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【韓国朝鮮の歴史と社会】(26) 南北の対話と緊張

[catlist id=8] 中ソ対立と北朝鮮

 建国以来、中国、ソ連と密接な関係を維持してきた北朝鮮にとって、中ソ対立は対応が困難な試練でした。反米闘争の堅持をかかげる北朝鮮は、1960年代前半、ソ連を批判して中国を支持しましたが、文化大革命の開始とともに中国との対立が深まり、ソ連との関係が改善されました。1970年、中国との関係も正常化されましたが、一連の事態は、北朝鮮に自主路線貫徹の必要性を痛感させました。  1961年に策定された人民経済発展七カ年計画は、翌年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる四大軍事路線の採択にともない、国防支出を増大させて、民生関連予算を削減する変更を強いられました。軍事費の突出により経済建設は困難を極め、計画は三年間延長して70年に達成されました。さらに、イデオロギー面でも自立化路線が追求され、1967年5月、解放前祖国光復会の活動を国内で支えた甲山派も粛清されて、「革命の首領」金日成が唱える「主体(チュチュ)思想」[*1]に全国民が従うことを求める「唯一思想体系」が確立されました。

[*1]…主体思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、防衛における自衛」を趣旨とし、自力更生を重視してマルクス主義を朝鮮に適用した思想。

南北の対話と緊張

 中ソ対立や米中接近など国際情勢の変化を機に、軍事費の増大がそれぞれの財政を圧迫していた南北の政権は、対話路線に転換しました。極秘の折衝の末、1972年7月、「自主・平和・民族的大同団結」という祖国統一の三大原則をかかげる共同声明(七・四南北共同声明)が発表されました。これは、互いに存在を否定してきた南北の政権が、相手を一つの政権として認めたことを意味し、将来の統一に向けて、今後の対話と交流の拡大を期待する内外の民衆の熱狂的な支持を獲得しました。

南北の強権体制

 韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)の長期政権に対する不満も高まり、1971年4月、第七代大統領選挙で野党候補金大中が善戦しました。政府への支持拡大をねらった南北共同声明でしたが、依然として民間レベルでの南北交流を禁圧する反共体制を維持しようとする政府に対する世論の批判を招きました。支配の安定確保をもとめる朴正煕政権は、1972年10月、非常戒厳令を布告し、12月、大統領の権限を極限まで強化した「維新憲法」を公布して(第四共和国)、個人独裁体制を確立しました。また、1970年11月、青年工員全泰壱が劣悪な労働条件に抗議して焼身自殺した事件を機に高揚した労働者、農民の運動や野党や学生の反政府運動は、大統領緊急処置の発令により徹底的に弾圧されました。1973年8月、金大中KCIA(中央情報部)の要員によって宿泊中の東京のホテルから拉致され、1974年4月、200余人が反国家団体結成の嫌疑で逮捕される(民生学連事件)など、政治的弾圧事件が続発しました。しかし、市民や学生の独裁批判は止まず、政治家の尹潽善前大統領や金大中キリスト教会などが1976年3月、朴正煕大統領緊急措置撤廃・朴正熙政権退陣を呼びかけ、民主救国宣言を発表しました。  経済的には、1972年、重化学工業化をめざす第三次五カ年計画が開始されました。日本の技術援助を得た浦項総合製鉄所が完成し、現代(ヒュンデ)、三星(サムソン)などの財閥が輸出を推進して、「漢江の奇跡」とろばれう経済成長を実現しました。他方、解体しつつある農村の再統合をはかり、農民の所得増大と大衆動員をめざすセマウル(新しい村)運動が展開されましたが、離農は阻止できませんでした。1979年夏、第二次石油危機による不況下で労働争議が頻発しましたが、政府は弾圧方針を変えませんでした。争議は大統領退陣要求運動へと発展しました。釜山や馬山で市民と警察の衝突が続くなか、1979年10月、朴正熙が側近の中央情報部長に射殺され、個人独裁体制は崩壊しました。  北朝鮮では、1972年12月、新憲法が制定されました。金日成が新設の国家主席に就任し、党と国家と軍の権力を掌握しました。その理論的基盤は主体思想でしたが、前とは異なり、マルク主義の唯物論を超越した人間の意識の能動性が強調されました。1973年2月、思想革命、技術革命、文化革命をめざす三大革命小組運動が開始され、それとともに金日成の長男 金正日が台頭しました。個人崇拝の徹底につれ、後継者の資格を血統に求める主張が力を得たのです。以後、金正日の資質を賞揚し、社会主義国家における権力世襲を正当化する事業が推進され、1980年10月、朝鮮労働党第四回大会は、金正日金日成の後継者であることを正式に内外に発表しました。  経済的には、1971年から重工業の発展に重点をおいた六カ年計画が開始され、重労働と軽労働、農業労働と工業労働など各部門間の労働格差解消と、女性の家事労働からの解放を唱える「三大技術革命」が提示されました。しかし、軍事費の圧迫により経済成長は鈍化し、西側から借款の導入がはかられましたが、第一次石油危機を機に対外債務返済の不履行が深刻化しました。

