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列強の仲間入りをした日本 学校で教えてくれなかった近現代史(35) 

第一次世界大戦のはじまり

 日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出を図りました。そのため、ヨーロッパの情勢は緊迫しました。  ドイツはすでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいましたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めました。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907年、三国協商が成立してドイツを包囲しました。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていきました。  このころ、バルカン半島では、民族の独立をめざす運動が高まりました。この地域に利害関係をもつ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとしました。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ、一触即発の緊張状態が続いていました。

 1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに、三国協商三国同盟があいついで参戦し、第一次世界大戦が始まりました。

日本の参戦

 日英同盟を結んでいた日本は、三国協商の側について参戦し、ドイツに宣戦布告しました。ドイツの租借地であった山東半島の青島や太平洋上の赤道以北の島々を占領しました。また、ドイツの潜水艦が敵国の協商側の商船を警告せず無制限に攻撃する作戦を開始すると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣して、護衛に当たりました。  中国は、青島を占領した日本軍の撤退を求めました。日本は逆に中国に対して、1915(大正4)年、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に譲ることなどを要求しました。中国側は、日本人顧問の受け入れなどの希望条項の内容を、列強の介入を期待して公表しました(二十一か条要求)。英米両国は日本に抗議しましたが、日本は希望条項を除く要求を強硬な姿勢で中国に受け入れさせたので、中国国内では反日世論が高まりました。

ロシア革命と大戦の終結

 長引く戦争のさなか、1917年、ロシア革命が起きました。食糧難にあえぐ都市の市民の暴動に兵士が合流し、ロマノフ王朝が倒れました。マルクス主義の理論に基づき、国外に亡命して革命の機会を待っていたレーニンは、こうした情勢を直ちに利用しました。武装蜂起したレーニン一派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくりました。その後他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党一党独裁体制を築きました。  ソビエト政府はドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭しました。皇帝一族をはじめ、共産党が的とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人ら、数知れないほど処刑されました。

シベリア出兵

 長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、共産主義の革命勢力に対しても、アメリカ以上に強い警戒心を抱きました。同様にヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行いました。

 1918(大正7)年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、シベリアへの影響力拡大を目的に、アメリカなどと共にシベリアへ共同出兵しました。やがてアメリカは撤兵しましたが、日本は1922年まで共産軍と戦い、兵を引きませんでした。

総力戦

 第一次世界大戦は当初、人々は短期間で簡単に終わるものと思っていました。しかしロシア革命をはさんで戦争は4年ものあいだ続きました。そしてこの戦争は、過去の戦争と全く違った性格を持つようになりました。  第一次世界大戦では各国は持てる力のすべてを出し尽くし、国民生活はすべて戦争にまきこまれました。このような戦争を総力戦といいます。科学兵器の発達にともない、飛行機、飛行船、戦車、潜水艦、さらには毒ガスなどの新兵器が用いられ、参戦国の国民は空襲にさらされました。国民は軍需工場に動員され、生活必需品にも不足する状況があらわれました。

大戦の終結

 第一次世界大戦は1918年、ドイツなど三国同盟の敗北に終わりました。最大の戦場となったヨーロッパは、人類史上初めて総力戦の悲惨な現実を経験しました。多数の国民が戦争に巻き込まれ、たがいに民間人まで殺し合ったことは、のちにさまざまな影響を及ぼしました。

 その一方で、参戦した日本は、結果として少ない犠牲で戦勝国となることに成功しました。アメリカにとっても、この戦争は国力すべてを傾けた戦争ではありませんでした。第一次世界大戦を境に、太平洋をはさむ日本とアメリカの二つの国が、国際社会で発言力を高めるようになりました。

ベルサイユ条約と大戦後の世界

 1919年、パリで講和会議が開かれ、日本は五大国(米・英・仏・日・伊)の一つとして出席しました。講和会議の結果、ベルサイユ条約が結ばれました。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、すべての植民地と領土の一部を失い、苛酷な賠償金の返済にあえぐようになりました。これはのちに、第二次世界大戦の原因の一つとなりました。  アメリカのウィルソン大統領は、講和のための14か条の原則を提唱し、パリ講和会議で、国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための機関として、国際連盟の設立を提案しました。フランスなど他の戦勝国の中には政治の現実からかけ離れた空論であるとして反対する国がありましたが、戦勝国はアメリカの参戦で勝つことができたので、最後にはアメリカの提案を受け入れ、1920年国際連盟が発足しました。ところが、提案国であるアメリカが議会の反対にあって参加できず、国際連盟は限られた力しか発揮できませんでした。

