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開国と不平等条約 学校で教えてくれなかった近現代史(11)

ペリー来航

 約200年にわたり平和と安定を楽しんでいた鎖国下の日本の門を叩いたのは、アメリカでした。1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿を現しました。軍艦には計100門近くの大砲が積まれていました。率いるのはアメリカ海軍提督ペリーで、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていました。4隻の巨大な黒船はいきなり太平洋航路から来航したのではありませんでした。

 1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー(Matthew Calbraith Perry)司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かいました。ペリーはタカ派フィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていました。艦隊は大西洋を渡って、インド洋、マラッカ海峡からシンガポール、マカオ、香港を経て、上海に5月4日に到着しました。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止しましたが、航海途上のペリーには届いていなかったのです。

 上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊しました。最初はペリーの謁見を拒否しましたが、王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城しました。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していました。王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用されました。

 ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言しましたが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになりました。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになります。

 ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航しました。1853年6月3日(7月8日)に江戸湾浦賀に来航しました。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍イギリス海軍の帆船とは違うものでした。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人は「黒船」と呼びました。

 浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」(両船は蒸気外輪)、「サラトガ」、「プリマス」両船は帆船)の巡洋艦四隻は、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようです。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれています。

 嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

 1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。

 日本では江戸幕府を倒した薩摩藩長州藩などの攘夷派を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになります。日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を持つこととなります。

 こうして、東アジア(朝鮮・日本を含む中国の周囲の諸国)では近代の開国前後、万国公法という概念との葛藤を経験することになります。 長きに渡り鎖国政策をとってきた日本において、ペリーの来航(1853年にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件)によって、日本史上だけでなく世界史的にもきわめて重要な転機となりました。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令によって、新政府樹立。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいます。

 日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため、代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃などを推し進めました。同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策しました。

アメリカ合衆国

 アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて1776年に独立しました。当時珍しい民主主義国家ですが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲、または買収して、自国の領土を西へと拡大しました。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになりました。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、1867年には、アラスカをロシアから買収し、1898年にはハワイ王国の併合し、スペインとの米西戦争に勝利してスペインの統治下にあったグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバ保護国に指定しました。もっとも、キューバはすぐに独立させましたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においていました。

 アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好みました。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置きました。これは直接には植民地としていませんが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返しました。この体制は、中米や中東において現在も変わっていません。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にあります。

 なお、中米にはプエルトリコが、アメリカ自治領として存続しています。プエルトリコ北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっているのです。

 1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守りましたが、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦しました。

イギリス・アメリカの接近

 19世紀にはいると、イギリスとアメリカの船も、しばしば日本近海に出没するようになりました。1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人を捕らえるなどの乱暴をはたらきました(フェートン号事件

 一方、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動が盛んになり、日本の太平洋岸に接近して水や燃料を求めるようになりました。幕府は海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年、異国船打払令を出しました。1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民を届けに来たアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払う事件が起きました(モリソン号事件)。

 これに対して蘭学者渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の処置を批判しました。しかし、幕府は彼らを厳しく処罰しました(蕃社の獄)。

ロシアの接近

 18世紀の末頃から、日本の周囲にも欧米諸国の船が出没するようになりました。とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始しましたが、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島まで達しました。ロシアは、極寒のシベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を日本に求めようと考えました。そこで、1792(寛政4)年、最初の使節ラックスマンを日本に派遣し、日本人漂流民を送り届け幕府に通称を求めました。

 鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシアに対する恐怖感が高まりました。幕府は松前藩の領地である東蝦夷を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太も含む蝦夷地の大がかりな実地調査を命じました。そして間宮林蔵樺太が島であることを発見しました。樺太と大陸を隔てる海峡は間宮海峡と名づけられました。

 ペリーが去ったあと、老中阿部正弘は、半年後にやってくるペリーへの解答に頭を悩ませていました。最も単純なやり方は、要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷を行うことでした。しかし、軍事力の乏しい幕府では実際に攘夷を行うことは不可能でした。

 阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも、すべての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えました。外交について外様大名はまったく発言の機会を許されていなかったので、これは画期的なことでした。しかし、大名の意見の中にも名案はありませんでしたが、これによって、国の重要な政策は、幕府の考えだけでなく多くの意見を聞いて合議で決めるべきものだとの考え方が広がり、幕府の権威はかえって低下していきました。

日米和親条約

 嘉永7(1854)年1月、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

 1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。  約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、この条約の締結によって日本は下田箱館(現在の函館)を開港し、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれました。この条約は、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。

 なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられます。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙いましたが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まったのです。

安政五カ国条約

 日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始しハリスの強硬な主張で、老中堀田正睦孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結することを企図しますが、勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれました。しかし、ハリスはアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得しました。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切りました。

 安政5年6月19日(1858年)、日本とアメリカの間で日米通商条約が結ばれました。この諸条約は、勅許の無いままに大老井伊直弼によって調印されたために仮条約となされて、安政の大獄桜田門外の変(井伊大老暗殺) といった国内政争を引き起こしました。1865年になってようやく勅許されました。

条約の内容

・神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(元から)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日)) ・領事裁判権をアメリカに認める。 江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市 ・自由貿易。 ・関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権がない状態)。 ・内外貨幣の同種同量による通用。 ・アメリカへの片務的最恵国待遇  江戸幕府は列強の外交圧力によって順次、日米修好通商条約調印後に同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と結びました(安政五カ国条約)。

 ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸でした。このことは条約を結んだ各国から批判もされましたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化しました。幕府は、神奈川は江戸時代から東海道の宿場町として栄えてきた都市であり、ここを開港場として外国人の活動の場とすることを避けて隣接する横浜村を指定しました。当時の横浜村は小さな漁村であり、ここに外国人の居留地を建設しても問題はないと考えたのです。兵庫ではなく神戸村を指定したのもしかりです。

条約港の設定

 安政条約で重要なポイントは、 1.自由貿易が開始されたこと 2.締結された条約がいわゆる不平等条約領事裁判権の容認、協定関税、片務的最恵国待遇)であったこと  の二点です。

 列強という言葉は英語でグレート・パワーズといい、強力な海軍力と豊富な商船隊により、世界のどこにでも自国の力だけで進出する力を持つ国、というかなり具体的な実態を持つ言葉でした。海を制する国家が列強だったのです。当時、列強の名に値する国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアなどです。すなわち安政の五ヶ国条約の締結国です。

 イギリスの初代駐日総領事(のち特命全権公使オールコックは、  「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場をさがし求める。そして、この市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は、条約によってかれらの提供する市場に近づくことである。(中略)我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして、必要な貿易の便宣や一切の権利を与えるという趣旨の文書を得る。残るはわずかにあと一歩である。それは条約を実施し、実行ある条約にしなければならないということだ。」-『大君の都』オールコック

自由貿易不平等条約

 第一に、不平等条約は、異なる文明が共存するためのシステムであった、ということです。

 条約とは、そこに国家間の取り決めを結び条約を履行するだけの力を持った主権を有する国家が存在するということが前提になっています。欧米とは異なるものの法制度が存在しているので、欧米人といえどもそれを守らなければならないのです。一般に誤解されている領事裁判権というのは、アジアの法律に欧米人が従わなくても良い、という制度ではありません。

 しかし、アジアの国家はヨーロッパ的な意味での近代国家ではなかったため、ヨーロッパでは保障される人権や、財産権などが守れない危険性があります。そこで、自国民の人権や財産権が侵害される恐れがある場合(被害になる場合)には、ヨーロッパの法律で裁判し、法律の体系が異なることから生ずる不利益を回避しようとする制度が、領事裁判制度です。領事裁判権は、異なる法制度の間に生ずる軋轢を改称するための緩衝処置として考え出されたものでした。

