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たじまる 戦国1 応仁の乱以後の但馬

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応仁の乱以後の但馬

概 要

目 次
  1. 有力国人衆の離反
  2. 応仁の乱と太田垣氏
  3. 竹田城
  4. 生野城
  5. 赤松氏との抗争

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。 応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。 それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。 戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

応仁の乱と太田垣氏

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太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。 応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。 そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。 その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。 敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。 合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。 ▲ページTOPへ

竹田城(たけだじょう)

  takeda 兵庫県朝来市和田山町竹田 国指定史跡 鉄道
中世山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっています。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられています。廃城から約400年を経ていますが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっています。 竹田城は、但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設されました。築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられています。当初は土塁造りの城郭でしが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となりました。修復には13年の年月を要し、竹田城は標高353.7mもある山上に、今のように機械があっても大抵のことではないのに、人の肩と手と足で五百年も昔では、考えることもできない大工事だったのでしょう。 山名氏のもとでは明徳の乱応永の乱に活躍して、山名四天王のひとりとして台頭してきた太田垣氏が配されました。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けますが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に細川方を撃退しました。 竹田城跡」周辺 寺町通 古城山のふもと、4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。白壁の塀や錦鯉が泳ぐ小川、松並木、小川沿いと虎臥城公園に植栽された約3000株の花しょうぶなどが目を楽しませてくれます。 表米神社(ひょうまいじんじゃ) 祭神は格技を好んだという表米宿弥命。表米は日下部氏族太田垣氏の祖。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。 法樹寺 竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。赤松公は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、自刃しました。境内の裏手に墓碑が祀られています。 常光寺 山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺。光景公の墓碑とされる石塔が残っています。 「竹田城跡」周辺については朝来市ページより (余談ながら拙者の母方は、赤松と共に宍粟郡三日月村中島より移った竹田赤松氏家老で、養父郡大塚庄を領し後に帰農した中島重右衛門と伝わっています。) ▲ページTOPへ

生野城

 生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。 この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。 この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

赤松氏との抗争

 宗全の死後、家督は山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退していきました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなります。 領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、家督をめぐる一族内部での争いが始まりました。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興備前の浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、政豊の子・山名誠豊の時代には、誠豊が但馬、山名豊時の孫・山名誠通が因幡をかろうじて支配するという状態に陥りました。しかも、これを契機に山名家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、互いが宗家の家督をめぐって争う有様でした。 文明十一年(1471年)、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出しました。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかりました。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となっていました。 赤松政則は、山名氏の分国である因幡伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させました。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も毛利次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈しました。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに毛利次郎を因幡から追放しました。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げました。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年に及びましたが、元之らを追放して内乱を鎮圧しました。 赤松政則の策謀による因幡伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めました。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙いました。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城備前)を攻撃しました。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃しました。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣しました。 ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向しましたが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られました。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説きましたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣しました。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込みました。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散しました。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えました。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出しました。 政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開しました。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲しました。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じました。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であったのです。 出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』他 ▲ページTOPへ
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