韓国の軍事政権

 朴正熙暗殺後、首相崔圭夏が後継大統領になりましたが、1979年12月、全斗煥が「粛軍クーデター」で実権を握りました。全斗煥は、翌年5月戒厳令を全国に拡大し、光州の民主化抗争を武力で弾圧して、第11代大統領に就任しました。1981年3月、新憲法下に第五共和国を出帆させた全斗煥政権は、日米の保守政権と連携を強め、日本から40億ドルの借款を獲得しました。また、強権でインフレを解消した後、1982年からの第五次五カ年計画では民間企業主導の開発戦略を採用しました。しかし、日本に対する累積債務は深刻であり、1982年7月、日本の歴史教科書の記述訂正を求める運動が高揚したように、政府の対日依存の姿勢は野党や学生などに非難されました。80年代後半にはウォン安、原油安、金利安の恩恵で輸出が増大し、1986年貿易収支がはじめて黒字となりました。しかし、権力との癒着を背景に不正蓄財事件が続発し、政府を批判して大統領直接選挙の実施を求める運動に多くの市民が参加しました。  1987年6月、全斗煥の後継者に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)が、大統領直接選挙実施のための改憲民主化金大中赦免をかかげる特別宣言を発表しました。12月、盧泰愚が第十三代大統領に当選しました。盧泰愚政権は軍事色の払拭につとめ、1990年1月、少数与党という窮地を脱するため与野党を合同し、民主自由党を結党しました。他方、88年9月、ソウル・オリンピック開催を機に、東欧諸国など社会主義国と修交する「北方外交」の延長線上に北朝鮮との関係改善がはかられ、90年9月、第一回南北首相会談の開催をへて、91年9月、韓国の主導下に南北は国連に同時加盟しました。

