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日本人はどこから来たのか? 1 旧石器に日本列島にやってきた人々

日本人はどこから来たのか

日本人はどこから来たのか

最初の日本人がどこから日本列島にやってきたのか?多くの人は大陸の華北黄河)⇒朝鮮半島⇒日本列島という経路で渡来し、また北方では、樺太から北海道などへ移住してきたと教えられた。まや弥生時代に稲作が渡来人によってもたらされ、列島の縄文人と混血し、縄文人弥生人弥生時代がはじまったなど。

まず、朝鮮半島から渡ってきたという説は否定されている。

むしろ倭人が半島南部に日本列島同様に居住して文化を伝えていた。

1 人類の誕生と出アフリカ

 分子人類学は、DHAのもつ「分子時計」で計測した結果、現世人類が今から15万年前に、アフリカ中央部・大地溝帯の東側で「一人のイブ」から誕生したといいます。「アフリカ起源説」です。

 現在の進化論は、自然淘汰とは無関係に、分子レベルの突然変異により起こり、重要なものほど進化が遅く、余り重要でないものほど進化が早い、という「中立説」によっています。

 この「中立説」が確立され、遺伝子レベルでの進化の速度は一定であるという「分子時計」を利用することにより、人類とチンパンジーとの分岐年代を推定するとともに、現代人の集団間の近縁度を計算できるようになりました。

 伝統的な形態人類学では決め手がなかった現代人類の起源について、ミトコンドリアDNAなどの遺伝子のデータを用いる分子人類学の手法によって、ジャワ・北京など複数の地域で同時に複数の人類が進化してきたとする「多地域進化説」は成立しないらしいことが分かってきたのです。

 人類学者の根井正利氏(1931~、ペンシルバニア州立大学教授)によれば、15万年前にアフリカで誕生した私たちの祖先は、10万年前にアフリカを出て(第二次出アフリカ)、ユーラシア大陸を拡散していったと考えられています。その過程において、ネアンデルタール人と共存していた痕跡もあります。

 人類は遅くとも500万年前までに、類人猿(チンパンジー・ゴリラなど)と分かれ、大まかに次のような段階を経て、現世人類に至っていると考えられているそうです。

①猿人:ラッミドゥス猿人、アファール猿人、アウストラロピテクスなど。 ②原人(ホモエレクトス):ジャワ原人北京原人など。人類は、100万年前のこの段階で、アフリカを出ています(第一次出アフリカ)。 ③旧人ネアンデルタール人 ④新人(ホモ・サピエンス):クロマニヨン人や現世人類。

 アフリカで生まれ、10万年前にユーラシア大陸へ広がった「新人」の一部が、6~7万年の後、日本列島に現れます。

2 日本人は大陸から歩いてきた

 最初の日本人は、日本列島が大陸と陸続きだった頃、動物を追って日本列島にやってきました。根井正利氏は、それを今から約3万年前の旧石器時代のこととしているようです。

 この先土器(旧石器)時代に、列島内で自分たちの石器を開発してナイフ型石器を誕生させていますが、最古の遺跡とされる確実な例は、3~4万年前の武蔵野台地のものとされます(群馬県岩宿遺跡)。

 最終的に日本列島が大陸から離れたのは、1万8000年前とも、1万3000年前ともいわれますが、諸説を総合すると、次のようになるものと思われます。

1)約20万年以上前頃まではリス氷河期で、対馬海峡津軽海峡宗谷海峡は陸続きで、日本列島は大陸とつながっていた。

2)約2万年前のウルム氷河期にも、対馬海峡津軽海峡宗谷海峡はは陸続きで、大陸とつながっていた。

3)その後、氷河が溶け、海水面が上昇して、対馬海峡津軽海峡ができたが、宗谷海峡はさらに長期間陸地化して、北海道と樺太(サハリン)とは陸続きであった。

旧石器時代の細石刃文化

 (中略)  竪穴住居は、長い縄文時代を通じて、最も基本的な住居形態で、関東地方の縄文時代草創期後半に初源的な形態が出現し、早期前葉には全国的に定着し始め、前期には各地に定住的集落が出てきます。

 竪穴住居は、夏は涼しく冬は暖かいのですが、湿気が多いのが欠点です。ユーラシア大陸から北アメリカにかけて広く分布しており、日本では弥生時代を経て、古墳、奈良、平安時代まで使われています。

 縄文文化の南方的要素の一つは、高床建築で、晩期の石川県金沢市チカモリ遺跡では、直径40~50センチの柱径をもった神殿の祖型ともいわれる大型遺構が発見されています。

 7000年ほど前の中国シ折江省の河母渡遺跡から、高床建築の部材が発見されており、高床建築は、縄文時代前期に、長江流域から海流や季節風に乗って日本海沿岸に渡来・漂流した人々によってもたらされたと思われます。

 南方的要素のもう一つは植物です。前期の福井県鳥浜貝塚から、南方起源のヒョウタンや緑豆など栽培作物の種子が見つかっています。インドから東南アジアに分布するエゴマは、長野県大石遺跡などから出土しています。

 また、漆製品は、中国では河母渡遺跡から出ていますが、縄文後期の埼玉県寿能遺跡や晩期の青森県是川遺跡などからは、漆塗りの木器・土器・竹篭・櫛、弓などが出土しています。

