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近隣諸国との国境画定 学校で教えてくれなかった近現代史(25)

 近隣諸国との国境は、どのようにして画定していったのでしょうか。

北方の領土画定

f:id:kojiyamane:20170110160806j:plain 画像:『日本人の歴史教科書』自由社

 明治維新を成し遂げ、近代国民国家の建設をめざす日本は、近隣諸国との間の国境を定める必要がありました。国境を画定しなければ、住民の生命や財産を保証したり、国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を明確に定めることができないからです。

 北方の樺太(サハリン)および千島列島にはアイヌ民族が住んでいました。間宮林蔵の探検以来、日本人が居住していました。その後、ロシア人が移住を始め、ロシアは樺太が日本人とロシア人の雑居の地であると日本人に認めさせました。両者の間では紛争がたびたび起こりました。

 江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていました。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着しました。

 1855(安政元)年、日本とロシア帝国日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。

 イギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきました。新政府はロシアとの衝突を避けるために、 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。   その他の記録

1700年(元禄13年) - 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出 この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。 1711年 - ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻 占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。 1750年代 - ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。 1754年(宝暦4年) - 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した 1766年(明和3年) - ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる 1770年(明和7年) - 択捉島アイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる 1771年(明和8年) - アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す 同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる 1786年(天明6年) - 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施 1798年(寛政10年) - 幕府による北方視察が大規模に実施された 1801年(享和元年) - 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。 この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。 1855(安政元)年、日本とロシア帝国日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚サンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。

 太平洋方面では、小笠原諸島を日本領とし、1876(明治9)年、各国の承認を得ました。すでに英国船がここにも英国旗を立てていましたが、アメリカが反対し日本領となりました。

台湾出兵琉球

 日本は清との国交樹立のため、1871(明治4)年、日清修好条約を結びました。これは、国際法の原理に基づく、領国対等の関係を定めた条約でした。  同年、琉球宮古島の島民66人が宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、台湾に漂着し、54人が殺害される事件が起きました。当時、琉球は日本と清の両方に従属していました。日本は清国に対して事件の賠償などを求めますが、清国政府は「化外の民(管轄外)」として拒否しました。こうなると外交交渉の経験が少なく、国際慣習を知らない明治政府はどうしようもなく、事件はその後3年間も放置されることとなってしまいました。

 そこで日本政府は、台湾の住民を罰するのは日本の義務であるとして、1874(明治7)年、長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命して全権が与えられました。政府内部やイギリス公使パークスやアメリカなどからは出兵への反対意見もあった。特に木戸孝允征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、4月18日参議の辞表を提出して下野してしまいました。そのため、政府は一旦は派兵の延期を決定するが、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名(薩摩藩藩士編成をした政府軍)はこれを無視して出兵を決断(台湾出兵)、5月2日に西郷の命を受けた谷干城・赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で長崎を出航すると政府もこれを追認、5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けました。

 この衝突は、近代国民国家の観念をまだ十分に理解していない清と、日本の考え方の違いから起こった事件でした。清との協議の結果、問題は解決しましたが、清はこれにより、琉球島民を日本国民と認めました。翌1875年琉球に対し、清との冊封朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

 1879年、琉球を日本領土とし、沖縄県を設置しました(琉球処分)が、それに反対する清との1880年北京での交渉において日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり清は調印に至らなかった。 このため、帰属問題が解決したのは日清戦争で日本が勝利した後のことでした。  日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定させることに成功しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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