 第二は、条約が東アジアの植民地化への防波堤になっていた、という点です。

 たとえヨーロッパ的な意味での近代国家でなくとも、近代国際法の上では、主権国家として認められた場合、その国を勝手に併合したり植民地とすることは簡単にはできません。植民地化することができるのは、そこに主権を有する国家が存在せず(無主の地)、最初にそこを併合すると主張し(先占の権)、その国がその土地を実質的に支配していると各国が認めた場合である、というルールがありました。条約を締結したということは、そこに主権国家が存在することを列強が認めたということになるので、簡単には植民地化することはできない、ということになります。  十九世紀末において、アジア・アフリカ地域において独立を保ったのは、東南アジアのタイ、アフリカのエチオピア、リベリアなどですが、東アジアは、日本、中国、韓国が独立を保持し、広大な植民地化を阻んでいました。その理由は、自由貿易不平等条約のシステムにあったということができるでしょう。

   しかし、事実の上で植民地化の危機がなかったということと、アジア側が危機を認識していた、という問題は別のことです。アジア側から見ると、条約締結の過程において示された欧米の軍事力に象徴される「西洋の衝撃」は、植民地化の危機の意識として定着し、のちにヨーロッパに対抗していくナショナリズムの原動力になっていきます。

万国公法

 19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、国際法学者であるヘンリー・ホイートンの代表的な著作である国際法解説書の翻訳名。東アジア各国に本格的に国際法を紹介した最初の書物で多大な影響を与えました。

 前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序に取って代わって、欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する「条約体制」と呼ぶ国際秩序を東アジアにもたらした。しかし欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともあります。

 近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としていますが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていました。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としていますが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つに分類されます。

 まず欧米を「文明国」、オスマントルコや中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられます。具体的には不平等条約砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定されます。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになります。

不平等条約の問題点

 幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等条約でした。

 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

 第一に、治外法権が相手国にだけ認められ、第二に、関税自主権が日本には与えられなかった。欧米諸国との法的な差別を解消する条約改正は、明治の日本人の悲願であり、日本外交の最大の課題となりました。

 この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は刑法などの法律が整備されていないことを理由に、国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

 次ぎに日本は、イギリスとの間で関税自主権の回復を図ろうとしました。ところが、イギリス商人によるアヘンの密輸事件がおこり、イギリスは領事裁判権を行使し、アヘンは薬用であるとして無罪を言い渡しました。この事件は日本人を怒らせましたが、治外法権に手をつけない条約改正交渉は失敗しました(1878年)。

鹿鳴館とノルマントン事件

 1883(明治16)年、政府は東京の日比谷に鹿鳴館という名前の洋風建築をつくり、外国人を招いてさかんに舞踏会を開きました。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを世界に誇示し、条約改正を有利に進めようとする試みでした。

 1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

 1886(明治19)年、ノルマントン事件が起きました。審査をしたイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヵ月という軽い罰を与えただけでした。この事件を境に治外法権を撤廃するための条約改正を求める国民の声はいっそう強くなりました。

40年がかりの条約改正

  1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。  黒田清隆内閣の外相大隈重信1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。

 欧米諸国はそれでも簡単に条約改正に応じようとはしませんでした。日本はあくまで欧米並みの制度を取り入れることによって、対等な扱いを受けることのできる国になろうと努力を重ねました。1889(明治22)年、日本が時前の憲法を制定した動機の一つは条約改正でした。

 山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

 やがて最大の強国イギリスは、こうした日本の近代化の努力を認め、また、極東に進出してきたロシアの南下に危機感を募らせていたイギリスは対抗するためにも、日本との交渉に応じました。第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光外務大臣が交渉の責任者となり駐英公使青木周蔵を交渉に当たらせ努力が実を結び、日清戦争が始まる前の1894(明治27)年、日本の内地を開放するのと引き換えに治外法権が撤廃されました(日英通商航海条約)。このことは後の日英同盟への布石となりました。その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃しました。

 関税自主権の条約改正はさらに遅れ、達成されるのは日露戦争において勝利した日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。岩倉使節団の交渉から40年の歳月が経っていました。

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 「強圧的な手段」である軍事力と植民地化の危機をめぐっては、近代史研究者の間で長い論争が繰り広げられてきましたが、近年のイギリス側からの実態研究では、60~70年代にイギリスの軍事費は抑制され、アジアを植民地化するだけの軍事力は保有していなかったことが指摘されています。イギリス極東艦隊は、香港を根拠地に、商業的権益を擁護するため、東南アジアの海賊の取り締まりや、中国や日本の沿岸の海上警備にあたっていましたが、65年の39隻から74年の20隻へと急速に削減されていきました。こうした点から、「東アジアにおけるイギリスの軍事力は居留地防衛以上に出るものではなく、少なくとも東アジアに関する限り植民地化を可能にする条件はなかった」とする指摘もあります。

