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出石(いずし)

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桜井勉『候補但馬考』 出石郡

風土記曰く、古老伝え云う「その昔、天下を治むる御神大穴持命、この郡に至りたまふ。地上に光あるを数夜なり。その光を尋ねて地を掘ること、数仞(スウジン)にして、白石を得る。故にこれに名付ける。その石は、今の一宮の御形(みしるし)これなり。」

倭名類聚抄に載る郷7

小坂(ヲサカ)・安美(アミ)・出石・室野・埴野・高橋・資母(シモ) 以上七郷に、村数78

出石郷

奥小野・口小野・袴座(今は袴狭)・田立(今の田多地)・福井・嶋・伊豆 右小野庄 宮内・坪井 右神部庄 鍛冶屋村・引原下村・中村・上村・奥山・ 右引原庄と云う

伊豆志神社(出石神社) 延喜式曰く伊豆志坐神社 八座、並名神大

出嶋(イズシマ)

昔天日槍の新羅より来たり。この国に住所を定めたまいし時、出嶋の人・太耳の女(ムスメ)麻多鳥(マタヲ)を娶ると、日本書紀に見ゆ。またその女(ムスメ)・伊豆志袁登売(イズシオトメ)というとも故事記にあり。これ今の伊豆といい、島という二村の地にて、古くは日槍の住み賜いし伊豆志なり、彼の日槍の新羅より持ち来たり賜う宝物の中の出石刀子(カタナ)、その名のよく叶えるゆえ、後に出石と改めしと一宮の縁起にある。 山名氏の小盗山に居たりしより、彼の地に人民多く住みければ、出石という名も、自ずから彼この事になりて、ここはただの田夫の住処となれり。 天正の初め、また城を有子山(こありやま)に移されしかは、小盗も荒れ果て、今の出石のみ盛んになりぬ。何れも、その名は用いながら、その地は三度変われり。されどみな出石一郷の中のことなれば、古来出石の里と云うことも、すべてこの辺の通名にて、しいては二重の三分つべきにもあらず。

国司文書別記 郷名記抄』

出石郷(古語は伊豆志)

出石郷は御出石県なり。伊豆志神社あり。この故に名づく。

小野・神原・出島・神戸・伊福部・水上・諸杉村・石部村

国司文書 但馬故事記』(〃 第五巻 出石郡故事記)に、

国作大巳貴命(くにつくりおおなむちのみこと)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前(城崎)・気多(いまの日高)・津・藪(養父)・水石(ミズシ)の県を開きませり。

稲葉(因幡)の八上姫の伝承を『白石伝説』として叙し、出石郡の名称の由来を明らかにする。

大巳貴命、この郡(出石郡)に在りましし時、地上に数夜光有り、命(みこと)その光を尋ねて、地を穿(うが)つこと数仞(スウジン)にして、白石を得たり。 その白石忽然と化して女神と化(な)る。

命、問うて曰く「汝は誰か」 女神答えて曰く 「われは稲葉の八上姫なり。」(中略) 大巳貴命は八上姫を愛し、御出石櫛甕玉命(みいずしくしかめたまのみこと)を生む。 御出石櫛甕玉命は、天火明命(あめのほあかりのみこと)の女(むすめ)、天香山刀売命(あめのかぐやまとめのみこと)を娶り、天国知彦命を生む。

人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子・天国知彦命を以って、御出石県主と為し給う。

六年春三月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称し祀る。(水石 豊岡市但東町水石 出石町桐野に御出石神社(名神大)) 天国知彦命は、小田井県主・生石饒穂命(いきしにぎほのみこと)の女(むすめ)・饒石耳命を娶り、天多他知命を生む。

人皇二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)六年夏四月、天国知彦命の子・天多他知命を以って、御出石県主と為す。 (中略)

人皇六代孝安天皇53年 新羅王子天日槍帰化す。(中略) 西は多遅麻国に入り、出島(いずしま)に止まり、住処(いどころ)を定む。

人皇七代孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子・天諸杉命を以って、多遅麻国造と為す。

40年秋9月 天諸杉命は天日槍命出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む。(出石神社)

人皇八代孝元天皇32年冬10月 天諸杉命の子・天日根命を以って、多遅麻国造と為す。 天日根命は天諸杉命を出石丘に斎き祀る。(諸杉神社は今は出石町内町だが、当初は小坂村水上に祀られて、古くは諸枌(もろすき)神社と書かれていた。それを天正2年(1574年)に但馬国守護山名氏が居城を此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり城の守護神として遷座したとされる。)

(中略)

人皇十六代応神天皇40年春正月 須義芳男命の子・日足命を以って、出石県主と為す。日足命は須義芳男命を荒木山に祀る。須義神社これなり。

人皇十七代仁徳天皇40年夏4月、出石県を以って(出石)郡と為す。 67年春3月 日足命の子・磯部臣命の子・埴野命を以って、出石郡司と為す。

以上

ここで出石丘とは、おそらく此盗山城のあった出石神社付近の袴狭・嶋・坪井・宮内・水上(ムナガイ)の中心にあたる出っ張った丘であろう。袴狭遺跡から船団らしき線刻画木製品が見つかっている。弥生時代後期から古墳時代前期の2点の木製品に線刻画が描かれていました。1点は組み合わせると箱形になるもので、長さ54センチ、幅13センチ、高さ9センチになります。天板と両小口板が欠損していますが、両長側板にはサケ、シュモクザメ、シカ、カツオ、のほか、何重もの方形文様や勾玉形の文様なども描かれています。

袴狭遺跡群は円山川と出石川によって形成された低湿な沖積平野で、太古は黄沼前海(きのさきのうみ)といわれる日本海の入江が入り組んでいた。嶋は出石丘の先端部に位置する出島(いずしま)が転訛し、水上(ムナガイ)はその入江のほとりであろう。日高町にも水上(ミノカミ)がある。上古は同じ黄沼前海の西岸にあたる。

といっても363年