但馬国ねっと風土記

但馬国ねっとで風土記 【はてな】

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

たじまる 弥生2 弥生人はどこから来たのか

f:id:kojiyamane:20170110081544j:plain 歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
旧石器 縄文 弥生 古墳 飛鳥 奈良 平安 鎌倉 室町 戦国 近世 近現代
但馬資料編:古代年表但馬年表
弥生 イメーカラー:萱草色(かんぞういろ:#f8b862)


[catlist id=20 orderby=title order=asc]

弥生人はどこから来たのか

目 次

  1. 弥生時代のはじまり
  2. 弥生人はどこから来たのか


1.弥生時代の新たな研究

yayoijukyo
画像:大中遺跡 兵庫県立考古博物館
 具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代です。

 小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。

 弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。

 このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれました。

 水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

 弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。反対に、在来の縄文人が外来の新しい知識・文物を入手して、弥生人になることが基本であったともいえます。

 早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

  • 早期(紀元前1000年頃から紀元前800年頃 中国西周王朝の成立と東方進出)…環濠集落・水田稲作の本格開始
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃 中国戦国時代の開始)…朝鮮系青銅器の本格採用
  • 中期(紀元前400年頃から紀元50年頃 前漢王朝への偉使の開始)…朝鮮半島の権力争い。中国鏡の本格採用
  • 後期(紀元50年頃から三世紀中頃:初期ヤマト政権の成立)…前方後円墳の出現

     と4つに分けられますが、

     弥生時代から古墳時代への移り変わりは、縄文時代弥生時代が基本的にはそれぞれの時代に用いられた土器によって設定されたものであるのに対し、古墳時代は古墳という大きな墳丘の出現を基準に設定されています。

     古墳時代以前の弥生時代の終わり頃になると、もう古墳と呼んでも一向に差し支えないような大きな墳丘をもつ墳墓が各地に出現していきます。たとえば、中国地方から北陸地方にかけて、方形の墳丘墓の四隅を突出させた「四隅突出型墳丘墓」という特異な形態の墳丘墓が数多く営まれています。

     ヤマト政権があらわれ日本(やまと)という国が誕生するまでの古墳時代に入るこの時代に何が起こったのでしょうか。とても興味が尽きないばかりか、縄文時代から弥生時代へとスムーズな流れでとらえることが困難なことがわかってきました。そこで弥生時代を大陸渡来と謎の銅鐸をひとつの区分として加え、弥生早期、前期を出雲、中期を銅鐸、後期を但馬(たじま)の国の祖とされる「天日槍(アメノヒボコ)」の4つに分けて、素人なりに考えてみたいと思います。

  • 1.弥生時代のはじまり

     弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。

     紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

     それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。

     当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられるのが自然です。

     中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。

     北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

    「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。

     弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。

     日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。

     このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。

     縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

    2.弥生人はどこから来たのか?!

     それでは弥生人はいったいどこから来たのでしょうか?

     いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。

     しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。

     一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。

     かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。

     山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。

    縄文人時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。南方系「古モンゴロイド
    弥生人地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。北方系「新モンゴロイド
     土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。
     彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。
    「土居ケ浜遺跡人類学ミュージアム」によりますと、

     九州・沖縄と山口では弥生人の顔・かたちに地域差が認められ、人骨の特徴から1、北部九州・山口タイプ、2、西九州タイプ、3、南九州・南西諸島タイプの三つのタイプに分けることができます。 「北部九州・山口タイプ」の弥生人は、顔が長く、鼻が低く、鼻の付け根(鼻根部)が扁平で、身長は、男性の162cm~164cm、女性は150cm程度で、高身長です。「西九州タイプ」の弥生人は、顔が短く、横幅は広く、眉の部分が盛り上がり鼻骨が付け根から高く隆起し、顔を横からみると鼻根部が深く陥凹しており、ホリの深い容貌をしていました。

     推定身長値は、男性が約158cm、女性は148cmで、男女とも低身長です。「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人は、頭や顔が小さく、頭を上から見た形が、限りなく円に近い形をしています。 身長は著しく低く、男性で153cm~155cm、女性では143cm程度しかなく、きわめて小柄な弥生人でした。三タイプの弥生人のうち、「西九州タイプ」の特徴は、実は縄文人の特徴なので、「西九州タイプ」の弥生人は、縄文人直系の弥生人と考えられます。

     一方、「北部九州・山口タイプ」の弥生人には縄文人的特徴がみられないことから、彼らは、日本列島に弥生文化をもたらした渡来人ではないかと考えられてきました。 しかし、この仮説は証明されたわけではありません。検証するためには大陸の古人骨、弥生時代の初め頃か、それよりもやや古い時期、日本でいえば、縄文時代の晩期から弥生時代前期のおよそ2,500年から2,300年前頃の古人骨、中国でいえば周代の末の戦国時代から、蓁・前漢時代の人骨の特徴を明らかにしておく必要があります。

     これらの人骨群は、北部九州・山口の弥生人にそっくりでした。この事実から、「北部九州・山口タイプ」の弥生人のおおもと(ルーツ)が大陸にあるということはほぼ間違いないと思われます。 しかし、山東省の人骨が「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ていることがわかったからといって彼らは、山東省から来たのだ、ということにはなりません。 現時点では、あくまで、中国大陸のなかに「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ているものがあったから、彼らの起源は大陸にあるといってもいいだろうということが言えるに過ぎないのであって、どこから直接渡って来たのかという問題はまだ未解決です。

    7.縄文+渡来=弥生?

     日本列に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。

       それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済新羅加耶といった国もまだ生まれていないはるかに以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。

     九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。

     浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。

     日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

     縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。

     しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人縄文人の大規模な先島はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。

    広告を非表示にする