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【出雲神政国家連合】 古代出雲2/4 スサノオは「砂鉄」を採る男だった

スサノオは「砂鉄」を採る男だった

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。

ここでは先史のことなので史実は残されていませんが、神政国家連合体「出雲王国」について、考えてみたいと思います。

黒岩重吾氏は、出雲の東西の争いが『日本書紀崇神紀にある、出雲振根と飯入根の兄弟の争う話に結晶したと述べています。

荒神谷遺跡から出土した銅鉾は、九州佐賀のケンミ谷遺跡から出ている銅鉾と同じものです。したがって、西部の王は九州北部と交流があったと考えていいとしています。要するに、西の荒神谷周辺の王「振根」と、東の安来の王「飯入根、甘美韓日狭」との闘争です。出雲振根はスサノオの原型で、近畿や吉備勢力に味方して、東の意宇(おう)から出雲を統一したと思われる甘美韓日狭(うましからひさ)らがオオクニヌシであると考えてもそんなに不自然ではないといいます。

弥生後期、吉備と近畿地方とは密接な関係にありましたが、出雲進出は吉備独自の判断だったのかも知れません。吉備津彦は吉備国の王で、ヤマトと同名を結んでいたとは思われますが、『日本書紀』のように、吉備津彦が崇神の命を受けて出雲を討ったとなると、“初めにヤマトありき”となってしまいます。崇神の命で出雲に向かったというのは創作でしょう。

さて、黒岩重吾氏は、問題なのは、出雲を支配していた振根=スサノオ、甘美韓日狭=大国主の王一族の出自としています。

ヒトデのような特異な形の四隅突出型方墳は出雲独特で、倭人が手がけたとはどうにも思えない、高句麗の将軍塚古墳、新羅の土廣墓にも四隅が突出した墳墓がありますが、弥生前期に高句麗から出雲へ渡ってきた一族かも知れない。

スサノオ神話でも、斐伊川上流へ新羅から天降ったという点です。振根、飯入根らの出雲一族も、渡来系が渡来系と婚姻関係を結んだ一族の可能性がある。わざわざスサノオ新羅から天降ったとしない、といいます。

もちろん、秦から徐福が渡来してきたのと同様に、スサノオが一人で渡来したわけではなく、一族(スサノオ族とする)による集団渡来であったはずである。渡来した原因は、日本海側の鉄資源を求めての渡来であったのかも知れないが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったのが最大の原因だと考えられる。 東シナ海を船に乗って、たどり着く地と言えば海流に乗って、済州(チェジュ)島・壱岐対馬を経て、まず九州北部のどこかへ落ち着いたとするのが自然でしょう。

魏志東夷伝』をみると、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部は、三韓といわれる「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分かれており、その弁韓は12国に分かれており、後に伽耶任那)となる南朝鮮では鉄の一大産地であり、「倭」や「楽浪郡」などもこの地で鉄を求めていたようです。スサノオ一族は、南朝鮮にいて製鉄に従事していた一族であり、支配階級であったのでしょう。

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』では、 八世紀に成立した朝廷の正史『日本書紀』によれば、スサノオははじめ天皇家の祖神・アマテラス(天照大神)同様、高天原に住んでいたが、いち早く日本列島に舞い降りていたという。つまり、天皇家のみならず、出雲神・スサノオにも降臨神話があったわけだが、問題は、『日本書紀』には「一書~」という形で遺伝が残されていて、そこには、次のような不思議な話が記されていることだ。すなわち、スサノオは日本に舞い降りる以前、朝鮮半島新羅に降臨していて、そのあとに新本にやってきた、というのである。

日本書紀』神代第八段一書第四によると、高天原で乱暴狼藉を働いたスサノオは、追放され、子どものイタケル(五十猛神)を率いて、新羅国のソシモリ(曾戸茂梨)に舞い降りたという。

ところがスサノオは何を思ったか、「この地にはいたくない」といいだし、埴土(はにつち・赤土)で船を造って東に向かい、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰(船通山)に至ったのだという。

