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室町-7 応仁の乱

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応仁の乱

概 要

目 次
  1. 応仁の乱の原因
  2. 勝元と宗全の対立
  3. 応仁の乱
  4. 戦火の拡大
  5. 応仁の乱の影響
  6. 九日市城と当辺羅山の合戦
  7. 戦国時代の国内社会

戦国時代(1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をそのはじまりとし、1573年に15代室町将軍足利義昭織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの約百年におよぶ全国的規模の争乱の時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代安土桃山時代)と区分することもあります。 幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていきました。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制といいます。織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。織田軍団が全国制覇に動き出します。

とくに応仁の乱以降の百年ばかりの間というものは、日本の歴史において最も大きな転換期とされています。日本を大きく、新しく、改造してしまうことになりました。それ以前の古代では律令国家への権力統合、中世にはそれがゆるやかになり、中央では寺社や権門[1]が独自の組織を形成して分立しました。戦国時代はそうした特権階級以外の人々には直接関わりのない歴史とは異なり、下克上という「日本全体の入れ替わり」つまり支配階層の全面的な交替が起きたという直接我々に触れる歴史です。 [1]…権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団をさす

1.応仁の乱の原因

yamana1 山名宗全邸址 2009/1/28 上京区堀川通上立売下る一筋目北西角 応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱です。室町幕府管領細川勝元と四職・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなりました。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれます。もともとは、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発しています。 ただし、実際には文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあり、両氏が対立関係となるのは寛正6年から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されています。
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していました。籤(くじ)引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしいて、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めます。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。 義政は母・日野重子や愛妾・今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。 打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていました。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立ちました。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けました。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて、再三将軍職就任を説得したことから、寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移りました。 文正の政変は、文正元年(1466年)7月、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えました。義廉と縁戚関係にあった山名宗全は一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われました(文正の政変)。

2.勝元と宗全の対立

yamana2 山名宗全屋旧跡(2009/1/28)上京区堀川通五辻西入ル  嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めました。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継ぎましたが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。将軍足利義政は政治に疲れ、男子にも恵まれなかったことから僧籍にあった弟の義視を還俗させて後継者に立てていました。 嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は、主謀者赤松氏の再興に反対していましたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って自分の娘婿である赤松政則加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていました。文正の政変で協力した2人でしたが、それぞれ守護大名家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する2人でもありました。
yamana3 ところが、寛正6年11月23日(1465年12月11日)、正妻の日野富子が懐妊、やがて男子(足利義尚(のち義煕))が誕生すると、にわかに後嗣問題は波乱含みとなったのです。実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍しました。これに、管領斯波氏、畠山氏の家督問題が絡み、時代は動乱前夜の様相を呈していました。 一方、赤松氏で唯一残っていた次郎法師丸が、遺臣らの神璽奪還の功により再興が許されたのです。赤松氏再興の背後には管領細川勝元がおり、将軍継嗣問題、管領家の家督騒動、そして赤松氏の再興とが相まって宗全と細川勝元の対立は決定的となってしまいました。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは、全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていきました。

3.応仁の乱

 かくして、応仁元年(1467)1月、管領畠山政長の解任を契機として対立は発火点に達し、京都御霊社に陣取った勝元方の畠山政長を宗全方の畠山義就が攻撃したことで、応仁の乱の火ぶたが切られたのです。 応仁元年(1467)史上に類を見ない応仁・文明の乱が起こります。それは三度目の赤松氏再興の問題をめぐって山名持豊細川勝元が対立し、管領の畠山氏と斯波氏の間での将軍の後継ぎ問題がからんで戦いが起こりました。両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。幕府は争いを調停せず(できず)、両陣営の大兵力は京の東西に布陣する。前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月26日に本格的な合戦が始まりました。乱が起こると応仁二年、宗全は但馬でも山名の四天王垣屋・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)を中心に、因幡・備後の勢力も軍備を整えて但馬に入り、総勢二万六千あまり此隅山城(このすみやまじょう)下の出石(いずし)付近に勢揃いしました。六月八日には西軍を率いて挙兵し、十五日には丹波口(京都)にさっそうと入りました。 細川勝元は京に軍勢を集結した山名方の留守を突いて、丹波守護代内藤孫四郎、長九郎左衛門らを但馬に侵攻させました。これを迎え撃ったのは、京に出陣中の父や兄の留守を守っていた太田垣新兵衛でした。竹田城から出撃した新兵衛は、但馬・丹波の国境の夜久野高原に布陣する細川勢に突入、内藤備前守孫四郎、長九郎左衛門らを打ち取る勝利しました。山名一族の大方は宗全に属しましたが、二男で備後守護の是豊(これとよ)は勝元方について宗全と対しました。その原因は、宗全には嫡男の教豊があり、幕府の横槍があったとはいえ家督も譲っていました。ところが、寛正元年(1460)宗全は教豊を放逐しました。これによって、是豊は自分が山名氏の家督を継げると期待したのですが、ほどなく教豊(のりとよ)が嫡男に復したことで野望はあっけなく潰れました。この家督をめぐる不満と、勝元の娘婿であったことなどが相俟って、是豊は勝元方につき石見・山城の守護職に補任されたのです。東軍にあって気を吐いたのは、播磨奪還を目指す赤松政則と山名是豊でした。さしもの権勢を誇った宗全でしたが、山名氏一族の統制は鉄壁とはいえないものがあったのです。 一方、播磨の回復を狙う赤松氏では、一族の赤松下野守が播磨に下り、旧臣を糾合すると播磨はもとより美作・備前の両国も回復してしまいました。これに対して山名方は、太田垣宗朝が但馬に帰り、夜久野合戦勝利の余勢をかって丹波へ侵攻、氷上郡の全域と多紀郡の大山荘あたりまでを制圧する勢いを示しました。
nisijin1-300x225 西陣織会館 上京区堀川通今出川南入(2009/1/28) 西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたとされたことが由来です。 今出川通大宮通堀川通の間に西陣の史跡があます。西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。上京区内の東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲の中を指しますが、住所としては存在せず、どこからどこまでかは正確に定められているわけではありません。 一般に鎌倉時代前半に綾織りの織り手がすでに集住していたことが知られており、西陣織など織物産業が集中する地域です。 また、日本で初めて映画館ができた場所です。

