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【韓国朝鮮の歴史と社会】(21) ロシア革命と朝鮮

韓国朝鮮の歴史と社会 朝鮮半島

[catlist id=8] 在外朝鮮人

 韓国併合前から、政治的な自由や生活の基盤を求めて国外に移住する朝鮮人が増加しました。そのなかでも朝鮮と国境を接する中国東北地方の領域は「間島(カンド)」とよばれ、在外朝鮮人の活動の一大拠点となっていました。併合後には、民族主義者が自治組織や民族教育機関を設立し、越境した義兵部隊を改編した軍事団体を備えて、武装闘争を展開しました。これらは独立軍と総称されました。これに対して、日本は、1920年10月、日本人居留民の保護を口実にシベリア出兵軍などを「間島」に侵入させ、独立軍の鎮圧をはかりましたが、和竜県青山里の戦闘では独立軍の部隊に大敗しました。以後、日本軍は報復として「間島」在住の朝鮮人を虐殺するなど徹底的な弾圧をおこないました。独立軍の諸部隊は離合集散を重ねましたが、25年前後には参議府、正義府、新民府の三団体に統合されました。  極東ロシアでも、併合直後から自治組織が結成されましたが、ロシア革命の勃発は社会主義思想を伝播する役割を果たしました。18年6月ハバロフスクで韓人社会党が、19年9月イルクーツクで全露韓人共産党がそれぞれ結成されました。中国国内では、18年8月、上海で新韓青年党が結成され、パリ講和会議に代表を派遣することを試みました。米国でも、ウィルソン大統領の知己である李承晩[*1]らを中心に外交活動が展開されました。  三・一運動が発生すると、運動継続を願う民族主義者により各地で亡命政権が樹立され、これらが統合して、1919年4月、上海のフランス租界に大韓民国臨時政府(臨政)が樹立されました。臨政は朝鮮国内との連絡網の確立につとめる一方、欧米の世論に向けた工作を展開しましたが、外交活動か武装闘争かをめぐる内紛が激しくなり、1925年3月、大統領李承晩が罷免され、国内との連絡も断絶されて、以後活動は沈滞しました。  日本本国へは併合以前から労働者が移住していましたが、併合後は在日朝鮮人の数は増加しました。その原因は、地主制の発達にともなう土地喪失農民の増大と、日本資本主義の勃興による労働力の創出は、日本への移住をいっそう促進しました。

※[*1]…李承晩(イ・スンマン、1873~1965)。独立運動家・政治家。早くから英語を学ぶ。1904年渡米してプリンストン大学で博士号を取得する。1919年大韓民国臨時政府大統領に就任後も米国を拠点に独立宣言運動に従事する。1948年韓国の初代大統領となるが60年四月革命により退陣した。竹島問題の発端である漁業権をめぐる李承晩ライン。

労農運動と新幹会

 1920年代、日本資本進出の本格化につれて、朝鮮内でも労働者の数が増大しましたが、長時間労働、低賃金、親方支配、危険放置など、劣悪な労働条件に対する不満を爆発させました。各地に労働組合が結成され、1920年4月に結成された最初の労働団体である朝鮮労働共済会は、知識人が会員の多くを占め、労働者の知識啓発や品性向上など、労資協調主義的な団体でしたが、のちには社会主義思想の影響を受けるようになりました。  一方、地主制の発達にともない小作争議もさかんになりました。1920年初頭には、地主との協調を基本とする小作人組合が指導し、高率小作料の引き下げを要求する大規模な争議が発生しましたが、半ばからは、小作権移動に反対する小規模な争議が多発しました。24年4月には、全国の労農運動を統括する朝鮮労農総同盟が組織されました。27年には階級的色彩を明確にし、朝鮮労働総同盟と朝鮮農民総同盟に分立しました。29年1月にライジング・サン社の石油貯蔵所の労働争議として発生した元山ゼネストは、港湾と運輸関係の労働者を巻き込み、植民地期最大規模のストライキに発展しました。  1920年代初頭、ロシアや日本などを経由して朝鮮にも社会主義思想が伝播しました。社会主義に基づく政治活動は禁止されていたので、研究をかかげる各種の思想団体が結成されました。25年金在鳳を中心として秘密裏に朝鮮共産党が結成され、モスクワのコミンテルン(国際共産党)から承認を受けました。共産党は、1926年4月、大韓帝国最後の皇帝であった純宗の死去を契機に、三・一運動の再現をねらって学生や天道教に工作を進めました。そして、6月10日純宗の国葬当日、ソウルで学生が万歳の高唱やビラの散布などの独立示威を敢行しました(6・10万歳運動)。しかしその後、共産党は度重なる弾圧のため壊滅し、コミンテルンの承認も取り消されました。  1929年11月、光州で発生した日本人と朝鮮人の学生同士の衝突が、植民地教育制度に反対する全国規模の運動に拡大する(光州学生運動)と、12月に新幹会は運動を支援する民衆大会の開催を計画しました。しかし、直前の弾圧により主要幹部が多数検挙されて大会は中止となりました。31年5月、新幹会は解消しましたが、近代的な「政治」のあり方を学ぶという意味で、その経験は貴重なものでした。また、27年5月、女性運動の統一組織である槿友会が創立され、新幹会と共同歩調をとりました。