このように、『日本書紀』の別伝には、はっきりと、「スサノオははじめ新羅に住んでいて、そのあと日本にやってきた」と書き残されている。

通説は、スサノオ新羅からやってきたという『日本書紀』の記事から、「出雲と朝鮮半島のつながり」について、肯定的に受け止めているようなところがある。漠然とした形ながら、「出雲は朝鮮半島の影響を強く受けた」と考えているようだ。

「出雲」は神話の三分の一を占めながら、絵空事というのが、かつての常識であった。八世紀のヤマト朝廷が、「ヤマト=正義」の反対概念としての「悪役としての出雲」を、神話の中で大きく取り扱ったのであって、現実に出雲に巨大な勢力がいたわけではないと考え、出雲を無視してきたのだ。

その一方で、スサノオ新羅からやってきたという記事には注目し、スサノオ=出雲は新羅からの渡来人を象徴していたと考えられてきたのである。実際、『日本書紀』のくだりの記事以外にも、出雲と朝鮮半島を結びつける要素は、いくつも見出すことができるし、地理的に見ても、出雲と朝鮮半島がつながっていたと考えるのは、ごく自然のことなのかもしれない。

新羅系渡来人の祖神がスサノオだった?

出雲と朝鮮半島を結びつける例として、まず最も分かりやすいのは、『出雲国風土記』の出雲国意宇郡(おうぐん)の段の「国引き神話」ではなかろうか。この地を「意宇」と名付けた由縁は、その昔、ヤツカミヅオミツノノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲の国は狭く、できて間もない国なので、よその余った土地を持ってきて、縫い合わせよう」といったとあり、「志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)(=新羅の岬)」が余っているからと、綱を掛けそろりそろりと、「土地よ来い」といいながら引き寄せた。それが「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(大社町日御碕)」だったという。そののち、北陸地方の土地などをやはり出雲に引っ張り込んで、最後に「意宇」の地に杖を突き立てて「オウ」と述べたところから、この地名ができたというのである。

新羅の土地を持ってきてしまったという話は、事実であるはずがない。しかし一方で、島根半島の西はずれ、出雲大社にほど近い岬が新羅の土地だったという伝承は無視することはできない。出雲と新羅は、強い縁でつながっていたことは間違いないだろう。

それだけでなない。出雲神といえば、スサノオだけではなく、オオナムチ(大己貴神だが、そのほかに大国主神(おおくにぬしのみこと)、大穴持命(おおあなもちのみこと)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、顕国玉神(うつくしくにたま)、大物主命(おおものぬしのみこと)などの多くの別名がある)が有名だが、この神も朝鮮半島出身だったのではないかとする考えは、根強いものがある。というのも、平安時代以降、宮中では、「韓神(からかみ)」を祀っていたが、その正体は出雲に関わりの深いオオナムチとスクナヒコナ少彦名命)だったからである。

出雲神をわざわざ「韓神」と定義づけて宮中で祀っていたのだから、「出雲の神々」が朝鮮半島からやってきたと考えるのは当然だった。

ならば、スサノオは「日本人」ではなく、新羅からの渡来人だったのだろうか。すでに江戸時代中期には、考証学者・藤井貞幹が、「スサノオ朝鮮半島南部(辰韓)からやってきた」と推理している。同様の考えは今日に引き継がれている。

たとえば、水野祐氏は、スサノオ新羅系の客神とみなしている。「新羅の神=スサノオ」を奉斎して日本にやってきた人びとは、「新羅系の一団であり、砂鉄を求めて移動する、いわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」だったといい、次のように指摘している。 だが、「スサノオが気になる」と述べておいたのは、これほど単純で明解な「出雲=韓」という図式だけではない。

朝鮮半島南部の人びとのみならず、「倭人」も、競って鉄を求めて集まっていた様子が、記事からつかめる。弁韓の地域では、原三国時代の初期から、鉄の素材が各地に搬出されていたことが分かってきている。「韓の金銀(鉄)」が、当時貴重な資源であり、「お宝」だったことは間違いない。

