但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

伯耆国庁・国分寺

鳥取市から倉吉市へは国道9号線が、鳥取バイパス、青谷羽合道路が開通し、国庁所在地で別の旧国であるが時間的に早くなった。高校時代にまだ国鉄だった頃、同級生3人と香住から夜行の山陰号でどこまで行けるかと乗った。今は時効だろうが最初で最後のキセル乗車である。誰も乗っていない客車で限界を感じて倉吉駅で降りて引き返した。深夜の倉吉駅は遠くて寂しい思いがしたことを覚えている。

鳥取県倉吉に限らず道路がやたらに多く整備されていて、方向がわからなくなります。しかも、倉吉市周辺は、30年近く前に来た頃とはがらりと様相が違い、商業施設や住宅開発が進み、最近某CMで登場の鳥取の羽合も北栄町も市町境の区別がつきません。

伯耆(ほうき)国庁・国分寺

国府・国衙・国庁

令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を「国府」、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を「国庁(政庁)」と呼んだ。

今回の倉吉市訪問は、式内社と国庁裏神社ですが、もちろん国府国分寺跡も関心はあった。伯耆国府・国分寺跡は国庁裏神社を探す途中に偶然に立ち寄った。伯耆国府跡は国道313号(美作街道)の沿いのなだらかな広大な丘陵地にあって自然がよく残っていて壮観です。但馬国府の住人として、国府と国分寺は関心が湧いて、これまでに丹後、因幡、若狭(丹後は国分寺跡、若狭は博物館のみ)をまわりました。

また、話が脱線するが、欠くことができないのは豊岡と倉吉は山名氏に縁が深いということであろう。伯耆南北朝時代足利尊氏に属して伯耆守護になった山名時氏の代からである。時氏は難しい時代を生き抜き、伯耆を含めて因幡丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を兼帯する大勢力に成長した。時氏の死後氏清の時、山名氏は勢力を拡大し、ついには室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大守護大名になった。

山名氏の強大化に対して危惧を抱いた室町三代将軍足利義満は、その勢力の削減を謀るようになった。あたかも、山名氏内部で惣領と庶子家の対立が生じ、それを好機とした義満の策謀によって山名惣領の時熙は没落、代わって氏清・満幸らが山名氏の主流となった。しかし、義満はさらに山名氏の勢力削減を図り、その挑発に乗せられた氏清・満幸らは明徳の乱を起こして没落、山名時熙が惣領に返り咲いたものの但馬・伯耆因幡三国の守護職を保つばかりとなった。山名氏は時熙のあとを継いだ持豊(宗全)の代になると、但馬・備後・安芸・伊賀・播磨の守護職を与えられ、着実に勢力を回復していった。宗全は、城崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。1467年(応仁元年)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の細川勝元と戦ったが、乱の最中である1473年(文明5年)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。そんなこんなで守護として最初の領地が伯耆であり、宗全が本拠とした国が但馬(豊岡市)なので、豊岡市倉吉市姉妹都市となってもよいような間柄なのであると勝手に思っている。(^^ゞ

主な国衙遺跡には、武蔵国衙(府中市)、周防国衙(防府市)、伯耆国衙(倉吉市)、常陸国衙(石岡市)、近江国衙(大津市)、土佐国衙(香美市)などがある。これらの国衙遺跡から、各国の国衙区画プランにいくつかの共通点があることが判っている。

伯耆国庁跡は、伯耆大山を西に望む久米ケ原という丘陵にある。あたりは一面の草地で、農道の脇に史跡の説明板が一つ立つだけだ。国庁の範囲は、張り出し部を含めて東西が324メートル、南北は227メートル。儀式を行う内郭(政庁)と実務を行う外郭(官衙(かんが))が確認されている。この遺跡の北東には、国府に関連する法華寺畑遺跡と不入岡(ふにおか)遺跡があり、2000(平成12)年に3つの遺跡をまとめて、「史跡・伯耆国府跡」と名付けられた。 平安時代律令制によって各地に置かれた国府は、地相の面で一定の条件を求められていた。「東に川、西に大道、南に窪地(くぼち)、北に山」。いわゆる四神相応(しじんそうおう)の地で、これが当時、最も尊い地形とされた。 伯耆の国庁はまさに四神相応の地にあった。北に四王寺山、東に国府(こう)川、南には低湿地、西には道がある。1970年代の調査でこの遺跡が確認されたとき、専門家をさらに驚かせたことがあった。周辺は都市化を完全に免れており、古代さながらの景観を保っていた。「国府の遺跡としてきわめて貴重」という評価を得たのは当然である。現在、法華寺畑遺跡と国分寺跡は歴史公園として整備されています。

伯耆国分寺跡

国庁跡にほぼ隣接しており、近い位置に伽藍配置がよく残っている。天平13年(714年)聖武天皇の発願により全国の国ごとに造営された国立の寺院跡です。寺域約2.9ヘクタール、東西182m、南北160m。主要建物の遺構は、南門、金堂、講堂、塔などがあります。