近代社会の形成

 「文化政治」のもと、1920年代から30年代にかけて、都市を中心に近代社会の形成が進みました。当時京城とよばれたソウルの人口は急増し、日本帝国有数の都市へと発展しました。道路の拡張、城壁の撤去や高層建築の登場などは、都市の景観を一変させました。街路には路面電車や自動車が行き交い、電気や水道の整備も徐々に充実し、官庁や大企業の従業員を中心に俸給生活者が増加しました。それのともない、百貨店や映画館、喫茶店、カフェなど都市的な消費文化の施設が増えました。人々の洋装や洋髪も暫時普及し、日本食や洋食など外食の習慣も広まっていきました。ラジオや電話、電報など新たなメディアが導入され、レコードも発売されました。さらに、欧米の文化や芸術も、おもに日本を経由する形で受容されました。  ただし、都市生活の中心にあった朝鮮在住の日本人たちは、本国の生活文化をそのまま持ち込み、それを極力維持しようとしました。神社の祭礼や花見、川遊び、紅葉狩り、初詣など、日本の一地方都市としての生活が営まれたのでした。他方、農村から大量の住民が都市に流入するようになると、都市周辺部に朝鮮人スラム街の形成が急激に進みました。その結果、都市は、洗練され先進的な中枢部と、劣悪で後進的な周辺部の二重性を帯びるようになりました。このように、日本人の生活圏と朝鮮人の生活圏が直接交わることはそれほどなく、同じ都市内でも格差は大きいものでした。  これらの都市的な文化や価値観は、都市以外の村落地域に居住する人々にとってもあこがれの対象として受け止められました。学校や官公庁、病院などを拠点として、時間厳守の観念や衛生の観念の普及、文書を通じた事務処理の徹底のような日常生活における規律の強化と一体となって、村落地域にも緩慢ながら着実に浸透していったのです。

恐慌下の農村と「満州事変」

 昭和恐慌は朝鮮でも猛威をふるい、労働者が解雇されたり日本への渡航が制限されたりして、民衆を困窮させました。さらに産米増殖計画が中断されると、豊作飢饉のなかで農村は崩壊の危機に瀕しました。とりわけ、春の端境期は、自家の食糧さえ確保できず、山野の「草根木皮」の採取によって辛うじて生命を維持するような極貧の生活を強いられる農家が少なくありませんでした。そうしたなかで、北部のかん鏡道・北道を中心に社会主義思想が浸透し、「赤色農民組合運動」とよばれる激しい農民運動が展開され、支配基盤は動揺しました。  農村の社会不安を危惧する宇垣一成総督は、1933年3月、農村振興運動の開始を命じました。この官制運動は更正部落や更正農家を選定して、家計管理に至る個別指導をおこないつつ、増産と節約、副業を通じた困窮からの脱出を企てました。しかし、根本的な解決とはなりませんでした。  ところで、「文化政治」のもとでさかんになった民族運動や社会運動への対応として、総督府当局は、従来の同化主義体制を最終的には自治主義体制へと転換せざるを得ないと判断しました。29年末から、朝鮮議会の設立と帝国議会議員選出のための試案を作成し、本国政府と交渉を進めましたが、本国政府の拒否によって挫折しました。それに代わっておこなわれたのが、地方制度の改編でした。30年、道制、邑制が新たに公布され、府制が改訂されました。議決権機関として道会、府会、邑会を設置しました。この改編は朝鮮人有権者の増大をもたらし、地主や商工業者など有力者が地方政治に参加する道を拡大することになりました。その結果、朝鮮人の対日協力が進展することとなりました。  20年代から朝鮮農民の「満州」移民が増大し、「満州事変」勃発直前には約60万人におよびました。とくに豆満江対岸の「北間島」では朝鮮人が住民の多数を占めました。多くが中国人地主の小作農民である彼らに対しては、「満州」在住の朝鮮人社会主義者による組織工作が進められ、朝鮮共産党満州総局や中国共産党満州省委員会の指導下に闘争が発生しました。そして、30年5月には朝鮮人社会主義者が一斉に蜂起し、日本の軍隊や警察と市街戦を演じる事態にいたりました(間島五・三○蜂起)。また、31年7月長春郊外で水路開削工事をめぐり朝鮮人入植者と中国人農民が衝突する万宝山事件が発生しましたが、この事件の内容が朝鮮内に歪曲報道されたことにより、多くの朝鮮在住中国人が報復を受けました。  33年3月「満州国」が成立すると、在住朝鮮人のなかには中国人とともに反満抗日運動を展開する者も少なくありませんでしたが、一部は満州国のかかげる五族協和[*1]に呼応し、官吏や企業家として支配に協力しました。20年代からいち早く進出していた日本窒素系の企業を中心に、朝鮮北部の工業化が開始されました。

※[*1]「五族協和」…五族とは日本人・満州人・蒙古人・韓人・朝鮮人のこと。 出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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