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たじまる 室町-1

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室町 薄群青(うすぐんじょう)#5383c3 最初のページ戻る次へ

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室町時代

概要

目次
  1. 守護大名
  2. 南北朝
  3. 大岡山と進美寺
  4. 雅成親王
  5. 城にまつわる話し
  6. 三開山城
  7. 気多郡内の城跡
 室町時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。足利氏が将軍だったことから足利時代とも呼ばれる。 足利尊氏が1336年(建武3年、北朝延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年)に織田信長によって追放されるまでの237年間を指す。 しかし、建武新政期を含む最初の約60年間を南北朝時代、最後の約80年間を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から明応の政変(1493年)までの約100年間を狭義の室町時代とする場合も多い。

守護大名

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室町幕府が成立すると、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2 つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていきます。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が出現しました。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していきました。

守護大名 室町時代

領国 室町前期 中期 後期
畿内 山城国 やましろ 畠山氏 京極氏 細川氏
大和国 やまと 興福寺
河内国 かわち 畠山氏
和泉国 いずみ 畠山氏 細川氏
摂津国 せっつ 細川氏 赤松氏
山陰道 丹波国 たんば 仁木氏 山名氏 細川氏
丹後国 たんご 山名氏 一色氏 武田氏
但馬国 たじま 今川氏 山名氏
因幡国 いなば 山名氏
伯耆国 ほうき 山名氏
出雲国 いずも 山名氏 京極氏
石見国 いわみ 山名氏 大内氏
隠岐国 おき 山名氏 京極氏
山陽道 播磨国 はりま 赤松氏 山名氏 赤松氏
美作国 みまさか 赤松氏 山名氏 赤松氏
備前国 びぜん 赤松氏 山名氏 赤松氏
備中国 びっちゅう 渋川氏 細川氏
備後国 びんご 細川氏 山名氏
安芸国 あき 武田氏 山名氏
周防国 すおう 大内氏
長門国 ながと 厚東氏 大内氏
南海道 紀伊国 きい 畠山氏 細川氏 畠山氏
淡路国 あわじ 細川氏
阿波国 あわ 細川氏
讃岐国 さぬき 細川氏
伊予国 いよ 河野氏 細川氏 河野氏
土佐国 とさ 細川氏
西海道 豊前国 ぶぜん 少弐氏 大友氏 大内氏
豊後国 ぶんご 大友氏
筑前国 ちくぜん 少弐氏 大内氏
筑後国 ちくご 大友氏 菊池氏 大友氏
肥前国 ひぜん 少弐氏 渋川氏
肥後国 ひご 大友氏 阿蘇 菊池氏
日向国 ひゅうが 島津氏
大隅国 おおすみ 島津氏
薩摩国 さつま 島津氏
壱岐国 いき 京極氏
対馬国 つしま 宗氏
領国 室町前期 中期 後期
東海道 伊賀国 いが 仁木氏
伊勢国 いせ 土岐氏 一色氏 北畠氏
志摩国 しま 土岐氏 一色氏 北畠氏
尾張国 おわり 土岐氏 斯波氏
三河国 みかわ 高氏 一色氏 細川氏
遠江国 とおとうみ 今川氏 斯波氏 今川氏
駿河国 するが 今川氏
伊豆国 いず 上杉氏
甲斐国 かい 武田氏
相模国 さがみ 三浦氏 上杉氏
武蔵国 むさし 高氏 上杉氏
安房国 あわ 上杉氏
上総国 かずさ 上杉氏
下総国 しもうさ 千葉氏
常陸国 ひたち 佐竹氏
東山道 近江国(北) おうみ 京極氏
近江国(南)おうみ 六角氏
美濃国 みの 土岐氏
飛騨国 ひだ 京極氏
信濃国 しなの 斯波氏 小笠原氏
上野国 こうずけ 上杉氏
下野国 しもつけ 宇都宮氏 小山氏
出羽国 でわ
陸奥国 むつ 北条氏 伊達氏
北陸道 若狭国 わかさ 斯波氏 一色氏 武田氏
越前国 えちぜん 斯波氏 朝倉氏
加賀国 かが 斯波氏 富樫氏
能登国 のと 吉見氏 畠山氏
越中国 えっちゅう 斯波氏 畠山氏
越後国 えちご 上杉氏
佐渡国 さど 上野氏 高氏

