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出雲神社はどこにあったのか

神社よもやま話 ▼コラム

先月3月に2度、消費税値上げもあり、今月4月に入って6日に出雲へ3度出かけた。

延喜式神名帳』記載の出雲国式内社は、大社(名神大社)2座2社・小社185座の計187座と全国的にみても、奈良時代に都のあった大和国286、神宮のある伊勢253に次いで3番目に多い。式内社めぐりをするようになってあらかじめまわる順番の計画を練るのだが、東西に細長い地形に所在する出雲国式内社宍道湖を挟み、大半が島根半島ルートと国道9号線ルートに数珠つなぎに集中しており道順もわりと容易である。

そのなかで、調べてみたいテーマのひとつが出雲という国名を名乗る式内出雲神社はどこにあったのかである。この式内出雲神社は、有名な出雲国一宮の出雲大社のことではない。神社にある程度詳しい方は承知のことであるが、今の出雲大社は最初から社号が出雲大社だったのではなく、古くは杵築(きづき)神社(名神大)と呼ばれており、松江市八雲町の熊野大社出雲国一宮。出雲大社といわれるようになったのは、まだ最近で1871年(明治4年)に杵築大社から出雲大社と改称した。混同しないように延喜式神名帳にある出雲神社とは、この出雲大社のことではない。

不思議なことに出雲が律令国家的に大変重要だったにも関わらず、出雲の名を冠する式内「出雲神社」の所在地が不明なことである。ちなみに、丹波国一宮は京都府亀岡市にある出雲大神宮で、旧称は延喜式神名帳にある「出雲神社」(名神大)で同じであるが、古くは「大八洲国国祖神社」*と称され、式内出雲神社、今の出雲大社杵築神社であるのと同様に、元々亀岡の大神宮も出雲神社ではない。丹波国式内社出雲神社は他にも、亀岡市本梅町井手の出雲神社も論社となっている。

*大八洲国 『古事記』では、本州・九州・四国・淡路・壱岐対馬隠岐佐渡などの「八つの島」の総称

さて、延喜式神名帳式内社出雲神社の所在地を探ることで、出雲国の出雲という国名はどこからそうなったのか分かるのではないかと思うからだ。

式内出雲神社は今も確定されていない。論社としては以下の4社が挙げられている。

諏訪神社 島根県出雲市別所町72 出雲大社境内摂社素盞社 島根県出雲市大社町杵築東195 長浜神社 島根県出雲市西園町4258 富神社 (出雲神社) 島根県出雲市斐川町富村1

延喜式神名帳の記載順でさぐることが妥当ではないだろうか。

延喜式神名帳に記載される順番は、格の順であるとする説と道順であるという説があるが、個人的にも後者の国府のある郡からはじまり周辺の道順だと思う。しかし但馬国の場合は、国府の置かれた気多郡から始まっておらず、南から朝來郡、養父郡、出石郡、氣多郡、城崎郡、美含郡、二方郡、七美郡の順で、で時計の逆回りになっている。出雲国は国府の置かれた意宇郡(オウ)の今の松江市八雲町にある名神大社 熊野大社からはじまる。続いて、嶋根郡、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡、神門郡、飯石郡、仁多郡、大原郡、能義郡の順に、但馬と同じ時計の逆回りで最後に能義郡となる。能義郡は意宇郡の東にある小さな郡(今の安来市の一部)で、1座の天穗日命神社(支布佐神社 安来市安来町吉佐365)のみである。

能義郡については、本題から外れるので別の機会にするとして、同じ社名の天穗日命神社が因幡国高草郡(鳥取市福井)にあり、意宇郡とは異なる子孫で土師氏はないかと思われ、伯耆のすぐ隣にあり意宇郡と別けられる理由があったのかも知れない。また、天穗日命を祭神とする式内社京都府福知山市の庵我神社がある。土師川が流れ土師氏ゆかりの地だ。同様に豊岡市森尾と但東町に安牟加神社があるのも土師氏とのつながりが考えられる。

須佐之男の現像』田中俊一郎氏 はこう述べている。

出雲社は、出雲の起こりや神門の水海の祭祀にとって重要な社であると考えられる。(出雲国風土記の中で、「出雲」を冠した社は、この一社しかないからだ。通常、地名を社名に持つ社は、その地域の祭祀の中心であったはずで、そうであればこの社は、杵築大社が出来る前の出雲平野の神籬(ひもろぎ)であった可能性が高い。そこで問題となるのが、この出雲社は現在の何社にあたるか、ということである。

出雲国風土記出雲郡には、杵築大社、御魂社、御向社に次いで、四番目に出雲社が載っている。御魂社、御向社は杵築大社の境内社であると考えられているので、杵築大社に関する社の次に出雲社が位置していることになる。それは杵築大社が造営される前、出雲郡の筆頭に、この社があったということを意味するだろう。(中略)

