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日本人はどこから来たのか? 3 倭人の根拠地

倭人の根拠地:朝鮮半島南部と北部九州

 『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

朝鮮半島南部と北部九州にいた「原倭人」は、早くから雑穀を栽培しており、ある程度の航海民的な性格をもち、稲作などをいち早く取り入れやすい条件をもっていました。ごく初期の稲作遺跡が、主に朝鮮半島南部(京畿道欽岩里遺跡出土炭化米で陸稲の可能性あり。紀元前1260±70~紀元前670±100など)と北部九州にみられます。

 また、半島南部と北部九州から、耳飾り、釣り針、稲作遺跡・磨製石器、支石墓、管玉、合口式甕棺、漢代の銅鏡・銅矛・銅剣、広形銅矛、巴形銅器など、共通の遺物が出土しています。共通の遺物の出土は、北部九州の文化が朝鮮半島南部へ伝わったとか、半島南部の文化が北部九州へ伝わったと考えるより、両地域にまたがって同じ民族の人々が居住していた、それが「倭人」である、と考えた方が上手く説明できるように思われます。

 従来、弥生文化は、水稲栽培、金属器や弥生土器の使用などによって特徴づけられていましたが、水稲耕作と弥生土器の使用とは、分けて考える必要があります。主に九州で水稲耕作が始まるのは今から3000年程度前で、その頃以降を「稲作時代」「稲作文化時代」と呼ぶことができます。そして、それから2400~2300年程度前まで、縄文晩期の土器が主に用いられる時代が続き、その後、弥生時代の土器が主に用いられるようになります。

 この期間の変遷は、半島南部と北部九州の「原倭人」が、稲作などの文化を持った人々を受容し、融合して、「倭人」となっていく過程でもありました。朝鮮半島南部には、かなり後の時代まで、倭人が住んでいたとみられますが、やがて白村江の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に敗れ、半島における足がかりを失います。

以上

 したがって、対馬海流に乗って漂流し、朝鮮半島南部・済州島壱岐対馬・北部九州などに漂着し、水田稲作とそれぞれ小さな村が連合して漁業を行い、やがて大規模な佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県の板付遺跡、さらに日本海沿岸に出雲国家連合やタニワ国家連合(中心は現丹後付近、但馬・丹波・若狭)から、越国家連合(越前、加賀、越中、越後)にかけて銅鏡・銅矛・銅剣、方形墓などを形成した時期だろう。

『韓国人は何処から来たか』長浜浩明氏

次の時代・半島北部は支那の植民地になった

韓国の地は、日本から渡って行った人々の子孫が住んでおり、黒曜石などを携えて日本と往来し、彼らは平和裏に過ごし、平和だからこそ記録に遺されることもなく注目も浴びなかったのです。

ところが、前二千年頃になると北方から異民族が流入し始め、シナの植民地になる前の時代を「衛氏朝鮮」と呼んでいますが、実態は不明です。 その1800年後、前200年頃になると半島は歴史時代に移行するのですが、12世紀まで韓民族が書いた史書はなく、この時代の半島の歴史はシナに頼るしかないのです。その『史記』には半島北部の平和が破られた事件が記載されていました。

---秦が亡び、漢が前202年にシナを統一した後、燕(エン)の地(今の遼東半島地域)にいた満は前199年に一千余人を率いて北部朝鮮に亡命、北部半島にいた異民族やシナの亡命者を支配し、都を王険に定めて王となった---

彼らから見て「北部半島にいた異民族」というのが遠い昔から住んでいた土着民=縄文人の子孫と考えられています。

---即ち、歴史上、初めて登場する朝鮮王は、北部シナ人・燕国からの亡命者・満であり漢の冊封を受けていた。 ところが満の孫の時代になると、漢に朝貢しないばかりか、周辺諸国が漢に朝貢するのを妨げた。そこで前109年に漢は朝鮮を滅ぼした。こうして朝鮮に設けたシナの植民地が楽浪郡など四郡だった---

(中略) 半島南部は、古くから日本人の子孫が住んでいた地域だったのですが、数千年に及ぶ時間を経て本土の日本人とは異なる民族性を獲得し、この時代になると、シナ人から見て「韓」と認識される人々が住んでいました。

その後、馬韓辰韓弁韓に分かれた時代にあっても、半島南部には倭人が住んでいた、と『三国志』は書き遺しています。

韓国人は何処から来たか

韓国人は何処から来たか

 

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