但馬国ねっと風土記

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2 生野義挙への動き

生野義挙(生野の変)への前夜

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。 また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、ともに天領であり代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。

その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。

そのころ三田尻の招賢閣に、筑前平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。

8月19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平は、21日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。

8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。 五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。

8月26日、新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。

9月1日、京に入った北垣晋太郎(国道 のちの京都府知事)は、長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。

9月2日 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島(今の城崎温泉)の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。

なぜ但馬生野で挙兵したのか

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こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村(養父市)の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。

第一回農兵組立て会議

9月5日、養父明神別当所普賢寺(今の社務所)において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。

また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。

一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。

美玉三平、平野國臣と会見する

美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。 9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。 9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。 8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。

9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。 この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。

第二回農兵組立て会議
9月19日、13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、平野は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)と連携して、生野天領での挙兵を計画した。さてここで、いよいよ生野で倒幕の兵を挙げる事となる。

生野義挙への動き

9月20日 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、長州に向かう。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。 9月27日 吉村寅太郎戦死。 大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。

[catlist ID = 35] 参考資料 【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏 幕末史蹟研究会 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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