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【但馬の城ものがたり】 丹生氏(にゅうし)と上計養山城(美方郡香美町香住区上計)

「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」  この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。

 丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。

 ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。

 享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。

 これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。  急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。

 そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。

 鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。

 このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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