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第四章 彦座王と大丹波編 但馬最大の池田古墳は誰なのか?

第四章 彦座王と大丹波

池田古墳は、長さが141mの前方後円墳古墳時代中期(5世紀前半)とされており、この時期では日本海側で最大の規模を誇る。但馬の大型古墳はすべて南但馬にあり、特に池田古墳や茶すり山古墳が造られた和田山地域は、円山川と街道が交差する但馬最大の交通の要衝である。 この地を支配できた人物こそ、但馬王にふさわしかったといえる。茶すり山古墳は巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたことから、ヤマト政権から重要視された武人=「但馬王」が埋葬されていたであろう。 池田古墳や茶すり山古墳などが5世紀前半とすると、彦坐王丹波道主命と年代がどうなのだろう。

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現地説明会 2008.3

それ以降、和田山地域で大型古墳の築造はなく、『但馬故事記』に、

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾(粟)鹿宮に薨ず。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

茶すり山古墳は、豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」の反対側にあり、豊岡自動車道は春日ICで舞鶴若狭自動車道につながり、丹後や篠山方面へつながる。禾(粟)鹿宮である粟鹿神社から茶すり山古墳までは約4kmである。巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたこと、粟鹿神社に近いことから、彦坐命が葬られた禾鹿の鴨ノ端ノ丘とはこの場所をさすのではないかと思うのである。この時期で日本海側最大の前方後円墳、池田古墳がふさわしいのだが、禾鹿の鴨ノ端ノ丘は粟賀地区でなければならないから、池田古墳や城の山古墳より濃厚だ。

息長宿祢命の子・大多牟阪命を以って、朝来県主と為す。 大多牟阪命は、墨坂大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足尼命を生む。 人皇13第成務天皇5年、竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼命は多遅麻国造となり、大夜夫宮に遷る。(中略)神功皇后元年、多遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜夫船丘山に葬る。 物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。

、とある。物部多遅麻連公武から以降は北但馬の気多郡に多遅麻連→但馬国の国府は固定される。

物部多遅麻連公武は気多郡高田郷に府を置き、それ以降但馬国府まで気多郡に遷るので、円山川を挟んだ対岸にある大藪古墳群は古墳時代後期で、大夜夫宮が大藪にあるとしたら、船穂足尼命の古墳は大藪古墳群にあるということにほぼ間違いない。

『但馬故事記』に 人皇3代成務天皇の御世に竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼が多遅麻国造となる。人皇15代神功皇后からは気多郡に府が遷り、物部連大売布命の子・公武が多遅麻国造となり府を気多郡高田邑に置いた。父・物部連大売布命は伊香色男命の子で、人皇12代景行天皇の御世に戦功により多遅麻の摂津の川奈辺と気多・黄沼前三県を与えられ、多遅麻の気多に下ったが、成務天皇の御世は景行天皇の東国遠征に随行し、大売布命の子・公武から多遅麻国造になっているので、ほとんど多遅麻の政は行っていなかったと思われる。

長浜浩明氏は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』で、古代の歴代天皇在位年の実年を計算している。前代の天皇崩御年を起点として若干の誤差が生じる御代のあることを承知していただきたいと述べている。

これによれば、第9第開化天皇 BC158-98 第10代崇神天皇 BC97-30 第11代垂仁天皇 BC29-AD70 第13代成務天皇 131-190 第14代仲哀天皇 192-200 ・摂政神功皇后  201-269 第15代応神天皇 270-310 第16代仁徳天皇 313-399 第17代履中天皇 400-405 第18代 反正天皇 406-410

前方後円墳は、古墳時代3世紀中頃から7世紀初頭頃というのが定説で、畿内の大王墓は6世紀中頃までで終わり、6世紀後半になると全国各地で造られないようになっていく。 『但馬故事記』の朝来郡故事記は、神功皇后まではくわしいが、古墳時代に相当する第15代応神天皇、第17代履中天皇、第27代安閑天皇(531-535)の朝来県主を淡々と記すのみであり、18代から20代、22代から26代まで記載なく、また、第27代安閑天皇以降は用明天皇まで記載がない。 したがって、巨大古墳にふさわしい但馬王は、彦坐命、その子・丹波道主命以外に見当たらないのであるが、彦坐命、その子・丹波道主命崇神天皇 BC97-30、垂仁天皇BC29-AD70になり、朝来郡丹波・多遅麻・二方三国の大国主がいたことが正しければ茶すり山古墳、池田古墳が最新の年代測定で調べられているので間違いないはずで5世紀前半とする。しかしその頃の朝来郡では三国の大国主であった地位から、第13代成務天皇(131-190)に、多遅麻国のみを治める多遅麻国国造となって、養父郡1代を経て、気多郡に遷っていることである。

全くもって素人が疑うなど失礼なことであるが、築造推定年が正しいのかどうか、約400年遡って紀元前後の出来事なければならないのだ。

『但馬故事記』は偽書だといえるのかどうか。但馬風土記が焼失したことで、平安初期、残念に思った国衙国学寮の地元出身ではない中央からの国司(役人)たちが長い年月をかけて公正に調べあげた全国にもあまり類がない国司文書である。

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