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(16) 高麗の建国と文化

[catlist id=8] 高麗の建国

 朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。  高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。

中央行政機構の整備

 契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。  こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。  両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

郡県制と地方支配

 地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。  郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。  邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。

モンゴルの侵略と高麗の滅亡

 13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。  1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。  1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。  高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。

仏教の浸透

 平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていました。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられています。桓武期には、奈良仏教が鎮護国家を目標として祈祷を主とする国家仏教であり、学問的な性格をもつものであったのに対し、平安仏教は、人々の心性への仏教の浸透という意味から、その後の日本仏教の源流であり、今日まで多大な影響を持っています。  そもそも平城京からの遷都は、光仁天皇仏教の政治との深い関係を嫌い、仏教偏重をあらため、その後を桓武天皇が継いだことによります。奈良の諸宗派は旧地にとどめおかれ、あらたな都を守る宗教的精神的背景の空白の意味は大きかったでしょう。  平安仏教は、従来の日本に見られない中国仏教最澄(766~822)による天台宗と、空海(774~835)を開祖とする真言宗の二宗によります。最澄空海は、期せずして同じ遣唐使の一員として中国に渡りました。天台宗ですが、最澄は当時隆盛だった中国天台宗において最新の数学をおさめそれを伝えましたが、あらたな教義による国家的戒壇の創設を求める運動をはじめます。  最澄は、もと近江国分寺の官僧で、中国からの帰化人系の子として生まれました。19歳の時、東大寺戒壇で具足戒を受けたあと、突然比叡山にこもり、12年間の思索と修行を過ごしました。修行のあと、遣唐使に加わって804年、唐に渡ります。一年という短期間の間に、円経(法華経)、密教、菩薩戒(大乗戒)、禅の教えを受け、おおくの法具や書籍を蒐集し、その後の四宗兼学の天台法華宗の方向性を決定づけました。わずかな期間での帰国は、当初からの予定とはいえ、我が国に大乗戒壇を設立しようという最澄の熱意によるものでした。  我が国に正式の戒壇が作られたのは、奈良時代の754年、鑑真の渡来によって東大寺において聖武天皇光明皇后に菩薩戒を授け、僧に250戒からなる具足戒を授けたのがはじまりで、その後三戒壇東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺)が設置されました。奈良仏教では小乗の戒律とともに、僧となるための具足戒を授け、さらに大乗戒も授けていました。最澄の主張は、僧が僧たるには大乗の菩薩戒でなければならないとし、大乗戒のみでたりるとしました。桓武天皇の知己を得た最澄は、大乗戒壇の独立をめざしました。  弘法大師として親しまれる空海は、讃岐国多度郡に、地方貴族佐伯氏の子として生まれました。讃岐さえ岸は、学者・宗教家を多数輩出した家系でした。自伝や伝記によれば、15歳の時儒教を学び、18歳で大学に入ります。31歳で唐渡までの足跡はあきらかではありませんが、大学に遊学中は学を怠り、都会の軽薄な文化に染まり、不定な生活をしていたようです。あるとき一沙門から、百万遍となえれば、この世にある一切の経文を暗記できるという「虚空蔵求聞持法」をしめされます。それを期に仏教にすすみ、四国の各地を修行したといわれ、僧としての授戒はそのあとのことのようです。24歳の時に華麗な漢文体で書かれた「三教指帰」で己の修業時代をふりかえっています。  804年、最澄もののなかにいた遣唐使に加わり唐渡した空海は、長安金剛界胎蔵界の両部密教を伝授されると806年に帰国するや、嵯峨天皇の知遇を得て、次第に真言密教に浸透します。最澄とは、結果的には決別しますが八年ほどの交流があったようです。空海は、宗教家としてのみならず、三筆のひとりとされる名筆家であり、満濃池の開拓、最初の民衆の教育機関である綜芸種智院の開設等、活躍の場が広いです。それは従来の仏教では排除される人間の感性的・動物的な心性からどのように上位の悟りに達するかであり、深い人間性の洞察を含むものでした。  日本仏教は、平安仏教によって、宗教論理としての大系を持ち、はじめて民衆への浸透の手がかりを得たといえます。その開祖たちの独自の思索が、衆生救済としての大乗仏教の新たな足掛かりとなり、日本の仏教といえる独自の特徴をもつことになりました。  こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいきました。嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開きました。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化といいます。  平安中期は、仏教末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなりました。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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