但馬国ねっと風土記

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但馬国ねっとで風土記

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名神大 水谷神社の元の位置をさぐる

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。

筑紫紀行巻之九

「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳但馬国養父郡水谷神社とある御社か。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。

門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。

今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。

「玄松子の記憶」さんによれば、「昔は禰高山山頂に上社、中腹に中社、麓の現在地に下社があったらしい。禰高山は、一名、水谷山とも称し、当社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていた。ただし、当地の式内社に水谷神社という名神大社が存在しており、当社との混同も考えられる。」

江戸の当時、一町(丁)は約109.09mであるから、養父の町を離れて松並木を通り、桑畑を一丁(約109.09m)ばかり行けば、左手に水谷神社の宮あり(神名帳にある当社か)。

またしばらく歩いて五社明神、これは神名帳の夜父座神社五座である。今は藪崎大明神という。また109mほど奥に山の口社あり、とある。今も養父神社の奥に山之口神社があるから、夜父座神社五座(養父神社)は移動していない。とすれば、養父市場から水谷神社まで約109.09m、さらに水谷神社から約109.09mに養父神社があることになるから、養父市場と養父神社のちょうど真ん中に水谷神社が存在していたことになるのだ。とすれば、江戸時代のこの水谷神社は、奥米地の同名の式内社水谷神社ではなく奥米地に遷座されたのではないだろうか。時代によって神社が遷った例は多い。

この時代には養父市場から109mほど歩いて左手に水谷神社の宮があったのは間違いない。が、筆者も養父神社は断定しているのにこの水谷大明神の宮が神名帳にあるその神社かわからないがとしている。

この水谷大明神の宮の坂を登りて随身門、門は草葺き、拝殿本社は檜皮葺きなり。左の方にお猫さまの小さき社。この神社が奥米地の水谷神社の分社であれば、奥米地の同名社よりご立派な社を建てるとは考えにくい。もちろん現在のまた養父神社後方の禰高山は、一名、水谷山とも称し、養父神社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていたという。

実際に養父市場の町はずれを今の大藪口バス停とすると、養父神社がある地点までは約500m。右手は大川の円山川、左手は山の斜面が続き、坂を登るとあるが、とてもそこそこの境内をもつ神社が建てられるべき余地も痕跡もないのだ。養父市場内には三柱神社があるが、町を離れて109mほど歩いて左手に水谷神社の宮と書いてあるし、この社は式内社ではないので違う。

養父郡は「和妙抄」では、糸井、石禾(いさわ)、養父、軽部、建屋、三方、大屋、遠佐(おさ)、浅間、養耆(やぎ)の10をあげる。

ちなみに養父を知らない人でやぶと読める人はいない。『播磨国風土記』は万葉仮名で夜父(ヤフ)と書いてある。大事なのは音だ。ヤフは、今風に発音すれば「よう」なのだ。太古はヤフと発音していたから夜父をかなとして充てていた。平安にかなが使われるようになり、漢字本来の意味を充てるようになって養を充てたのであろう。遠佐郷八鹿村もヤオカと発音し、屋岡神社(八鹿町八鹿)。現代かな使いまでは「やうか」と書いてようかと発音していた。養父の岡ならヤオカで意味が通じる。養耆(八木)は養父の端の意味ではないかという気がしてくる。

養父郡は日下部系図によれば、孝徳天皇第二の皇子表米王が、異族退治の勲功により養父郡の大領をさずかったとある。江戸期までは養父(市場)は二百軒あったというから、養父郡内はもとより、大名領の豊岡、出石の城下を除けば但馬一の町だ。

延喜式神名帳では、養父郡三十座 大 三座 小二十七座。 式内社・夜夫坐神社五座のうち二座が名神大、三座が小社。 (あとの大社は水谷神社)

今の御祭神は倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命 五柱の神々を祀っているが、

『但馬考』では、 上社大己貴尊、中社倉稲魂尊少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命 『養父郡誌』では、 上社保食神五十猛命、中社少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命。 『特撰神名蝶』では、 大己貴命、四座不詳とあり、 『兵庫県神社誌』には、 倉稻魂命、五十猛命少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命。

大己貴命(葦原志許乎命)が祭神であるとする理由は、『播磨国風土記』宍禾郡の記載にある、御方(御形)のの地名の由来の以下の記述。

天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至り おのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。 天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。 葦原志許乎命の投げた黒葛は、 一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、 そして、最後の一条が御方に落ちたため、 三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があるように、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座するように 御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座するように養父郡にも、大己貴命を祀る当社・養父神社が存在するという。

禰高山山頂は一名、水谷山とも称したから、上社大己貴尊が水谷神社で別の道が手前にあった、下社がさらに109mほど街道を藪崎方面に行った養父神社の位置と考える。

江戸享和2年(1802)の旅行記だから、少なくとも水谷神社は禰高山山頂近くにあった。とすれば、なにも礎石や柱後など痕跡が残らないはずはない。養父神社がある谷はこの近辺ではここだけが随分と奥深いようだ。今後とも発掘調査に期待したい。

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