石塚尊俊氏は延喜式神名帳に載るいわゆる式内社は、道順に従って並べられているので、杵築大社周辺から始まって、まず北山の麓を東に向かい、遥堪(ようかん)に達すると、一転して西に跳び、御碕神社(日御碕神社)から稲佐の因佐神社に戻るという変則的な配列になっている。 その後は規則的になって、遥堪の先の日下から北山沿いをぐるっと廻って、十六島(うるっぷるい)湾に達する。(中略)

ところが問題は、その次に出雲神社が出てくることである。出雲神社・同社韓国伊大弖神社・斐代神社・韓竃(からかま)神社と続く四社は、地名が充てられず否定できない、と石塚氏は述べている。(中略)

十六島湾の意保美神社の次に出雲神社が載るこの道順が、四社を北山に分け入った現在の唐川地区とする説の所以である。一般的には、出雲神社は(出雲市)別所の諏訪明神、韓国伊大弖神社は同社とあるので出雲社の境内社、斐代神社は唐川の八王子大明神、・韓竃神社は唐川の智那尾権現に比定されている。結果として鰐淵寺に縁のある社が並ぶことになったが、斐代神社と韓竃神社については、異論もなく一般的に認められているようだ。素鵞社を出雲社ではないとした式内社調査報告も、諏訪明神を出雲社としている。

石塚氏は、これらの唐川周辺説を真っ向から否定する。別所や唐川は、山中深くにあり、古代に人の居住した場所ではなく、また諏訪明神は信州の神であり、八王子権現・地那尾権現と権現が付く社は両部の神で、特に八王子権現は鰐淵寺の本山たる比叡山に結びつく神だから、少なくとも叡山以後の社であるとする。

しかし、大社にある素鵞社も道順等から出雲社とは考えられないとして、道順によらず、「出雲社」という社名によって、この社を出雲郡家のあったであろう出雲郡出雲郷に比定し、それは富村・求院(ぐい)・出西(しゅっさい)の接する辺りと推定されたが、現在の何社にあたるかは述べられていない。古代の社がそのまま現存するのは稀であると述べられているから、出雲社はすでになくなっている、という見解に立たれているのだろう。

一方、江戸時代に編まれた『雲陽誌』は、出雲社を素鵞社とし、諏訪明神は「或人の曰く」として、異説に扱っている。

神名帳はなるべく郡の重要な神社から道順に従いながら、杵築神社に続いて同社を優先して併記してわかりやすく考慮されているように感じられる。 出雲郡式内社は58座(大1・小57)で、記載される順に、 大穴持神社(オホアナモチ) 所在不明 からはじまり、 次は杵築神社(キヅキ) 名神大 (今の出雲大社) 島根県出雲市大社町杵築東195で、続いて杵築神社の同社が並び(同社大穴持伊那西波伎神社のみ出雲市大社町鷺浦)、東の出雲市大社町遙堪の阿須伎神社とその同社、式内社が続き、島根半島の北にある日御碕神社へ飛び、出雲市大社町杵築北に戻って因佐神社となり、これで大社町を離れて旧平田市内の日下町、矢尾町、西材木町、東材木町、美談町、口宇賀町、奥宇賀町、河下町の意保美神社と続いて、次にようやく出雲神社が登場する。

そして唐川地区に移り斐代神社、韓竃神社で、斐川地区の鳥屋神社(出雲市斐川町大字鳥井815)になる。鳥屋神社以降の出雲郡の12社はすべて斐川町域にある。 したがって、出雲郡であり唐川から斐川の間に鎮座していたとするのが自然だろう。

大穴持命神社のような人物神の名を社号とする神社は神社としては新しく、大半は太古に土地の自然神を神格化したのが神社のはじまりとされている。したがって社号は磐座(いわくら)や神体山など祭祀の行われていた場所の地名がそのまま祭神名になったものであるから、出雲神社はそこが出雲と呼ばれるようになった出雲発祥の地であると思われる。

出雲は古くは雲が湧き上がる様子をあらわした語「稜威母(イズモ)」、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。

出雲神社はどこにあったのか?それをさぐるべく、 諏訪神社 島根県出雲市別所町72 出雲大社境内摂社素盞社 島根県出雲市大社町杵築東195 長浜神社 島根県出雲市西園町4258 をたずねてみた。

