但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

4 生野代官所占拠

生野義挙(生野の変)

10月12日 生野代官所占拠 生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)

午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。

やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。

午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。

宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。

本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。

午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。

この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられた。

前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。

しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。

沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。

山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。

午後2時、南八郎や戸原卯橘の正義同盟の少壮派志士達は先陣として北面の守りへ山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。

翌十三日に先陣は要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしいと、早速、農民に大砲や水など兵器、兵糧を妙見堂に運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。

しかし、決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣はこの頃も相変わらず議論は続いていた。南らが出陣したものの、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」

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