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二・二六事件から日中戦争へ 学校で教えてくれなかった近現代史(42)

満州国

 日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省吉林省黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲でした。

 この地域は、北と東はアムール川黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。

 満洲は本来、地名ではなく民族名および王朝名である「満」と「洲」です。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「州」ではありません。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。(現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。)満州は、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域でした。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、「金」や「後金(後の清)」があります。  歴史的にこの地域はモンゴル系・ツングース系の北方諸民族の興亡の場でした。紀元前1世紀から紀元7世紀まで高句麗が存在しました。古代の中国ではこの地域は中華文化圏とは認めず、東夷・北狄の侵入を防ぐために万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれました。

 中世に入ると、唐や遼の支配を受けて一時中華圏内に入るものの、12世紀には土着の女真族満洲族)が金を建国、遼・北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の王朝明に倒され、一時は明の支配下となったが、後に女真族への冊封による間接統治に改められた。満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国本土全体が満洲民族の支配下に入りました。  近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が頻発したため、国境を定める必要が生じました。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも正式に清朝の国土と定められました。その後、清王朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させました。そして1860年には政策を転換して、漢民族の移入を認め、農地開発を進めて、次々と荒野を農地に変えゆき、この民族移動は「闖関東」と呼ばれます。  しかし王朝末期に弱体化した清朝は、ロシアの進出を抑えきれず、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域は、ロシアに割譲されることとなりました。

満洲国をめぐる国際関係

 1929(昭和4)年のアメリカの大恐慌は、日本経済を不況のどん底に陥れました。折り悪く浜口内閣は井上準之助蔵相の下で金輸出解禁政策を行っていました。日本経済は通常以上の打撃を被ったといえます。大恐慌は同時にアメリカの豊かさやデモクラシーの機能を、イメージとして大いに傷つけました。日本でもアングロ・サクソンを主流とする西洋の没落を予感し、かわって共産主義ソ連や、ファッショのイタリアなど新興の全体主義国家が世界を席巻する予想が次第に鮮明になっていきました。  浜口内閣では、一方でロンドン海軍軍縮を進め、他方で宇垣陸相が軍備近代化に着手します。しかも、海軍内では条約派(軍縮派)と艦隊派(強硬派)とに二分されました。浜口内閣の緊縮財政と相容れない陸軍近代化は、陸軍中堅層から批判が日増しに強くなっていきました。    日本国内の問題として、昭和恐慌(1930:昭和5)以来の不景気から抜け出せずにいる状況がありました。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつありましたが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていきました。  ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていました。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができませんでした。

満州事変

 日露戦争によって、日本は遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)を設立しました。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と関東州及び満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していました。  満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設しました。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んでいきました。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていきました。  満洲清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していましたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいました。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとしました。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立しました。

 満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられました。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れました。  さらに、1917(大正6)年、第一次世界大戦中にレーニンによってロシア革命が起こり、共産党一党独裁体制のソビエト連邦が成立しました。日本はシベリア出兵で満洲の北にあるソ連極東に内政干渉を行うも失敗しました。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになりました。南からは国民党の力も及んできました。こうした中、関東軍の一部将校は満州を軍事占領して問題を解決する計画を練り始めました。  こうした状況の中、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになりました。

日本の生命線 満州国建国

 1931(昭和6)年、関東軍奉天(現在のシ審陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側の仕業として、満鉄沿線都市を占領しました(柳条湖事件)。政府と軍部中央は不拡大方針を取りましたが、関東軍は全満州の主要部を占領し、政府もこれを追認しました(満州事変)。  翌1932年(昭和7年)2月に、遼寧(当時は奉天省)・吉林黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立による満州国建国を宣言を発しました。元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀満洲国執政として即位し、1932年3月1日に満洲国の建国が宣言されました(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名されました。  1934(昭和9)年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した。国務総理大臣(首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となりました。満洲国は国家理念として、満州民族漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人朝鮮人満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言しました。 9月の満州事変の勃発は陸軍中堅層の不満を現実化しました。関東軍にあって石原は全満州を手中に収める計画を構想します。関東軍は満鉄の一部を爆破し攻撃をかけ、全域を半年にして占領するという挙に出ました。陸相には反宇垣系の荒木が就任するなど、政党内閣の内外にも反政党的存在が台頭し始めます。かくてワシントン体制と政党政治は音を立てて崩壊の一途をたどりました。 関東軍が、満州軍閥張作霖を爆破するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害や日本人への迫害などが頻発しました。