まず国名が出雲となった理由として、律令制前の国造(くにのみやつこ)が館(府)を置いた場所が出雲であり、出雲神社は祭祀の場所出雲郡であると考えるのが自然だろう。

長浜神社はこの論社の中で旧県社であり、最も大きくて立派な神社である。式内社出雲神社にふさわしいが、しかし長浜神社の鎮座する地域は神戸川の南岸で明らかに神門郡の領域である。遷座した記録もないので創建当初より現在地の妙見山で移動していない。延宝3年(1675年)に社殿が焼失し、松江藩主松平綱近の命によって造営された。中世から近世にかけては「妙見社」「薗村妙見神社」などと呼ばれており、明治5年(1872年)に現在の社名となったものである。

次は諏訪神社説である。 鰐淵寺は伝承によれば、推古2年(594年)信濃国の智春上人(ちしゅんしょうにん)が遊化して出雲市の旅伏山(たぶしさん)に着き、推古天皇の眼の病を治すために当地の浮浪の滝に祈ったところ平癒されたので、その報賽(ほうさい)として建立された勅願寺であるということである。あくまでも伝承であり、創建の正確な時期や事情は明らかでない。鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県修験道蔵王信仰の盛んな土地であり、当寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したものと思われる。浮浪の滝は鰐淵寺の入口から渓流を500メートルほどさかのぼった地点にある。水量は少なく、滝壺の奥には蔵王堂が建つ。 平安時代以降、鰐淵寺は比叡山延暦寺との関係を深め、特に横川(よかわ)の無動寺と関係が深かった。伝承では円仁(慈覚大師)が出雲地方を訪れた際に、鰐淵寺は天台宗に転じたという。

石塚氏が唐川周辺説を真っ向から否定し、別所や唐川は、山中深くにあり、古代に人の居住した場所ではなく、また諏訪明神は信州の神であり、風土記延喜式神名帳の時代に出雲神社が出雲の神ではない信州の神を勧請することはありえない。また式内斐代神社と比定される社は八王子権現社、韓竃神社は地那尾権現社と呼ばれていた。権現が付く社は両部の神で、特に八王子権現は鰐淵寺の本山たる比叡山に結びつく神だから、少なくとも叡山以後の社であるとする。とすれば諏訪神社が出雲神社ではないし、式内社に比定される斐代神社・韓竃神社も疑念が否定できない。

個人的に石塚氏の唐川周辺否定説に同意する。実際に河下町の意保美神社から唐川へ行ってみたが、車でも何10分もかかり、唐川と別所はすぐ近いが谷が分かれており、失礼ながら人が住み着くには不便な場所である。鰐淵寺の僧や門徒が唐川と別所に住み着いたとすれば、それ以後になる。

天平5年(733)の『出雲国風土記』に「出雲社」と記載があるので、それ以前に出雲社がすでにあったことになるから、鰐淵寺にゆかりのある神社であれば、鰐淵寺が天台宗に転じた平安時代以降ではないだろうか。韓竈神社は唐川からさらに支流を山深く入り、さらに神社の入口鳥居から険しい登山の道程で巨岩をくぐり抜けてたどり着ける場所にある。まさに修験僧の修業の場に相応しいが、式内社として参拝するには相応しいと言いがたい。

斐代神社は、『出雲国風土記』に「斐堤社」とある社。中世不明となっており、近世の考証家によって、唐川の八王子であると比定され、明治になって復古された。以前は、韓竈神社に合祀されていたが、昭和二十三年の遷宮の際、韓竈神社境外末社となった。

延喜式神名帳の順を出雲市河下町の意保美神社から出雲市斐川町鳥井の鳥屋神社は間違いないとすれば、その間の出雲神社・同社韓國伊大弖神社・斐代神社・韓竈神社は、斐川周辺ではないかと独自に想定してみたい。韓竈神社は『出雲国風土記』に「韓?社」とある社、斐代神社は、「斐堤社」とある社とされている。斐堤社とは斐川の堤にある社の意味ではなかろうかと思うと出雲郡の中心部に流れる斐川周辺の出雲郡出雲郷に式内社出雲神社はあったはずである。

出雲大社境内摂社素盞社説 国譲りで大国主を祀る杵築大社が重んじられて素鵞社はその奥にひっそりと鎮まるという一般的な話が出雲神社らしく思っていた。 しかし、素盞社が出雲神社だとすれば、延喜式神名帳に道順から当然杵築大社の次に記載するべきで、同社の次は東の遥堪にある阿須伎神社になっている。

こうして諏訪神社、素鵞社、長浜神社は出雲神社論社から外すと、残るは富神社 (出雲神社) 島根県出雲市斐川町富村1となる。 富神社 (出雲神社) は、上記の三社のみ論社に載っていることが多いので外したが、消去法で富神社が有力な気がしてくるのである。

とすると、富神社のあたりを何度か通過しながら見逃していたという宿題ができた。

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