これに対し、日本の「浮宝」とは、「船」のことで、「浮宝がなければ」というのは、材料となる樹木(しかも巨木)が欲しい、といっているわっけだ。太古構造船のない時代の交通手段は、木をくり抜いて作る丸太舟だったから、海の民にとって巨木はなによりも大切な宝物だった。長野県の穂高地方に、日本を代表する海の民・安曇氏が拠点を造り神を祀っているのも、「造船」と山(森)が、深く関わっていたからだろう。(拙者註:諏訪大社御柱祭り)、という。

ヒボコの出石神社に近い兵庫県豊岡市(出石)ハカザ遺跡から2000年に巨大船団を描いた板が見つかり話題となった。新羅からやってきた集団を描いたものではなく、むしろ出石にいた集団が造船して伽耶の人びとに鉄の代価に渡していたのかも知れない。

日本は鉄の見返りに何を韓に渡していたのか

たしかに「木材=船」は貴重な財産だっただろう。しかし、朝鮮半島の「金銀(鉄)」と比べるとそうしても見劣りがする。一見して不釣り合いな「金銀」と「木」を等式で結んでいるのはなぜだろう。実をいうと、この神話の意味するところは重大だったと思われる。

朝鮮半島からもたらされた「鉄」の量に見合うだけの日本側からの「代価」が何だったのか、その正体が分からず、帳簿上の日本側の「輸入超過」状態が続いているのである。いったい、古代の列島人は、何を手みやげに大量の鉄を手に入れていたというのだろう。

朝鮮半島南端に位置し、三世紀前後の北部九州や畿内のヤマトと盛んに交渉を持っていた地域・狗邪韓国・金官伽耶(時代によって呼び方がからっているが同じ地域)の墳墓から、日本製の銅矛、巴形銅器、碧玉製石製品といった「日本的な宝器」が大量に発掘されたことを受けて、これらの儀器が、貿易の代価として支払われた可能性が指摘されている。もっとも、それでも大量の鉄に見合うだけの「宝器」であるはずもなく、この点は(まだまだわからない)。

たしかに日本は極東の島国であって、ここから先はないのだから、つねに朝鮮半島や中国大陸に向かって立っていたことは間違いのないことだ。また一方の伽耶にしても、日本だけを重視していたわけではないこと、隣には、新羅辰韓)や百済馬韓)が存在したし、されに向こう側には、高句麗や中国の諸王朝の圧力が控えていた。 だから日本人が考えるほど、伽耶は日本を重視していたわけではなく、日本的な文化と宗教観を喜んで受け入れたかというと疑わしい。だが逆に考えると、つねに北からの圧迫を受けていた半島南部の人びとが、最後の逃げ場書として日本列島という「保険(シェルター)」がほしかったことも一方の事実であろう。鉄の見返りに目に見えない「保険」を手に入れたという可能性も捨てきれないし、もう一歩踏み込んで、倭国の軍事力を、いざというときに活用しようと目論んでいた可能性も否定できない。

niidani3 西谷古墳 島根県出雲市

スサノオ一族の文明は、魏(中国)の影響を受け、その当時の日本列島の縄文文明よりも発達していたことは間違いなく、農業・漁業・航海術に長けていたスサノオ一族が、ようやく計画的な稲作もはじめかけていたものの、漁労や狩猟中心で暮らしてきた九州の土着の勢力らを包括していくには、そう時間のかかることではなかったと思われます。

当時の日本列島の文明よりも、発達していた朝鮮半島の、農業・漁業・製鉄・航海術に長けていたスサノオ一族が、九州北部や出雲の豪族間との合議・融合によって連合体としてクニ連合を形成していったのではないでしょうか。もし、武力鎮圧によって隷属的に支配下においたのならば、必ずや中国の歴史のように、王が変わると、日本列島へ逃亡・離散するような歴史が残っているはずだからです。