※比較的短期間の大名は省略しています。 ▲ページTOPへ

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。 近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。 将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。 しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。 足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。 新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。 その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。 足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。 その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。 山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。 貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国京都府)・伯耆国鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。 伯耆国打吹山城(鳥取県倉吉市伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。 まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。 ▲ページTOPへ

大岡山と進美寺

 東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、対照的に気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっています事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。 日高町の南東に位置する須留岐山は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもありました。山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)で、進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。 山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されている私寺だったのであります。 『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多いのも、但馬国府・国分寺が置かれていたためでしょう。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。 大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でしました。 進美寺も同じく天台宗です。山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのでしょう。 大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の流れで、朝来郡で優勢な郷士で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に備後に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。 旧大岡寺庭園は、兵庫県豊岡市にある日本庭園。国指定名勝。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明しました。 ▲ページTOPへ
進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中しているからであります。 しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代(もくだい)と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。 大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。 ▲ページTOPへ

城にまつわる話し

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。三開山城(みひらきさんじょう) mihirakisan 豊岡市駄坂 豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。 室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。 延元元年(1336)、南軍の楠木正成湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。 その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。 秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。 このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。 この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。 しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。 一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

■気多郡内の城跡

城 主 所在地 年代 備 考
稲葉城 大森飛騨守 豊岡市日高町稲葉
太田の城山? 豊岡市日高町太田
万場の城山 豊岡市日高町万場
東河内の城山? 豊岡市日高町東河内
来山城 豊岡市日高町鶴岡
八代城 藤井左京の居城 豊岡市日高町八代・谷 室町期
奥八代砦 豊岡市日高町奥八代字宝城
進美寺山城(掻上城) 豊岡市日高町赤崎・日置 南北朝期(1333-) 但馬南朝方の重要拠点城跡というより大寺院が軍事目的に利用され、戦国末期にも利用された
水生(みずのお)城 南北朝:長左衛門尉、戦国期:榊原式部大輔政忠、次いで西村丹後守 豊岡市日高町上石・上佐野 但馬南朝の拠点 天正8年 秀吉但馬により攻略 長楽寺の裏から山頂に至る間に数カ所の平坦地と、長城に伸びる尾根に掘割が数カ所在る。
上郷(かみのごう)城 源満仲源頼光・赤木丹後守 豊岡市日高町上郷 平安期:天徳年間(957-961) 二段の土塁を持ち、ごく一部に石垣が残る。源満仲但馬国司として赴任してきた時、築城。赤木丹後守は水生城合戦に参加した武士だという。
祢布城 高田次郎貞長 豊岡市日高町祢布 南北朝 山名時氏に滅ぼされ廃城
森山城 安田左近将監・紀伊 豊岡市日高町森山 応安(1368-)~享禄(-1532) 森山と知見境にある低い山(「あかんじゃ」「あかんじょ」とも呼ばれた)に二段の土塁と三カ所の掘割
篠森城 足立忠経・足立肥前 豊岡市日高町久田谷 1500~元亀三年(1572) 久田谷入口の低い山、通称稲葉山
伊福(ゆう)城 下津屋伯耆 日高町鶴岡 室町時代(康正年間:1455-1457)
楽々前城(佐田城)[*10] 山名氏守護代垣屋播磨守隆国 日高町佐田 室町時代(応永年間:1394-1428)
鶴ヶ峰城(三方富士) 垣屋越前守続成の築城:垣屋御三家本城 日高町観音寺 室町時代(永正9年:1512)
宵田城(南龍城) 隠岐守国重・筑後守忠顕:垣屋御三家・分家の城 日高町宵田・岩中 室町時代(永享2年:1430)
但馬にはこの他多数の城があります。くわしくは但馬の城をどうぞ。 ▲ページTOPへ 出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 「日本の中世」放送大学教授 五味文彦放送大学客員准教授・東京大学大学院準教授 本郷和人放送大学客員准教授教・慶應義塾大学準教授 中島圭一『日高町史』、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』他
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