但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

旧豊岡藩主京極家家廟・石束家墓地

豊岡市三坂字宝林谷

f:id:kojiyamane:20170109151107j:plain 「大石りく生家 石束(いしづか)家墓地」案内表示

ガード下と市道北に2カ所立てられているが、車ではガードをくぐってすぐ右折すると線路側にかなりのスペースで停められる。但し私有地なのか知らないのでしばらく勝手に停めさえてもらった。ただし、石束(いしづか)家は、豊田町の豊岡陣屋の武家屋敷にあったので、大石りく生家というのが意味が不明だ。

f:id:kojiyamane:20170109151134j:plain 豊岡藩の陣屋移築門  京極家廟

f:id:kojiyamane:20170109151155j:plain豊岡藩主京極家廟・墓地

f:id:kojiyamane:20170109151224j:plain 京極家累代の墓

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豊岡といえば赤穂浪士大石内蔵助妻大石りくの生誕地としても有名だ。 式内社深坂神社をたずねるついでに、豊岡藩主京極家墓地と豊岡藩主京極家墓地を訪れた。ここにかつては京極家菩提寺の瑞泰寺(廃寺)が建てられていたことと京極家と 石束家墓地があることは、歴史好きの私でさえ初めて来たぐらいで、地元の人でもあまり知られていない。

理玖は豊岡城(神武山)東麓の豊岡市京町にあった石束家の屋敷で生まれたのではないかとされている。三坂町は真反対だ。現在、京町の約50メートル南側に「大石陸女生誕之地」の碑が建立されています。当時は城山(神武山)のふもとに陣屋、それをとりまくように家老級の屋敷があり、東側の広い範囲を石束本家が占めていました。

豊岡市観光協会」参考文献: 瀬戸谷晧著 『忠臣蔵を生きた女―内蔵助の妻理玖とその周辺』 北星社 2005年

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略史(ウィキペディア

寛文8年(1668年)丹後国田辺藩舞鶴)より京極高盛が3万5千石にて転封となった。この際、京極氏は城主大名から無城大名に降格となった。陣屋の建設にあたり幕府より金2千両が与えられた。

4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没した。このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許された。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減した。また、享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。

次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。

7代高有は文政6年(1823年)藩営の産物会所を開設し柳行李流通の独占を図り財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っている。

8代高行は天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開いた。

明治4年(1871年)廃藩置県により豊岡県となる。その後、兵庫県に編入された。 豊岡藩主家は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。

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京極家家廟                     京極家家紋

なお、京極家筆頭家老の石束家より元禄赤穂事件で著名な大石良雄(内蔵助)の妻・理玖(りく)が出ており、討ち入り前夜、豊岡へ返された。なお、その後の理玖は三男大三郎の広島藩仕官に伴い広島に移り、そこで余生を送った。のち、石束家も5代藩主・高永の時代に上記の通り藩政改革に反対し藩を去っている。

明治維新の後、東京の藩主家11代当主である高光(9代高厚の孫)は杞陽の号を持つ俳人として昭和期に活躍した。

現在の豊岡藩主家の当主は12代目(京極高知から数えて15代目、丹後田辺藩初代藩主高三から数えて14代目)の高晴であり、2009年6月15日に靖国神社宮司に就任した。

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京極家墓所

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石束家墓地

京極家墓所から少し登ると石束家ほか立派な墓が並んでいる。

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理玖の遺髪塚 豊岡市日撫(香林会館敷地内)

父毎公(つねとも)は宝永6年(1709)ころに職を退くとともに日撫(ひなど)の正福寺に居住するようになり、理玖と子どもたちも広島に移るまでの4年間、一緒に住んだのではとされています。

大石内蔵助 りく 次男 祖錬元快禅師 大石吉之進墓地 豊岡市三坂町大門山墓地 旧興国寺

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