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【但馬の城ものがたり】 日下部氏流(2) 朝倉氏

朝倉氏の起源

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 養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)は、越前国福井県)の守護となって北陸に勢力を張った朝倉氏の出身地として知られています。この村の高さ60mばかりの山の上に残る城跡が朝倉城です。室町時代の末頃、朝倉大炊守(おおいのかみ)が城主であったといわれています。

 朝倉氏は但馬最古の豪族、彦座王を始祖とする日下部(くさかべ)氏の一族で、平安時代末期に余三太夫宗高がここに居住し、地名をとってはじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。宗高の子高清には興味深い話が伝わっています。

白猪を退治した豪傑高清と朝倉城

 朝倉氏の歴史を述べた『朝倉始末記』によると、高清は豪勇の人として知られていました。寿永年中(1182~84)平氏にしたがって西国で戦いましたが、平氏の滅んだ時密かに逃げ帰り、七美郡(美方郡東部)小代谷の山の中の洞窟に隠れました。しかし、鎌倉方の平家残党さがしがきびしくなり、建久五年(1194)捕らえられて鎌倉へ送られました。

 このころ鎌倉地方に長さ2.1mもある大きな白猪がいて、人々を襲い悩ませていました。対峙に出かけた者はことごとく殺されてしまう有様でした。

 占ってみますと「西国に異様な姿をした武士がいる。その人なら必ず退治してくれるだろう。」ということです。高清は身の丈1.8m、色黒く体中毛に覆われ、熊の皮の衣服を着ていました。人々は高清を見て、「この人こそお告げの人だ。」と思い、そこで白猪退治を頼みました。これを引き受けた高清はm三七日の暇を与えてもらうことを願い出て、許されると彼は風のような早さで但馬に帰りました。わずか七日間であったといいます。そして七日七夜養父明神にこもり、一心不乱に神に祈りました。そして満願の夜のことです。いつものように神前におこもりをしていますと、深夜にわかに辺りが騒がしくなったと思うと、腹を揺さぶるような鳴動が起こり、神前のとびらが大きな音を立てて倒れました。と同時に、神々しい光が辺り一面にみなぎり、その光の中に尊いお姿が浮かびました。

 「汝の願い聞き届けたり。すみやかにこの矢を持ちて関東に下り、白猪を撃て」とのお告げを聞き、「ハハ-ッ」とひれ伏した途端、高清は我に返りました。辺りは元の静けさに戻っていました。夢を見ていたのでした。うつろな思いで前の床を見て、高清は「アッ」と驚きました。ほの暗い光の中に夢で見たそのままの鏑矢(かぶらや)がそこにあるではありませんか。この矢を持ち、高清はいさんで鎌倉へ下りました。そしてめざす獲物に遭うと明神のお加護を祈りながら、ヒョーッと射ると、さしもの魔獣も一矢で倒されてしまいました。この功により高清はとらわれの身を許されて但馬に帰ることができました。

 ところが、国にはまた意外なことが待っていました。高清の一族の者たちが高清の豪勇を恐れ、彼を亡き者にしようとはかっていたのです。このたびの大功で鼻を高くし、前以上に一族のものをさげすみはしまいかというのでした。建久六年(1195)5月23日、高清は帰る途中堀畑村(養父市)に泊まりました。その夜、一族の者たちは高清の寝所を襲い、あわやその命は風前のともしびとなって消えようとした瞬間、例の鏑矢が赤々と光を放って飛び出してきました。そして一族の者どもに襲いかかったのです。この不思議に圧倒され、一族の者どもは高清を撃つことができなかったのです。

 かずかずの神徳をよろこんだ高清は、但馬に落ち着くと養父明神の近く、奥米地(養父市)に表米神社を建て、城崎郡妙楽寺豊岡市)には等身大の阿弥陀仏をつくって祭ったということです。

 高清には鎌倉方に捕らえられるまでに一人の男の子がありました。関東へ下るにあたり、同族奈佐太郎知高の養子にやって奈佐氏を継がせました。奈佐春高といいます。帰ってからさらに四人の子をもうけましたが、最初の子を又太郎高景といい、彼に朝倉氏を継がせました。この子孫が朝倉城を築いたのです。高清から八代の孫広景は南北朝のころ越前に移り住んで活躍し、朝倉氏繁栄のもとをつくりました。また高清の三男次郎重清は八木荘(養父市八木)に、四男三郎右衛門尉高房は宿南荘(養父市八鹿町宿南)に、五男四郎清景は田公荘(美方郡西部)に住まわせました。それぞれの地名をとって姓としたのでした。

越前朝倉氏

 数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

 朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

 義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

 元亀元年、織田信長朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。  天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。

出典: 「校補但馬考」「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家列伝さん他

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