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4 平野釈放と寺田屋騒動

平野釈放

平野が釈放されたのは文久三年十月のことであった。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。

攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛薩摩藩士や真木和泉清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。

出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

平野はこの論策をまず久留米の真木和泉に見せました。真木は、長年の修業により培われた才学と人物の重厚さから、九州地方の勤王志士の間では知られた存在であり、その名は全国の志士達にも轟いていたからです。 平野から「尊攘英断録」を見せられた真木は、その論策の内容に感動し、是非薩摩に入国して一刻も早く建白するのが良いと言いました。平野は真木の言葉に勇気づけられ、薩摩に向かう途中、立ち寄った肥後の同志・松村大成(まつむらたいせい)の家に宿泊していた清河八郎にも、自らの論策を披露しました。

当時の清河は、公卿・中山家の諸大夫・田中河内介(たなかかわちのすけ)の紹介状を持って、九州諸藩の有志の決起を促すべく、九州地方を遊説している最中で、偶然に松村の家に宿泊していたのです。

清河も平野の論策の壮大さに感嘆が一通りではありません。清河は平野に対し、連れの伊牟田尚平(いむたしょうへい)を供に付け、薩摩に入国することを薦めました。伊牟田は、元来薩摩藩の肝付家の家臣、つまり陪臣であったため、薩摩の内情に詳しかったからです。この頃の伊牟田は、薩摩を脱藩して清河の弟子のような存在となり、今回の九州遊説にも付き添っていました。

薩摩滞在中に村田新八、美玉三平ら急進派と会談し、一挙の成功を確信した。国臣が肥後へ戻ると「島津久光が討幕の兵を挙げる」との噂が広まった。 平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。

寺田屋騒動前後

龍馬は文久元年(1861年)2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。

文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日に召還状を受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年(1862年)1月14日に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)と改名した。

同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(地ゴロは田舎者という意味)」なので周旋は無理だと言ったので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

噂を信じた尊攘浪士が京、大坂に集まり、不穏な情勢となる。国臣そして有馬新七ら誠忠組の急進派もこの機に兵を挙げるつもりでいた。ところが、久光には討幕の意思なぞない、上洛は公武合体の運動のためだった。4月になって急進派の動きを知った久光は驚き、直ちに鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた。

一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結している真木保臣・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)ら9名を寺田屋に派遣した。奈良原らは急進派を説得したが聞かれず、やむなく斬り合いになり、有馬新七ら8名を上意討ちにした。6名は死亡し他は捕縛され薩摩へ送り返された。(寺田屋騒動・寺田屋事件) この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島(村田新八『宇留満乃日記』参照)へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。

平野国臣尊皇攘夷思想

国臣はこれより前の4月12日に参勤交代の途上で大坂の近くまで来ていた福岡藩主黒田斉溥へ情勢の不穏と、挙兵への協力を訴える嘆願を提出すべく、藩公行列に出頭していた。 文久2年(1862年)3月、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。

それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも知れず、とあった。黒田公はこの要求を断わり、久光は藩士1000人を率いて急病ということにして福岡へ引き返すことになる。この時、意外にも平野は黒田公帰藩のお供を命ぜられる。 行列が下関に着くと、筑前の最新鋭「日華丸」が待っていた。平野は家老から黒田公乗船ゆえと下検分を依頼される。そして日華丸に移ったところで、まんまと盗賊改め方に逮捕されたのだった。そして福岡の獄につながれた。四月二十九日の事であった。

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