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、兵庫県出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。

このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオ朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

2009/09/06

半島南部の鉄と商人の小国家が日本を建国したのではない

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』によると、 伽耶諸国は六世紀に至るまで統一国家というものを望まず、小国家の連合体のままの状態で滅亡していったということだ。それはなぜかというと、彼らは優秀な証人だったからで、地の利と鉄資源を生かし、海を股にかけた通商国家が伽耶連合だったと考えると判りやすい。

その名うての商人たちが、いざというときの「保険」や「空手形」だけをもらうという不公平な貿易を行ったかというと、実に怪しく、彼らは冷徹に鉄の見返りを求めたに違いないのだ。

それでは日本に何を求めたのだろう。わずかな青銅器や碧玉の儀器だけで、彼らは満足したのだろうか。そうではあるまい。

彼らが求めてやまなかったのは、「木」ではなかったか。 ただの「木」ではない。鉄を精製するために欠かせない燃料の「木炭」である。 なぜ「木」が重要なのか。

青銅器や鉄の技術は中国文明からの贈り物である。その中国では、殷(イン)の時代、青銅器の文明が花開いた。その一方で、森林破壊も徐々に進み、秦の始皇帝の精力的な国土開発と金属冶金事業が、中国の砂漠化の端緒を開いたとされている。と書いている。

なんと今日問題化している砂漠化はすでに始まっていた… 関裕二氏はさらに、ちゅうごくのミニチュアである朝鮮半島でも、同様のことが起きた。青銅器や鉄という文明の利器を盛んに生産したから、貪欲に燃料を求めたのは当然のことだ。

(中略) そうなると、スサノオの宮の決め方にも、「鉄」を意識したのもと捉えることが可能だ。

吉野裕氏は、『東洋文庫 145 風土記』のなかで、スサノオは、海や川の州に堆積した砂鉄を取る男「渚沙の男」の意味だとしている。

スサノオ最大の活躍、ヤマタノオロチ話も、「鉄」とのつながりで語られることがしばしばだ。草薙剣が現れ、これが天皇家三種の神器のひとつになるわけだが、「金属」が神話のモチーフになっていることから、スサノオが金属冶金と関わりがあるとされ、さらに、舞台となった簸川(ひかわ)が、砂鉄産地として名高く、ヤマタノオロチの流した血が川を赤く染めたのは、砂鉄の色を暗示しているという指摘もある。

このように、スサノオの周囲には「鉄」の要素が満ちている。 さらに、スサノオの子(あるいは末裔)のオオナムチも、鉄との関わりをもっている。オオナムチの別名に「大穴持命」があって、「穴」は「鉄穴山」からきているという。鉄穴山とは、砂鉄の産地になる山で、土砂を大量の水で流し、比重が重く下に沈んだ砂鉄を採るわけである。この作業を「鉄穴流し」といい、従事する者達を「鉄穴師(かなし)」と呼んだ。したがって、大穴持命は、「偉大な鉄穴の貴人」であるという(『古代の鉄と神々』真弓常忠)。

これらの伝承は、当然の事ながら、中国地方で盛んにたたら製鉄が行われたからこそ語り継がれたのだろう。出雲地方では、砂鉄採取によって生じる土砂が下流に堆積し、地形が変わるほど製鉄が盛んだったのである。

もっとも、だからといって、現在のところ日本最古の製鉄遺跡は、五世紀末~六世紀にかけての丹後半島の遠所遺跡(京丹後市弥栄町)なのだから、神話が弥生時代から三世紀のヤマト建国当時の出雲の姿を活写しているかどうかは、はっきりとはしていないのだが…。

出雲神話と鉄が結びつくとはいっても、ヤマト建国以前に日本で製鉄が行われていたと考えることはできない。今のところ弥生時代の組織的な製鉄が日本で行われていたことを裏付ける物証は見つかっていないのが本当のところだ。