 しかし、「居留地防衛」程度の軍事力という評価は、歴史的にみて過小評価なのではないでしょうか。63年八月の薩英戦争や64年九月の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)、さらに65年11月に四国代表が、兵庫開港・条約勅許を求めて連合艦隊を兵庫沖に派遣したことなど、列強の軍事力は、まさにオールコックのいう「強圧的な手段」として、常に国内政局への政治的圧力となっていたのですが、では、植民地化の危機があったのかといえば、列強の軍事力は、あくまでも自由貿易を維持させるための軍事力であり、それ以上のものではありませんでした。逆にいえば、東アジアにおいて自由貿易が維持されている限りにおいて、列強は、現地の政権となるべく円滑な関係を維持しようとしていたのです。列強は不平等条約維持のための軍事力はなるべく協調して実施しています。それは列強の共通利益であり、日本市場の独占=植民地化への志向を読みとることは困難でしょう。

 オールコックは、日本との条約はロシアの南下とロシアによる日本の植民地化を防止する外交上の機能を果たしている、と主張しています。条約は「少しも経費を要せずして艦隊や軍隊の代わりをつとめるひとつの力」であり、これがある限り日本を「我々の同意なしに征服したり併合したりすることは困難であろう」といっています。欧米列強との条約締結は、欧米が、日本や中国を主権国家として認めたということであり、条約の内容が不平等であるにせよ、近代国際法のルールでは、簡単に植民地化することができない、ということを意味するのです。

交通革命の時代

 汽船と電信という技術革新を背景に、交通・情報ネットワークが一変して世界が交通革命の時代を迎えたのは1860年代末のことでした。

 汽船は、1850年代にスクリューの開発、60年代には二段膨張エンジンの実用化、70年代には三連成機関の登場によって、航続距離の延長、船舶の大型化、高速化など飛躍的に高校性能を上昇させ、1870年代以降それまでの海上交通の担い手であった帆船を駆逐していきました。

 1867年には、ペリーが開拓した太平洋横断行路が、太平洋郵船というアメリカの汽船会社によって実現しました。ついで1869年には、スエズ運河の開通、アメリカ横断鉄道の開通という、世界の交通網を一変させる事件が相次いで起きました。

 新たな交通網の形成により、1869年にはロンドン・横浜間の移動日数は、スエズ運河経由の東回りルートで54日、太平洋経由の西回りルートで33日となりました。まさに「八十日間世界一周」が実現することになったのです。ジュール・ベルヌがこの小説を書いたのは1873年です。イギリスの旅行業者のトマス・クックは1872年に西回りでの世界一周ツアーを実施し、1871年、日本の岩倉具視使節団は東回りで欧米回覧の旅(実際は不平等条約)に出ています。

 また、海底電信の敷設は、変動するヨーロッパの商況を早くしかも的確に把握することを可能にし、アジア貿易のリスクを大幅に減らしました。幕末期、セイロン以東には電信網は通じておらず、本国政府からの指令や日本からの情報は船で運ばれていました。1869年にスエズ運河が開通するまで、往復には四~五ヶ月かかっていたのです。電信線がデンマーク系の会社によりシベリア経由で長崎に延長敷設されるのは、1871年です。電信線は同年上海・香港へとつながれ、香港で、地中海・インド洋を経由して敷設された英国系会社の海底電線と接続されました。ヨーロッパと横浜や東京が電信でつながるのは73年のことです。

 アジアの開港場に各国の植民地銀行が支店を開設して貿易金融を開始したため、資金力の弱い勝者にも貿易取引に参加する機会を拡大しました。不平等条約が締結された1850年代末とは比較にならないほど、経済的結びつきは拡大し、強固なものになっていきました。

 そのネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。植民地金融、商業の拠点であり、定期海運網の基地であると同時に、通信・情報(海底電信網、外字新聞、領事館)のセンターでもありました。欧米の東アジア経営を支える貿易・流通機能の集中点としての三港体制は、定期汽船航路が拡充された1860年代に入って形成され、交通革命を迎えた1870年代に急速に整備されていいたのです。

 こうして欧米によって形成された東アジアの国際的ネットワークは、欧米との経済関係のみならず、アジア相互の経済関係においても実権を握りました。しかし、1880年代にかけて、アジア相互の条約体制が整備されていくにつれ、アジア相互の直接貿易が発展し、朝貢(ちょうこう)貿易システムにかわる自由貿易状況が形成されると、貿易ネットワークは三港を中心としつつもその他の開港場相互のネットワークの拡充によって急速に多元化していきました。また、80年代における東アジア域内市場の拡大は、欧亜間貿易を独占していた欧米資本の地位を低下させていきました。その結果、アジアの海は、次第にアジア商人の手に握られるようになっていくのです。

 上海・香港・横浜の三港は、いずれも在来の都市をなるべく避けて、現地との衝突を起こさない場所を選んで建設されました。たとえば、香港では、中国人には利用価値のない不毛の島と呼ばれた香港島を獲得し、港湾都市を建設して、やがてアジア最大の貿易都市へと発展させました。

 日本では当初の開港場は神奈川とされていましたが、幕府はここを避けて当時の小さな漁村である横浜村を開港場に指定しました。ここに外国人の居留地を建設しても問題は少ないと考えたのです。列強は当初は異論を唱えましたが、商人たちは次々と横浜に進出したため、開港場として認め、やがて日本最大の貿易港へと発展したのです。

 とはいえ、この三港は、ヨーロッパから東回りでも西回りでも終着点であったため、列強の複雑な利害関係が絡み合っていました。そのことが三港の性格の違いを生じさせたのです。

香港はイギリスのネットワークの拠点

 香港は、南京条約でイギリスに割譲されたイギリスの植民地であり、イギリスの世界海運ネットワークの終結点でした。英国(頭脳)、インド(胴体)、シンガポール(肘:ひじ)、香港(手首)、上海・横浜(指)というたとえがありますが、まさに香港は、東アジアへの入口であり、アジア経営の要でした。

 香港には、香港総督・全権大使・貿易監督官が設置され、イギリス海軍の極東艦隊が置かれていました。軍事的・外向的基地としての役割が重視されていたため、香港財政の構造は土地、アヘン、酒類ライセンス収入が主であり、支出の第一は人件費でした。

 香港は、軍事基地およびイギリス国内法の保護を要する金融の中心でしたが、地代が高い、総督の東征が厳しい、後背地が狭い、貿易の可能性が少ない、などのデメリットから、住みにくい(上海との気候の違い、病死が多い)という欠点がありました。そのため初期には貿易商から嫌われていました。

上海はどちら回りでも終着点

 香港(植民地)がアジア経営の政治的、軍事的センターであったのに対して、上海(居留地)は中国側の開港場であり、欧米の共同租界が設置され、租界の経営には列強が共同してあたりました。上海は東回り、西回りのどちらでもアジアの終着点であり、その先には長江や大運河を通じて広大な中国内陸都市が広がっていました。香港が欧亜間貿易の中継点であるのに対して、上海は内陸市場と外国貿易を結合する中国の経済ネットワークの拠点であったのと同時に、アジア域内最大の貿易・海運・布教の拠点でもありました。両者は分業関係が成立していました。

 また、私見ですが、上海は長江の支流に位置しています。ロンドンもテームズ川を少し入った港でありよく似ています。

横浜は太平洋ネットワークの拠点

 一方横浜は、西回りルートにおける東アジアの入口であり、その意味では、アメリカの東アジア戦略の拠点としての性格を有していました。イギリスにとって、横浜は最終点であり、香港・上海に比べればその地位は相対的に低かったというべきでしょう。アメリカは南北戦争によって一時的に後退したものの、1870年代には再び対日外交を積極化させて、英仏のアジア経営に対抗していきます。

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授大阪大学大学院教授 江川 温 『日本人の歴史教科書』自由社 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』他

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