満州事変を世界はそう見たか

 満洲国は、日本の影響下にあったことから、事実上日本の傀儡政権とされている国家である。しかし、現在歴史学上では受け入れられていないが、傀儡国家ではなかったと位置づける説もあります。   1932年5月15日、満州問題を話し合いで解決しようとしていた政友会の犬養毅首相は、海軍青年将校の一団によって暗殺されました(五・一五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、その後しばらくは、軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになりました。  アメリカをはじめ各国は、満州事変をおこした日本を非難しました。国際連盟満州にイギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣しました。1932年3月から6月まで中国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って、満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実を認めつつも、満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告しました。日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する二者択一的な性格を示した報告書を提出しました。

 すでに9月15日に斎藤内閣のもとで政府としても満洲国の独立を承認、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り、満洲国建国の正当性を訴えましたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後のタイ王国)で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退しました。

 アメリカ移民の松岡は瀬戸際外交の強硬論者として振るまい、確かにマスコミ受けはしたものの、やがて近衛新体制下の外相として日本外交を破滅に導いていきます。もっとも満州事変は停戦協定によって一応の着地点に達することができました。

 その後、日本と中国とのあいだで停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などによる著しい人口流入もありました。しかし満洲国の実験は関東軍が握っており、一方で大小さまざまな抗日運動も耐えることがありませんでした。

二・二六事件

 1936(昭和11)年、桂園時代以来久しぶりに任期満了選挙が翌年2月に20日行われ、民政党205議席、政友会174議席民政党が第一党に返り咲いたほか、社会大衆党が22議席と躍進しますが、選挙結果に示された民意を反映する方向への変化はまったく起こりませんでした。   1936(昭和11)年、2月26日早朝、陸軍の青年将校の一派が1400余の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃しました。彼らは宮中をおさえる斉藤実内大臣、財政をおさえる高橋是清大蔵大臣の二人や警護の警官らを殺害し、政党・財閥・重臣らを打倒し、天皇をいただく軍部独裁政権の樹立をならい、東京の永田町周辺を占拠しました二・二六事件)。

 ところが、昭和天皇は重臣を殺害した反乱分子を許さない断固たる決意を示しました。反乱軍は3日で鎮圧され、識者らは死刑に処されました。しかし、こののち、陸軍大臣海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍が支持しない内閣の成立は困難となりました。

 軍部の存在感と影響力は以前とは比較にならない程増大しました。また「憲政常道論」との完全な決別を余儀なくされた元老西園寺は、後継首班選定の幅を広げ宮中グループの制度化と人的増員を図りました。自らの生物的寿命と政権交代ができなかった以上、それを制度と宮中の人材でまかなうしか方法はなかったのです。それは、元老能代替機関として内大臣・宮内大臣をトップとする宮中の制度化を進め、それに枢密院議長と総理大臣経験者による重臣グループの形成にありました。  こうして、二・二六事件以降、軍部と宮中が政治的肥大化をとげることになります。それは政治のリーダーシップが確立されなかったことを意味しました。近衛文麿東条英機の二人を除けば、リーダーシップをとれる首相はいませんでした。新体制と日独伊三国軍事同盟という内外の枠組みの確立を過大とした近衛、日米戦争の遂行のために内外の制度整備を課題とした東条だけが、首相指名のそれなりの必然性を有していたのです。

 二・二六事件の後、外務大臣広田弘毅が首相となります。それは本命の近衛が断ったために次善の策としか言いようのない巡り合わせでした。勢力を増大した陸軍は、自らリーダーシップを発揮することなく、拒否権集団として自らの組織利益を擁護するだけでした。

 たとえば、特定の国務大臣候補への拒否権の発動、政治性交渉能力のある軍人をすべて排除しました。陸軍は巨大な官僚集団と化し、軍事費だけで四割強を占める有様でした。広田は一年後、ハラキリ問答という議会におけるハプニングで倒れると、元老西園寺は陸軍のコントロールを考慮に入れて満を持して親英米派の本命宇垣一成を後継に選びました。しかし今や拒否と排除を旨とする官僚集団化した陸軍は、現役武官制を盾に、宇垣内閣を実現させませんでした。1937(昭和12)年、林内閣の後、西園寺は意を決して政界のホープ近衛を首班に推しました。もはや近衛以外に首相候補はいなかったのです。五摂家筆頭という名門、45歳という若さ、「英米本意の平和主義を排す」という革新的色彩の強い態度、いずれもが近衛に対する各方面からの強い期待を呼び起こしました。