これに対し、いやいや、日本では弥生時代から、すでに製鉄が行われていた可能性が高いちする説もある。

まず、日本に鉄器が現れるのは、稲作とほぼ同時だったようだ。ととえば、福岡県・曲がり田遺跡では、弥生時代早期の遺跡から、鉄器片が見つかっている。鉄器は、中国から稲作文化の伝播ルート(江南→山東半島朝鮮半島)をなぞって日本にたどり着いたと考えられているから、稲作民が「鉄」とともに日本列島に渡ってきたということになる。

日本最古の製鉄遺跡は遠所遺跡で、古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡だ。ここからは炭窯が五世紀末に造られ、やはり五世紀末の土器が見つかっていて、製鉄もその頃はじめられた可能性が強いのである。

では、それ以前、日本では製鉄は行われていなかったのだろうか。まず。森浩一氏らは、製鉄の痕跡が見つかっていないのだから、弥生時代の鉄は輸入され、その上で加工されていたと主張している。見つかっていないのに予測することは、考古学的な発想ではないからである。

このような考えに対し、弥生時代の鉄器の普及と生産の開始は、ほぼ同時だったとする考えがある。まず第一に、「日本の製鉄は六世紀から」という考古学の指摘はさらに遡る可能性を秘めていること(もっと古い製鉄遺跡が発見されるかもしれない)、第二に、日本における製鉄開始の年代が早まるとしたら、ひとつの仮説が導き出せる、ということなのである。

すなわち、古墳時代はじめの大量の渡来人の流入は、彼らの一方的で腕力にものを言わせた仕業ではなかったということだ。彼らは「利」を求め、あるいは、日本側に求められて来日したのではなかったか、ということなのである。

そう思うのは、古代渡来系豪族を代表する秦氏東漢(やまとのあや)氏らが、想像を絶する数の人びとを伴って日本にやってきていること、しかも彼らは、「金属冶金」に精通した技術者を多く抱えていたという事実があるからである。

しかも彼らの渡来は、混乱や政変による亡命ではなく、迎える側も渡来する方も、あたかも前もって契約していたかのような整然とした移住であった。この理由えお考えるに、やはり彼らは、「双方の合意」のもとに、来日したのではなかったか。すなわち、彼らは金属冶金の燃料を求めてやってきたのであり、迎え入れる側は「燃料」を供給することで「鉄製品」を手に入れることができるわけであり、どちらもメリットがあったのである。

渡来人の来日には、何回かの波があったと言われているが、弥生時代の渡来は「農地」を求めた人びとのなかば移住であったとしても、古墳時代に入ってからの秦氏東漢氏らの移住は、「燃料確保」という朝鮮半島の切迫した事情が隠されていたとはいえないだろうか。

いずれにせよ、出雲神話に記されたスサノオの姿は、「燃料」を求めて来日した渡来人たちの姿と重なってくるのであり、秦氏らが渡来したという「応神天皇の時代」とは、じつはヤマト建国の前後だった可能性があり、つまりは、「朝鮮半島の鉄の民の動向」が、ヤマト建国と大いに関連していたのではないかと、筆者はひそかに勘ぐっているのである。

そしてもちろん、秦氏東漢氏らが、鉄の技術を持って来て、ヤマトを圧倒したのではないかと言っているのではないことは、くり返す必要はあるまい。あくまでもギブアンドテイクであり、鉄と商人の民であった朝鮮半島南部の人びとの行動原理を、もっと「利」というもので見直す必要も出てくるのではないか、といいたいのである。

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、そして、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来していたのではないかと思えてきた。

それでは、天皇家がもし海の外からやってきたのであれば、やはり彼らも「森林」を求めてやってきたのだろうか。いや、そもそも本当に天皇家朝鮮半島からの渡来人なのであろうか。

天皇家の祖が海の外からやってきたのではないかと疑わせるきっかけを作ったのは、八世紀に編纂された記紀に記された二つの神話や説話なのである。それがいわゆる「天孫降臨神話」と「神武東征説話」である。