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共産主義とファシズムの台頭 学校で教えてくれなかった近現代史(40)

日米関係の推移

 日露戦争後、日本は東アジアにおいて押しも押されもしない大国になりました。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となりました。  他方、日米間では、日露戦争直後から人種差別問題がおこっていました。アメリカの西部諸州では、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こりました。アメリカ政府の指導者は建国理念のたてまえから日本人移民の立場を弁護しましたが、各州の自治重視もまた重要な原則であるため、こうした西部諸州の行動を抑えることはできませんでした。

 第一次世界大戦パリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む決議をしました。この提案は世界の有色人種から注目と期待を集めました。しかし、その目的の中には、移民への差別を撤廃することが含まれていたので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対しました。  投票の結果、11対5で日本の決議案への賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンは、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。世界の有色人種が期待した決議は国際連盟ではついに採択されませんでした。このことにも多くの日本人は落胆しました。  アメリカでは、こののちも日本人の移民排斥の動きが続き、日本人はこれを人種差別と受け取りました。

ワシントン会議

 1921(大正10)年から翌年に欠けて、海軍軍縮と中国問題を主要な課題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本を含む9か国が集まりました。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域の安定した秩序をつくり出すことでした。

 米英日の海軍主力艦の保有率は、5:5:3とすることに決められ、また、中国の領土保全、門戸開放が9か国条約として文書化されました。同時に20年間続いた日英同盟が解消されました。日英同盟の廃棄はイギリスも望んでいなかったのに、アメリカの強い意向で決まったもので、結果的に日本の未来に暗い陰を投げかけることとなりました。  主力艦の相互削減は、第一次世界大戦後の軍縮の流れに沿うもので、軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利だったといえます。

関東大震災

 1923(大正12)年9月11日、関東地方で大地震が起きました。東京や横浜などで大きな火災が発生して、死者・行方不明者は10万人を超えました(関東大震災)。日本の経済は大きな打撃を受けましたが、地震の多い日本での近代都市づくりに得た教訓は多く、耐震設計の基準づくりや都市防災への研究がはじまりました。

新しい学問と文学・芸術

 明治末から大正時代にかけて、日本が欧米と対等の国になるという目標が達成されると、新しい知識に敏感な青年たちの関心は、国家よりも個人の内面に向けられるようになりました。それにともない、個性の尊重や自己実現が説かれ、西洋文学・芸術・哲学などのふれて教養を深めることが重視されるようになりました。  禅の体験の上に西洋哲学を取り入れ、西田哲学とよばれる独特の哲学を生み出した西田幾太郎や、日本の庶民の生活風俗を研究する民俗学を始めた柳田国男などが出て、学問に新しい発展をもたらしました。

 文学では、人道主義を掲げた志賀直哉武者小路実篤有島武郎など白樺派の作家たちや、耽美的な作品で知られる谷崎潤一郎、理知的な作風で知られる芥川龍之介などが登場して、新しい時代の精神を表現しました。

 大正時代後半からは、マルクス主義の見地から、労働者の生活や革命運動を描いたプロレタリア文学もあらわれました。また新劇とよばれる西洋の舞台を模範にした演劇もさかんになりました。絵画では日本の風景を雄大に描く横山大観や女流画家で美人画を描き続けた上村松園などの活躍が大衆の注目を集めました。

大正文化と都市生活の形成

 大正時代半ばから、民衆の知識水準が向上するに連れ、新聞の他に『中央公論』や『文藝春秋』などの総合雑誌が読まれるようになり、文学全集なども大量出版されました。ラジオ放送も開始され、文化の大衆化が進行しました。  近代産業の発展に伴う都市生活者の増大につれて、都市の中心と郊外を結ぶ私鉄が開通しました。また、乗合自動車(バス)の路線拡大、デパートの開業、女性の服装の洋装化、カレーライス、コロッケ、トンカツといった洋食の普及など、今日に至る都市生活の原型ができあがりました。バスガールや電話交換手など、女性の新しい職場への進出も始まりました。第一次世界大戦後には、アメリカの文化が流入し、とくにアメリカ映画は人気を集めました。

二つの全体主義

 ヨーロッパで生まれた二つの政治思想が、1920年代から30年代にかけて台頭し、世界に広まりました。

 一つは、マルクスの思想に始まり、ロシア革命を引き起こした共産主義です。もう一つはドイツとイタリアを中心とし、他のヨーロッパ諸国の一部にも波及したファシズムです。

 どちらも全体主義の一種で、各地に革命運動を生み出し、独特の政治体制をつくりあげ、20世紀の歴史を大きく動かしました。

共産主義

 共産主義の考え方では、労働者階級が団結して革命を起こし、資本家を追放して経済を計画的に運営し、階級による差別のない理想社会を建設することが目標にかかげられました。それを実現するための手段が、共産党にすべての権力を集中する一党独裁体制でした。

