但馬国ねっと風土記

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3 挙兵

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る。 屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。

さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。

午後3時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎は倉敷に出張中で不在のため交渉には元締の武井庄五郎が応接した。

元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、「表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。」という返答をした。話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。

午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野国臣、多田弥太郎、南八郎(河上弥市・高杉晋作のあとの奇兵隊総督)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。

京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」 それに対して武井は、「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。

これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、 武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。

武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。

この時点で天誅組は壊滅しており、平野国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの南八郎の強硬派に意見が分かれ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。

当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。

これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。 南八郎ら強硬派に押されて挙兵に踏み切った。

●総帥 沢主水正宣嘉 ●総帥御側衆  田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波) ●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州) ●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後) ●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸) ●録事 藤四郎(筑前) ●使番 高橋甲太郎(出石) ●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前) ●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村) ●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波) ●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町

また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。

 先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。 剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。 然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末 不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事 癸 十月 沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江

翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日二千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。

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