4.戦火の拡大

応仁の乱は京都が主戦場でしたが、後半になると地方へ戦線が拡大していきました。これは勝元による西軍諸大名(大内氏土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていきました。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙しますが、時期によっては去就が異なる場合があります。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。■東軍
  • 細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
  • 畠山政長越中・(河内)
  • 斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江
  • 京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
  • 赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
  • 山名是豊:山城・備後
  • 武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
  • 今川義忠:駿河
  • 富樫政親:加賀半国
  • 北畠教具:伊勢半国
  • 大友親繁:豊後・筑後
  • 少弐頼忠:肥前対馬筑前
  • 菊池重朝:肥後
  • 島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない)
  • 豪族
    • 小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

■西軍

京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半でした。「東軍」は皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加え、その近隣地域にも自派の守護を配置していたため、「東軍」が優位を占めていました。「西軍」は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していました。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていました。 一方、関東地方や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していました。 しかし、細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復しました。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出しましたが、勝敗を決するには至りませんでした。 長引く戦乱と盗賊の頻発によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。大内政弘が撤退したのも、領土の安堵を約束させるために日野冨子に政弘が賄賂を贈ったからこそできたことでした。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられています。 ▲ページTOPへ

5.応仁の乱の影響

文明九年(1477年)、西軍の中心的存在であった畠山義就大内政弘らが相継いで領国に撤収したことで、さしもの応仁の乱も終熄を迎えました。しかし、乱はすでに全国に拡散しており、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもありません。さらに、応仁の乱室町幕府の形骸化を引き起こし、終結から100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやりました。 応仁の乱は、将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。 残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。
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清明神社 京都市上京区堀川通一条上ル806一条天皇は平安期の陰陽師・阿部清明の遺業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明公を祀る晴明神社を創建されました。境内の 「清明井」は悪疫難病を平癒するという霊泉。 星形の清明桔梗印呪符や陰陽道天文学に 通じた神主の祈祷、人生相談が人気です。応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。そこで、地元の氏子が中心となり嘉永6年、明治11年、明治36年、昭和3年に整備改修が行われました。また昭和25年には多年の宿望であった堀川通に面する境内地を拡張するなど御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。 近年は陰陽師が一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。
持豊(宗全)が亡くなったあと、孫の政豊(まさとよ)が後を継いで惣領となり(子の教豊は応仁の乱の起こった応仁元年陣中で亡くなった)、文明6年4月3日(4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立し、終結しました。 11年間という長引く戦乱と盗賊の暴挙によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しまいました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなってしまいました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。 この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもないことです。さらに、応仁の乱室町幕府の形骸化を引き起こし、100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやってしまいました。また、越前(福井県)の守護代であった朝倉孝景守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上の風潮が大勢を占め、戦国の世の幕開けとなったのです。 一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるています。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられています。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられています。 また、応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説でしたが、応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられるため、明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっています。

6.九日市城(ここのかいちじょう)と当辺羅山(とべらやま)の合戦

南北朝末期から15世紀まで、但馬守護・山名氏は、守護所を豊岡市九日市に置きました。東側の円山川を外濠に見立て、西側の当辺羅山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地をお屋敷が占める防御態勢でした。1454年(享徳3年)から4年間、山名宗全は将軍足利義教の怒りに触れて、京から当地に退去しました。この間に備後国被官・山名泰通に安堵状を発しています。 御屋敷内には一族の日真上人の産湯井が残り、山名大明神祠もあります。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存しています。 応仁元年(1467)足利幕府や諸大名の勢力争いから始まった有名な応仁の乱は、京都を焼け野原とし、続いて地方に広がって、戦いは十一年も続けられましたが、その西軍の総大将、但馬国守護大名山名宗全(持豊)ですが、宗全の子・是豊は、父の宗全と領地問題で仲が悪くなり、東軍の細川方につくこととなりました。文明三年(1471)、是豊の子の山名七郎頼忠をして、父宗全の本拠地である九日市城に攻め入るように指示しました。これに味方したのが、奈佐谷の奈佐太郎高春でした。奈佐太郎は当辺羅(とべら=戸牧)山に陣を張りました。 宗全の家来で九日市城を守っていた垣屋平右衛門は、これらに対して積極的に戦いをいどんで、頼忠を追っ払い、高春を討ち取りました。 歴史家の石田松蔵氏(豊岡市)は、この合戦の九日市城が、後の豊岡城であり、当辺羅山(戸牧山)というのが、今の文教府付近と思われるとのことです。

7.戦国時代の国内社会

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。 それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。 戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也 「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授大阪大学大学院教授 江川 温 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』他 ▲ページTOPへ
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