但馬国ねっと風土記

但馬国ねっとで風土記 【はてな】

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

大東亜戦争(太平洋戦争) 学校で教えてくれなかった近現代史(45)

ナチスドイツとヨーロッパの戦争

 第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、1933年ナチス党のヒトラーが政権の座につき、ゲルマン民族血統主義によるユダヤ人を迫害する一方で、武力による領土回復と拡張を進めました。ドイツはソ連と不可侵条約を結んだうえで、1939年9月、ポーランドに電撃的に侵攻し、これをソ連との密約により両国で分割しました。イギリスとフランスは、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。1940年、ドイツ軍は西ヨーロッパに侵攻し、パリに入城してフランスを降伏させました。

日独伊三国軍事同盟の失敗

 日本はヨーロッパにおけるドイツの勝利に目を奪われました。1940(昭和15)年、日本はアジアにおける日本の立場を有利にするために、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結しました。しかし、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟には実質的な効用はなかったばかりか、イギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させる要因となりました。

 1941(昭和16)年4月、日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結び、二つの条約の圧力でアメリカから譲歩を引き出そうと考えました。しかし、同年6月、ドイツがソ連に侵攻し、このねらいは破綻しました。

追いつめられる日本

 日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉しましたが断られました。こうして、米英中蘭の4国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれました。日本の新聞はこれをABCD包囲網と呼んで国民の反発を誘いました。  1941(昭和16)年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まりましたが、交渉はまとまりませんでした。7月、日本の陸海軍はフランス領インドシナの首都サイゴン(現在のホーチミン)に入りました(南部仏印進駐)。サイゴンは、日本が南進の拠点にできる軍事上の重要地点だったので、危機感を募らせたアメリカは、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復しました。8月、米英両国は大西洋上で会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、領国の戦争目的をうたいました。  日米交渉は続けられていましたが、進展はありませんでした。11月、アメリカは、日本が中国・インドシナから無条件で全面的に撤退することを求める提案(ハル・ノート)をつきつけました。これを最後通告と受け止めた日本政府は、対米開戦を決意しました。

大東亜会議

 日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその結果を示すため、1843(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催しました。  会議では、連合国大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげました。この会議以降、日本は、「欧米勢力を排除したアジア人による大東亜共栄圏の建設」を、戦争の表向きの目的として強調するようになりました。  この会議の出席者のうち、中国は重慶蒋介石国民党政府に対抗してつくられた南京政府。また43年、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、チャンドラ・ボース自由インド仮政府を承認させました。

アジア諸国と日本

 この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えました。占領した東南アジアの各地では軍政をしきました。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力しました。

 しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝を強いた(最近では自由だったという研究がある)ことに対する反発もありました。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民もふくめ多数の犠牲者が出ました。また、戦争末期になり、戦局が不利になると食料が欠乏したり、現地のひち人が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしば起きました。

 日本の南方進出は、「アジアの開放」という名目をかかげながらも、自国のための資源の確保を目的としたものでしたが、日本が敗戦で撤退したあと、これらの植民地は、ほぼ十数年の間に次々と自力で独立国となりました。日本軍の将兵の中には、敗戦のあと現地に残り、これら植民地の独立勢力に加わった者もありました。  「日本軍は、長いあいだ、アジア各国も植民地として支配してきた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えた。『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのだ」--マレーシアの独立運動家ノンチックの著書より

日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々

 数百年にわたってオランダの植民地とされてきたインドネシアには、昔から一つの伝説が語り継がれていました。ジャワ島にあった小さな王国がオランダによって滅ぼされるとき、王様が次のように予言しました。「今に北方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうしてわれわれは開放される」。  似ろ戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊マラッカ海峡を埋め尽くして進んでいくのを見たとき、インドネシア人は、「北方から来る黄色い巨人とは、日本人のことに違いない」と信じるようになり、密かに日本の南進を待ちこがれていました。

 1942年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道ばたに集まり、歓呼の声を上げて迎えました。実際、日本は、3年半の占領期間に、オランダ統治時代では考えられないPETAと称する軍事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定、集団検診、現地青年を集めた技術者養成所など、のちの独立の基礎となる多くの改革を行いました。

真珠湾攻撃

 1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を攻撃し、アメリカ太平洋艦隊と陸軍の航空部隊に全滅に近い打撃を与えました。この作戦は、アメリカの主力艦隊を撃破して太平洋の制海権を獲得することをめざした者でした。同日、日本陸軍マレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつシンガポールをめざして侵攻しました。  日本は米英に宣戦布告し、この戦争は「自存自衛」の為の戦争であると宣言しました。1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められました。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われましたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれます。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分です。  ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦は、日・独・伊の枢軸国と、米・英・蘭・ソ・中の連合国が世界中で戦う戦争へと拡大しました。  対米英回線をニュースで知った日本国民の多くは、その後、次々と伝えられる戦果に酔っていました。他方、アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が、真珠湾攻撃よりも遅れたのは卑劣な「だまし討ち」であると自国民に宣伝しました。今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させる結果をもたらしました。 宣戦布告と開戦の真実

 最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定でした。  12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになりました。

 書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省コーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交しました。

 すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していました。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略説の根拠となっています(真珠湾攻撃陰謀説)。  また日本海軍航空隊の真珠湾攻撃の前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件が発生していた(ワード号事件)。なお、ワード号事件よりも早く、日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間午前5時30分)にマレー半島に上陸しており、太平洋戦争の戦端はこちらとなる。 暗転する戦局

 戦争の最初の半年間、日本の勝利はめざましく、マレー半島に上陸した日本軍は、わずか70日で半島南端のシンガポールにある英軍の要塞を陥落させました。連合国側の準備が整わなかったこともあり、たちまちのうちに日本軍は広大な東南アジアの全域を占領しました。  しかし、1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦での日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗れ、航空母艦4隻を失いました。これを皮切りに米軍は反撃に転じました。日本は制海権を失い、補給路を断たれ、輸送船はアメリカの潜水艦によって次々と沈められました。日米の生産力の差も次第に表面化し、日本軍は乏しい武器・弾薬で苦しい戦いを強いられましたが、日本の将兵は、この戦いに国将来がかかっている、と信じてよく戦いました。

アジアに広がる独立への希望

 日本の初戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てました。東南アジアにおける日本軍の破竹の勢いの進撃も、現地の人々の協力が合ってこそ可能でした。もともと親日家だったタイに加えてシンガポールなどで日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され、日本軍と協力してインドに向けて進撃しました。インドネシアビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』  大東亜戦争が正式な名称です。戦後アメリカ側がこの名称を禁止したので「太平洋戦争」という用語が一般化しました。アメリカ側からすれば、日本と対戦したのは太平洋だけですが、東アジアでの戦争ですので大東亜戦争というのが一般的です。 人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。