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【但馬の歴史】(38) 秀吉の但馬平定(1)

中国地方攻略

 織田信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えていきます。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高・官兵衛)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従いませんでしたが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼします。

 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされます。

 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降しました(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国織田氏の勢力圏におきました。

 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻しましたが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させました(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続きました。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置きました。

 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込みました(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元吉川元春小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請しています。  このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。

但馬征伐

 秀吉の第一次但馬平定は、天正五年(1577)十一月上旬より播磨を起点として開始されました(ただし、それより先の永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長羽柴秀吉を但馬に派遣しています)。但馬征伐ともいいます。

 しかし、播磨上月城主木器政範が叛したため秀吉は但馬を撤兵し、上月城攻撃に向かいました。上月城はわずか七日間で鎮圧しますが、戦線が播磨と但馬の両方に拡大することを避けたので、八木豊信はそのまま八木城に留まることができました。しかし、翌六年には、秀吉は竹田城を拠点に、但馬奪取を企画しており、養父郡の八木氏領あたりが織田氏と毛利氏の境界線となりました。

 永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められ落城。天正二年(1574)ごろに祐豊は残った勢力を集めて、出石の此隅城から有子(こあり)山に「有子城」を築いて移りました。築城間もない翌年の天正三年十月、隣国の丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主になった氏政には、これを抑える力はなく、助けを信長に求めました。部下の明智光秀を派遣して荻野直正を討たせました。光秀軍は奪われていた竹田城を取り返し、丹波に敗走して黒井城に入った直正を攻め、山名はやっとこの難から逃れることが出来たのでした。

 但馬国は、織田信長が中国平定のために秀吉(実質は弟の秀長)による侵攻を二度受けることになりました。この侵攻を受けて山名祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地出石に復帰しています。

秀吉→山陽方面・山陰方面 光秀→畿内丹波・山陰方面 第一次 但馬征伐(平定 1577) 第二次 但馬征伐(平定 1580) 弟の秀長軍…養父・出石・気多・美含・城崎の郡 藤堂孝虎軍…朝来・七美・二方の郡

 天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野城をはじめ山口の岩州城を落とし、高生田(たこうだ)城を攻め落とし、進んで太田垣朝延の竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに、秀長に但馬の各城を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、有子城(出石城)をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。宿南城を焼き払い、浅倉ほうきから水生城を攻めてくると思いきや、出石城へ向かいました。出石へ攻め込んだ秀長軍は、思わぬ苦戦に悩まされました。有子城は山名氏の本拠だけあって、たやすく落ちません。

 そのうちに近くの城主たちの反撃体制が整って、一世に立ち向かってきましたから、秀長は散々に敗北し、米地山(めいじやま)を越え、播磨へ逃げていきました。  記録によれば、秀吉の但馬平定によって但馬の城18が落ち去ったとあり、新しい装備をした秀吉軍のまえに山名勢はその敵ではなかったようです。こうして山名の名城 有子山城も名実ともに消え去りました。

第二次但馬征伐

 天正七年(1580)、吉川元春は毛利派の垣屋豊続らの要請で、七月但馬に出陣し、美含郡(みぐみぐん)竹野まで進出しますが、背後で東伯耆の南条氏が織田方に離反したため急遽撤兵しました。これにより、但馬の毛利派は孤立してしまい、八木氏はこれを機に織田方につき、秀吉傘下に入ったものと思われます。

 翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。五月に山名豊国の籠もる鳥取城の攻撃を開始します。この時、八木豊信は秀吉に従って因幡攻めに参戦しています。

 秀吉は鳥取城に対する城を築くと、攻撃を宮部継潤(善祥房)に任せて自身は播磨に転戦していきました。この時、豊信は若桜鬼ヶ城の守備に当たり、山名氏政は私部城、岩常城には垣谷光政が入り、但馬出身の武将を登用していることが注目されます。

 同年九月、秀吉は再び因幡に入りますが、山名豊国は鳥取籠城を続けていました。秀吉は長期戦を覚悟して、周辺の地盤固めを行っただけで再び撤退しています。この時、豊信は智頭郡の半分を知行することを許され、若桜鬼ヶ城に在城しました。翌年の春ごろ、豊国は鳥取城を追放され、代わって毛利の武将・吉川経家鳥取城に入城しました。 これとともに吉川軍の巻き返し攻撃があり、八木豊信は城を支えきれずに但馬に退去し、以後、豊信の消息は不明となります。おそらく、因幡に与えられた領地を守ることができなかったため、禄を失ったものと思われています。

 のちに、豊信の子で垣屋氏の養子となっていた(異説あり)信貞の子の光政が再び八木姓を名乗っています。そして、光政は関ヶ原の合戦徳川家康に味方したことで、拝領し徳川旗本となりました。八木守直は二代将軍徳川秀忠の近侍となり、四千石の知行を得て、子孫は徳川旗本家として続きました。

 さらに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動を共にした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっています。また別に、戦国時代の播磨国寺内城主に八木石見守がいました。ことらは代々赤松家の家臣であったといわれています。

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