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第九章 山名氏と但馬 山名四天王 田結庄氏(1)

第九章 山名氏と但馬

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津居山

田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。

 田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 - 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。

 『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。

 能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が  「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」 と失礼なことを申します。

 そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。

 すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。

 そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、  「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」

と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。

 寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。

 その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。

 源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。

 諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

 「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。

 越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。

 「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」

「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」

「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」 「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」

と言ったので、 「それならば切れ」と、 由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。

 赤間神宮山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。

墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。

 平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。

 さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です。

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