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日露戦争

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目 次
  1. 日露の対立
  2. 日露戦争
  3. 日本海海戦
  4. 講和へ
  5. 東郷 平八郎と肉じゃが
  6. 日本の台湾統治

1.日露の対立

 大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。 ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。 1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 - 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国ロシア帝国との間で朝鮮半島満州中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。 ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。 日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。 直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。 連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。 なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

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講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。 日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。 さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。 また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文辛亥革命オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。 日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。 しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。 当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年大正9年)に設立された国際連盟常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

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3.東郷 平八郎と肉じゃが

 弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。 薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。 日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。 肉じゃが 1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。 肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。 海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了 発祥の地論争 京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して"?"をつけた)として名乗りを上げました。 根拠は、

  • 舞鶴市東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。

    としています。 なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

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