 第一次近衛内閣は、一ヶ月後の盧溝橋事件など発展した日中戦争の処理と運命を共にすることとなります。内閣は不拡大方針でしたが、下克上状況にあって軍のコントロールはもはや利きませんでした。

西安事件

 同じころ中国では、蒋介石が率いる国民党政権と、中国共産党とがはげしく対立し、内戦状態にありました(国共内戦)。中国共産党は、抗日で国共両党が抗日で協力することを呼びかけました。しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そののち、日本と戦うという方針を変えませんでした。共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられました。  満州地方の軍閥で、関東軍に追い出された張学良は、蒋介石共産党の討伐を命じられていましたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していました。張学良は、1936年、蒋介石西安で監禁し、共産党との内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせました(西安事件)。   盧溝橋事件

 一方、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどいって、中国側との緊張が高まっていました。また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5千人の軍隊を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月7日22時40分頃、北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃する事件が起きました。翌日7月8日3時25分、竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けたと見られています。

 この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していきました(盧溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決が図られましたが、日本側は大規模な派兵を決定し、国民党政府も直ちに動員令を出しました。

南京大虐殺にすり替えられた通州事件

盧溝橋事件から三週間たった昭和12(1937)年7月29日、北京の東方に位置する通州で、済南事件を上回る日本人居留民虐殺事件が発生した。これは通州事件と呼ばれている。200人以上の日本人が中国側に殺害された。余りにも記すのも憚れるような残虐な事件なのであった。

これにより現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦された後、陰部を銃剣で突かれえぐり取られた。首に縄をかけられ引き回しにされた上、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通したまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。

これらは、すべて中国伝統の虐殺の「作法」である。通州事件は中国の抗日戦史のなかでは「反正」(親日政権に対する正義の反乱」や「義挙」などと評価されている。愚昧な保安隊による単なる虐殺事件にすぎないのだ。

「中国・黄 文雄 韓国 反日歴史教育の暴走」 海竜社より

同年8月、外国の権益が集中する上海で二人の日本人将兵が射殺される事件が起き、ここから、日中間の衝突が一挙に拡大しました。こうして日中戦争支那事変)が始まりました。

日中戦争(事変)の用語ついて

 「事変」とは本来「警察力でしずめることができない規模の事件、騒ぎ」という意味です。「事変」という呼称が選ばれたのは、「戦争とは国家観の戦闘を意味し、当時、大日本帝国中華民国が互いに宣戦布告しておらず、公式には分裂政府の国民党軍や共産党軍は中華民国を代表するものではなく、国家間では戦争状態にない」という認識から、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間を事変と呼ぶことを双方が望んだからです。宣戦布告を避けたのは、両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためでした。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、宣戦布告は不利とされたのです。

 なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱講和条約である北京議定書に基づいています。  この戦争は日米を中心とした太平洋戦争のように、近代国家対近代国家の戦いではありませんでした。当時の中国大陸には、現在の中華人民共和国ような近代国家ではなく、清国が滅亡した後の主力勢力である国民政府(蒋介石の時代には国民政府も北京と南京に分列状態で北伐が行われていた)のほかに、共産党軍と複数の軍閥が各地を統治していました。いわば、日本の戦国時代のような戦国大名が群雄し覇を争っている様な地帯で、蒋介石の北伐などによって少しづつ統一され、ようやく祖国・愛国心というものが芽生えはじめていた時期でした。  日本はその頃満州国を建国し、建国まもない満州の安定を図ることを目的として北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐しました。現代的な感覚では、戦争とは主権国家同士の戦いですが、当時、中国には交渉できる主権国家がなく、「日本=近代国家」と「中国=前近代状態」の戦争と考えられ、日本が西欧的「近代ルール」の戦争をしても、講和など近代ルールに基づく目的を達成することは難しく、「近代」と「前近代」の埋めがたい価値観の違いが、結果的に戦争の泥沼化を招いた一要因であったと考えられています。  日本は日中戦争開始前、開始後、それぞれその地方を治めていた北京政府、南京政府と国際条約を結んで駐屯していましたが、最終的に太平洋戦争の敗戦によってそれらの存在が無効となり、そのような条約があったという事実も消滅してしまいました。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ
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