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因幡国府址をさぐる

因幡・伯耆 遺跡・遺物

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但馬国国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディアWikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。 因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

ウィキペディアWikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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