アジアの独立運動

 大戦後、民族自決の気運の高まりの中で、アジアでも民族独立運動が起こりました。インドでは、非暴力主義の指導者ガンジーネルーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求しました。イギリスはこれを弾圧しましたが、民族独立への動きはかえって大規模になりました。

 日本の支配下の朝鮮では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった人々がソウルで独立を宣言し、「独立万歳」を叫んでデモ行進を行いました。この動きはたちまち朝鮮全土に広まりました(三・一運動)。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧しましたが、以後は統治の方針を文化統治政策に変更し、のちに日本との一体化を進めていくこととなりました。  中国では、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引き継ぐことになると、1919年5月4日、北京の学生デモをきっかけに抗議運動が起こりました(五・四運動)。この運動はその後、中国の各地に広がっていきました。

日本の大戦景気  第一次世界大戦中、日本では軍需品の輸出が急増しました。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえました。三井・三菱・住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばしました。  このようにして日本は、第一次世界大戦によって日清・日露に続く第三の成功を収めました。その一方で大きな犠牲を払わずに成果を得たので、これからの戦争が総力戦になると言う世界の動向に充分な注意を向けることができませんでした。

日本国家の新しい課題

 日清・日露の二つの戦争に勝利したことによって、日本は、欧米列強の圧力のもとで独立を維持するという幕末以来の目標を達成しました。日本の国際的地位は向上し、世界列強の仲間入りを果たしました。  しかし、国際的地位の向上は、日本にとって思い試練を課されることでもありました。日本は唯一の有色人種の大国として、欧米列強からは警戒のまなざしで見られるようになりました。  また、国内では、ポーツマス約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こしました。 日本と植民地  日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もあります。  しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的です 台湾(下関条約による割譲) 南樺太ポーツマス条約による割譲) 関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む) 朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合) 南洋群島国際連盟規約による委任統治)  これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではありませんでしたが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていました。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入されました。

内地(ないち)と外地(がいち)

 日本の法令で植民地という用語を使用したものはありませんが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前、日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであるとされてれいます。  法令による規定を見ても、 ・内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、 ・外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、 ・樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、  内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかを議論の対象にすることはほとんどありません。

 また、日本の統治が及んでいた地域ではありませんが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナムラオスビルマカンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡(かいらい)性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もあります(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。

 しかし、領有に至る経緯に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もあります。

 内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などといました。外地には朝鮮総督府台湾総督府樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任されました。これら外地官庁の要職は内地人で占められていました。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しませんでしました。

内地

  日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。 本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬壱岐隠岐佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。 北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。 沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 南樺太南樺太についても、台湾や朝鮮と同様に日本の領土であったため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られました。しかし、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督や朝鮮総督とは異なり、立法権を一般的に委任する方策は採られなかった。これは、台湾や朝鮮とは異なり南樺太は内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。  1943年(昭和18年)4月1日、「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)の廃止にともない、名実ともに樺太が内地に編入されました。 小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。  このほか以下の島々を内地に編入しました。 北大東島南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 硫黄島・北硫黄島南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。 魚釣島久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。 沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。

外地

 外地(がいち)とは、第二次世界大戦前の日本(大日本帝国)において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。植民地、殖民地、属地ともいった。  日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。  当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。  外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。 1 台湾 2 朝鮮 3 関東州 4 南洋群島

租借地委任統治区域

  租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借しました。  委任統治区域は南洋群島で、西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領でしたが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域としました。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行いました。南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) は、南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなります。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得しました。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有していました。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃しました(昭和12年条約第15号)。

 租界(そかい)は行政自治権治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地で、阿片戦争後の不平等条約により中国大陸各地の条約港に設けられました。日本は専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設しました。また、上海の共同租界に参加していました。北京には正式な租界ではありませんが、事実上の共同租界として機能した公使館区域がありました。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限がありましたが設置しませんでしました。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有しました。1943年、中華民国汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃しました(昭和18年条約第1号、同第2号)。 [2]近代国家体制の確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭であり両班の暴力による土地収奪などは日常茶飯事であり、農民の間でも土地の所有をめぐる抗争が絶えなかった。 また政府が国地勢を正確に把握していなかったために国土計画も困難であった。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社

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