最初の日本人

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。地球的規模でみても、古くから人類がいたことがわかってきた。人類と人(ヒト)の区別は難しいが、猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられており、我々現代人と同じグループの、代表としてはクロマニョン人と上洞人など新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられている。

道具については、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようで、石で出来た道具である石器を使っていた時代のことを石器時代と言う。石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代新石器時代に分けられ、旧石器時代は200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、それ以降は新石器時代といい、旧石器時代との違いは、旧石器時代は前出のとおり石を叩いて作る打製石器を使っていたのであるが、これだと思う通りの形のはならないので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使うようになる。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴である。

『韓国人はどこから来たか』-長浜浩明氏によると、 今、半島で暮らしている韓国人の祖先は、約14万年前に東アフリカで誕生したのです。(中略) パレスチナから北東へ移動した人たちは、天山山脈タクラマカン砂漠を迂回し、草を求めて移動する動物を追って3~4万年前にアジアの中央部に達したのです。 そこから南東へ移動した人々がモンゴル人、今は亡き満州人、北部シナ人などの共通祖先になっています。紀元前1万年以前に韓(朝鮮)半島にいた旧石器人は、ここらやって来たと考えられています。彼らの一部はさらに東へ移動し、約3万年前に樺太を経由し北海道、東北、関東へやって来たのですが、その彼らが東日本の祖先になっています。

パレスチナから南東ルートで移動した人々もいました。彼らは西アジア、インドを経て約5万年前に東南アジアにやって来ました。その後、彼らはフィリピン、台湾へと北上し、3~4万年前に琉球列島、種子島、九州へとたどり着き、西日本の祖先になっています。

約2万年前になると、南シナ海インドネシアはアジア大陸とつながるスンダ大陸を形成していました。ここから北上した人たちが、南部シナ人の祖先になったと考えられています。日本人は北と南からやって来た人々が何万年もの間、日本列島で混血し、今の日本人の中心をなしているのです。

旧石器時代韓半島はほぼ無人地帯だった

同じく、『韓国人はどこから来たか』から抜粋

朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は、50ヶ所程度しか発見されなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3000~5000ヶ所に上る。その違いは100倍以上、半島はほぼ無人地帯だったのです。

旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、直接の先祖は約4000年前の新石器時代人からである。」『韓国の歴史』(河出書房新社 2001)

では7千年前、即ち前5000年頃やって来て、3000年以上の長きにわたり、韓半島の主人公だった人々はどこからやって来たのか。

人々は日本から半島へと渡って行った

縄文人は自由に海を往来していました。(中略)その証拠に、韓半島へ渡来した7~6000年前の縄文遺跡が現れ始めます。 「対馬からほど近い慶尚南道釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。 東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。」(『日本人はるかな旅』NHK出版)

この時代の古人骨は、多くの点で同時代の日本人=縄文人に一致しており、「最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だった」という考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられたのです。

三国時代の人骨も韓国人に似ていなかった

次の時代、釜山市近郊の金海礼安里古墳群から、4~7世紀に築かれた集団墓地が発見された。(中略)礼安里人は韓国・朝鮮人に似ておらず、同時代の日本人に似ていたのです。彼らも韓国人の祖先ではない、との結論になります。(中略)つまり韓国南端の弥生末から古墳時代の住民もまた、ひどく面長で鼻根部も扁平なのっぺりした顔の持ち主であり、身長も山口県土井ヶ浜をやや上回る高身長集団であったことが確認された。

韓国人は日本人と北方シナ人の混血だった

『韓国人はどこから来たか』-長浜浩明氏 元々は日本人と近かったはずの半島人Y染色体は、世代を重ねるたびにシナ人やモンゴル人のそれと置き換えられ。今の韓国人のY染色体は、モンゴル人のタイプC(14%)やK(8%)、シナ人(北京)のタイプO(40%)の頻度が高くなり、征服者の男性遺伝子が大量に流れ込み、日本人特有のタイプDやO2b1は激減したのです。 しかし、「かなりの韓国人女性のmtDNAは縄文人と相同」ということは、征服者は女性同伴ではなく、単身でやって来て半島人女性と交わり、子孫を残したことを意味します。即ち、モンゴルやシナの征服により、新たな混血民族が誕生したのです。

人類の歴史の中で、民族の混血は珍しいことでもありません。但し、それが平和裏に行われ、自然と同化して行ったのならば、という条件付きです。

日本人も北と南からやって来た人々の混血民族です。しかしそれは、何万年もの時間をかけて徐々に起きたことであり、概して平和裏に行われました。その結果、統一言語や最高水準の文化が育まれ、日本民族としての一体感も醸成されて行きました。今も日本では異人種同士の結婚、混血は盛んに行われており何の問題もありません。

しかし、モンゴルに征服された半島は、その後もシナとの戦いに敗れ、満州族女真族)との戦いに敗れ、征服され属国であり続けたのです。これが今の韓国朝鮮民族であり、シナの絶えず多民族がやって来て征服し、全く異なった断絶した歴史なのです。日本のように一本の線で繋がる歴史を積み重ね文化を大切に残す世界最古の国家元首天皇を仰ぐ民の国であり、隣同士というだけで全く相容れない民族国家であるということを理解した上で、違うことは違うとはっきり言ってほどほどに付き合うのが最善であるということになります。

日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!

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韓国人は何処から来たか

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