「われわれ式社会主義

 1980年代の北朝鮮では、革命第二世代の権力機構への進出が顕著となり、人民軍最高司令官、国防委員会委員長に就任して権力の継承を進める金正日に対する賛楊事業が展開されました。そして、東欧、ソ連社会主義が崩壊するのに対して、「われわれ式(ウリシク)社会主義」をかかげて体制維持をはかりました。その理論的基盤は、国家における首領と党と大衆の一体性を唱える「社会的政治的生命体論」でした。  1992年4月、憲法が改定され、主体思想の脱マルクス主義化と国防重視の方針が明示されました。他方、経済建設は限界に達し、三年の調整期ののち、87年から第三次七カ年計画が開始されましたが、経済事情は好転しませんでした。また、ソ連の解体と中国の市場経済導入は、従来の「友好価格」での石油や食糧の輸入を途絶させ、状況を悪化させました。北朝鮮は合営法の制定や自由貿易地帯設置など、外国資本の誘致につとめましたが、在日朝鮮人企業家を除いて、進出は進みませんでした。韓国に対しては、ラングーン爆弾テロ事件(83年10月)や大韓航空機爆破事件(87年12月)など、諜略工作がおこなわれました。  1992年1月、国際原子力機関IAEA)との核査察協定に調印しました。しかし翌年、査察を拒んで核不拡散条約(NPT)脱退を表明し、南北会談で戦争を示唆するなど情勢は緊迫しました。これに対して、米朝高官協議がはじまり、94年6月、南北首脳会談の開催が決定しました。7月、金日成が急死して会談は中止されましたが、10月、核兵器開発が可能な黒煙炉を軽水炉に替えることで米国と合意し、95年3月、日本、米国、韓国が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉の建設に着手しました。  また、北朝鮮は、1994年以降連続して自然災害に襲われ、食糧危機の陥りました。国連機関や各国政府、NGOが支援しましたが、危機は解消されませんでした。89年以来のマイナス成長に加え、1994年からは経済計画さえ立案できなくなりました。北朝鮮崩壊による極東情勢の激変を憂慮した周辺諸国は、斬新的な開放政策の導入による「軟着陸」をはかり、97年12月、南北朝鮮と米国、中国の四者会談を開始しました。  日本に対しては、90年9月国交交渉を開始し、97年11月、食糧支援と引き換えに北朝鮮帰還者の日本人配偶者の一時帰国が実現しました。しかし、98年8月、テポドン1号発射を契機に再び緊張が高まりました。韓国の文民政権に対しては、食糧支援を求めて和解の姿勢を示す一方で、96年9月の潜水艦侵入事件など、冒険主義的な工作も併用しました。加えて、韓国よりも米国との直接交渉を優先させる姿勢を示すなど、社会主義国家としての生き残りのために複雑な外交戦略を展開しました。

韓国の文民政権

 1992年12月の大統領選挙では、地域感情をあらわにした選挙戦の末、与党候補の金泳三(キム・ヨンサム)が当選して文民政権が発足しました。前政権の閣僚や有力者を多数逮捕して、独自色を鮮明にしました。省庁統合を断行するなど改革の姿勢を示しましたが、他方で聖水大橋崩落などの事故や公務員の不正が続発し、急激な成長の陰で社会の矛盾が噴出しました。93年からの新経済五カ年計画は先進国入りをかかげましたが、96年10月、経済開発機構(OECD)への加盟が承認され、宿願が実現しました。  また、金泳三政権は、日本の首脳との会談を通じて植民地支配に対する謝罪発言を引き出し、韓国内でも解体に賛否が分かれていた日帝時代の象徴たる旧朝鮮総督府庁舎を解体しました。さらに、95年10月、秘密政治資金口座の発覚を機に盧泰愚を逮捕し、全斗煥とともに「粛軍クーデター」から光州民主化抗争までの事態に関する軍反乱と内乱の容疑で訴追するなど、「歴史の清算」を実践しました。ところが、97年夏、自動車、製鉄など基幹産業の不振から韓国経済は極度の不況に陥り、これが通貨危機に発展しました。年末には対外債務の不履行が危惧されたため、11月、政府は国際通貨基金IMF)や日本、欧米に緊急支援を要請し、辛うじて経済の破綻を免れました。  97年12月、第十五代大統領選挙で野党候補金大中が当選し、与野党間の政権交代が実現しました。金大中政権は、社会・制度の民主化の推進とともに、国際競争力確保のため大企業の構造改革に着手し、国家信用度を短期間に回復しましたが、大量の失業者の出現など犠牲も大きいものでした。対外的には、日本の大衆文化の受け入れなど、未来志向の日韓関係の樹立を進めました。北朝鮮に対しては、「太陽政策」とよばれる協調政策を採用し、北朝鮮領内の金剛山(クムガンンサン)への観光船ツアー実施など、民間の交流を支援しました。しかし、北朝鮮の潜水艦の侵入や黄海上での南北艦艇の交戦など、不安定要因は完全には解消されませんでした。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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