) 百済国都慕王十四世の孫、塩君の子

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