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【但馬の城ものがたり】(26) 太田垣氏(2) 応仁の乱と太田垣氏

 戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。

 応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

応仁の乱と太田垣氏

 太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

 応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。

 そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

 その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

 敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

 合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家列伝

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