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【京都散策】 大徳寺 大仙院

[catlist categorypage=”yes”] 勅使門(重要文化財

慶長年間(1596年 - 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。

大徳寺は、臨済宗大徳寺派大本山。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残しています。

貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする歴代多くの名僧を輩出茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院です。

侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。江戸時代初期に幕府の統制を受け元住持である名僧、沢庵宗彭紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復しました。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えています。

三門 (金毛閣 重要文化財

二層の三門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置した(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)が、これが豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉はこのことを楯に利休に自決を迫ったという。

龍源院(りょうげんいん)

大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。龍吟庭、東滴壷、阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。

江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなりました。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられました。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められました。

本院

1627年(寛永4年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じました。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。

1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪としました。上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれています。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇しました。

1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件連座した者たちは許されました。沢庵が剣術家・柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名です。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入りました。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まりました。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見しました。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。

大仙院

京都市北区紫野大徳寺町54-1 大徳寺塔頭 永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。 大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬りました。

国宝 玄関

日本の方丈建築としては東福寺・龍吟庵方丈に次いで古い遺構である。「床の間」が現れるのもこの時代で、大仙院の床の間は日本最古とされ、玄関も日本最古の玄関として国宝に指定されている。

三玄院

石田三成浅野幸長森可成(蘭丸)が建立。

関ヶ原の戦い後の10月1日、石田三成が家康の命により六条河原で斬首されました。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られました。また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。