 ロシア革命以後、共産主義となったソ連では、レーニンの死後、スターリンが権力を握りました。スターリンは、重工業の建設、農業の集団化を進める一方、秘密警察や強制収容所を用いて、膨大な数の人々を処刑しました。ソ連は向かい旧社会の実現という理想を掲げていましたが、現実には強制的労働な膨大な数の犠牲者を生み出しました。  ソ連は世界中に共産主義を広める拠点でありました。そのため、1919年に、コミンテルンとよばれる指導組織がつくられました。世界各国の共産党は、コミンテルンの支部と位置づけられ、モスクワの本部の指示を実行し、自国の政府を打倒しようとしました。

ファシズム

 イタリアでは、1922年にムッソリーニファシスト党による独裁政治が始まり、1935年にエチオピアに侵攻しました。ファシスト党にみられるような独裁的な軍国主義の傾向をファシズムとよび、世界恐慌後、経済的に苦しむ国が広がりました。

 ドイツでは、大it時世界大戦後、巨額の賠償金を背負わされ、はげしい物価高にみまわれて、国民の不安が高まりました。やがて、ヒトラーナチスを率いて登場し、民族の栄光の回復をスローガンに掲げると、人々は次第に彼に引きつけられていきました。ナチス党は、1929年に始まった世界恐慌による国内の混乱に乗じて、1932年には国会の第一党に躍り出ました。翌年、ヒトラーは政権を握って、たちまち独裁政権をつくりあげました。

 ナチスのとっていちばん大切なことは人種でした。ゲルマン民族の純潔を守るという理念のためには手段を選びませんでした。ヒトラースターリンと同様に、秘密警察や強制収容所を用いて、大量の殺戮を行いました。二つの全体主義国家は、互いに対立しつつも、相手から支配のやり方を学び合っていました。

内乱が連続する中国の排日運動

 日本が元号を「昭和」と改めた頃、中国では、各地に私兵を抱えた軍閥が群雄割拠していました。国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦いながら国に統一をめざしました。1928年、蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立しました。中国統一の動きは、日本が権益を持つ満州にも到達しました。日本は居留民保護を名目に3度にわたり山東地方に出兵しました。

 中国国内統一が進行する中で、不平等条約によって権益を持つ外国勢力を排撃する動きが高まりました。それは支配に対する中国人の民族的反発でしたが、暴力によって革命を実現したソ連共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになりました。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になりました。

 さらに、西欧列強の進出などで中国国土が荒廃すると、漢民族の民衆の間にも広く民族的自覚が芽生え、19世紀半ばに起こった太平天国の乱では「滅満興漢」(満洲族を滅ぼして漢民族を興す)のスローガンが強く叫ばれた。満州族の風習である辮髪を切って、清朝支配に抵抗を示す者も現れるようになりました。

 辛亥革命後、中華民国の共和制が成立し、清国が瓦解すると、中華民国は徐々に排日、好日への時代と入っていきます。そのきっかけは、日本政府の袁世凱政府に対する「二十一箇条要求」でした。さらに1919年の「五・四運動」以後は、いっそう反日、抗日のムードが恒常化していたのです。

 中華民国成立以後は、日本だけでなく欧米露も、清国以来の中国での権益を守ろうと必死でした。日清戦争後の三国(独仏露)干渉をはじめ、民国以後の日本は段き瑞、張作霖、王兆銘などを支援したのに対し、米英は袁世凱、呉はいふ、蒋介石を支援しました。されにソ連は、共産党勢力を支持したのでした。

 それはあくまでも、既存国益を守ろうとする動きであり、日米英露の近代国家が果たすべき義務でもありました。こうした理由から、日本と列強各国の対立は避けられないものとなっていったのです。

 当時のアジアは、開国維新以来、黄人VS白人、黄禍VS白禍の時代背景の下で、アジアの覚醒を迫られていました。それにいち早く挑んだのが日本でした。日支提携や、共同防共に至るまでの国家防衛としての戦略上、それは必要なことでした。

 しかし、東アジアで問題だったのは辛亥革命後の新生中国です。中華帝国崩壊後、中国は諸党派、諸勢力の対立からはじまり、延々と軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が続き、戦乱のカオス状態が続きました。政府はいくつも乱立し、多政府戦乱国家となっていったのです。袁世凱から蒋介石の時代に至るまで、大小無数の武装勢力が対抗し、中央政府からの討滅を逃れるためには、共通の敵を創出することが必要だったのです。

 共産党軍は、蒋介石軍の五回にわたる討滅の危機のなかで追いつめられ、起死回生の窮余の一策として「抗日」策が取られました。つまり、日中戦争の主因は、中国内戦のなかでの反抗武装勢力が、起死回生のために起こした排日運動だったのです。とはいえ、もちろん「排日」「抗日」の時代といえども、中華民国という時代は決して反日一色に塗りつぶされていたわけではありません。少なくとも満州事変から終戦に至るまでは、平和勢力に代表される各地の親日政権の存在がありました。実際は反将、反共の抗争を続けていた内戦の時代です。

協調外交の行き詰まり

 政党内閣のもとで2期にわたって外務大臣を務めた幣原喜重郎は、英米と強調して条約を守りつつ、中国の関税自主権回復の要求を支持するなど、中国の民族感情にも同情をもって対抗する協調外交を推進しました。  しかし、中国の排日運動は収まりませんでいた。日本では軍部を中心に中国に対する内政干渉政策で対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなりました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社 人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ
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