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鶴ヶ峰城と殿区とは

国道482号線久田谷付近と鶴ヶ峰(三方富士)

子供の頃から何か周りと違い神秘性を感じていた三角おにぎりみたいな山

国道482号線を神鍋かんなべ方面へ久田谷くただに付近まで進むと、前方にきれいな三角形の山がぽっかりと現れてくる。通称「三方富士みかたふじ」と呼ばれるが、これが鶴ヶ峰つるがみねである。標高は405m。周囲のなだらかな山々とは別に、美しい山だが傾斜がきつそうである。

山名四天王のひとりで気多郡を治めていた垣屋氏の主君、山名時氏やまなときうじが但馬に攻め入り、進美寺山城とともに南党勢力の拠点となっていた三開山城(豊岡市)を陥れ、この城を但馬の居所としたいわれている。三開山も但馬富士ともいわれるよく目立つ三角形の美しい山だ。ふと気づくのだが、山名氏が三開山を拠点とした時、垣屋氏は気多郡代に任じられ三方庄に入った際に、その三開山によく似た鶴ヶ峰(三方富士)を居所にしたいと思ったのではなかろうかと想像するのである。

垣屋氏の聖地鶴ヶ峰城

 

南から眺める鶴ヶ峰

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、

永正9年(1512)、山名致豊いたとよは弟誠豊まさとよに守護職を譲るが、同じ年、楽々前城主垣屋続成つぐなりが鶴ヶ峰城を築き本拠にしたという(因幡垣屋系図)。 現在の所在地は豊岡市日高町観音寺字城山となっていて、同じ尾根にあり西城と東城に別れる。西城は観音寺集落西側、標高405mの山頂に位置し、集落との標高差は約300m。また東城は観音寺集落北側、標高301mの山頂に位置し、集落との標高差は約200mである。文化財観音寺仁王門や馬止神社の裏手である。 楽々前城ささのくまじょうは、神鍋までの西気谷にしのげだにや気多谷けただにが見渡せる三方平野の東、円山川支流の稲葉川右岸、佐田から道場にかけてそびえていた垣屋氏の本城である。城域は広大で、東西約250m、南北約1000mもある。『因幡垣屋系図』では、垣屋隆国が応永年間(1394~1427)で、その子満成が跡を継いだというが、史料上は隆国も満成も確認できないが、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝争乱が事実上集結した貞治2年(1363)以降であろう。 他に詳しく述べているので簡単に垣屋氏について触れておくと、垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという(『因幡垣屋系図』)。しかし史料上確認できる最初は、明徳の乱(1391)の時、京都二条大宮の合戦で山名時煕の危急を救出して討ち死にした垣屋弾正(頼忠)である(『明徳記』)。 鶴ヶ峰城は楽々前城に比べれば細長く小さな山城である。小曲輪を飛び飛びに配置するような縄張りは南北朝期の特徴であり、堀切・竪堀は戦国期特有の普請である。永正9年(1512)に築城したといわれるが、それ以前の南北朝~室町期に城砦じょうさい化していたと考えられ、南北朝期に観音寺が城砦としていた可能性がある。続成は既にあった古い城を利用したのではないだろうか。 なお、観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。 と記されている。

まず、かんたんに垣屋氏について触れておきたい。

垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという『因幡垣屋系図』。元は土屋姓であったが、気多郡代になり三方庄に本拠を構えるようになって垣屋(または柿屋・垣谷)と名乗ったようである。土屋一族は垣屋氏だけではなく山名氏とともに50数名が従って但馬に来往してきたようである。

因幡垣屋系図』の記述では、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったとある。福田から今は但馬卸売市場があるカーブの西側である。ここにも亀ヶ崎城跡とされる遺構があるが、これは垣屋氏が但馬で最初に居た城というに合っているかは疑問に思っていた。何故なら、最初に城崎郡のしかも気多郡から遠い城崎郡内の奈佐庄(郷)と大浜庄との境に在したとすると、気多郡代垣屋氏の三方・楽々前と城崎郡奈佐が繋がらないからである。しかも、すでに奈佐庄(郷)を治めていたのは、但馬国人の但馬日下部氏の一族で朝倉氏、八木氏の子孫が、但馬国城崎郡奈佐谷を本貫とし奈佐氏を称しており、奈佐氏は戦国期や江戸期まで代々続いている。細長い狭い谷であるのに、同じ奈佐庄内に国人ではない垣屋氏が城を持つなどまずあり得ないであろう。

気多郡の三方庄(今の豊岡市日高町三方地区)は、垣屋氏が但馬に来て気多郡代として最初に与えられた所領である。いわば垣屋氏発祥の地であるから、最初に城を築いた場所は少なくとも気多郡内でないとおかしいのである。

[caption id="attachment_135044" align="alignnone" width="104"] 山名氏家紋[/caption]

垣屋氏の台頭

3代将軍に就任した足利義満が有力守護大名の弱体化を図っての山名氏の内紛である明徳の乱(1392)で、十一ヶ国を有し六分一殿と称された山名氏の所領は分解し、山名氏は但馬たじま・因幡いなば・伯耆ほうきの三ヵ国を残すのみとなる。この乱を機に、山名時熙ときひろの分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになった。山名宗家は時熙ときひろの系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識とした。この明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清うじきよ・山名満幸みつゆきに属したのに対し、山名時熙ときひろ方に属したのは垣屋氏だけだったことが垣屋氏が頭角をなした発端である。山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。 その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳三(1393)年正月に評議があり、山名時熙は但馬国を賜って出石有子山(子有山とも書く)に住み、山名時熈ときひろは垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子の幸福丸(のち隆国)を気多けた郡代(現在の浅倉・赤崎を除く豊岡市日高町全域・佐野、円山川右岸中筋地区、竹野町轟以南)に任じ亀ヶ崎城を同時期に築いた。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。幸福丸は垣屋播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

主君山名氏との対立

[caption id="attachment_135046" align="alignnone" width="130"] kuki[/caption]

播磨の赤松氏と但馬の山名氏との坂本の戦いで多くの一族を失った垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていた。山名氏との対立、抗争は、垣屋氏にとってその存続を揺るがす脅威であり、 ひとつ誤れば滅亡にすらつながりかねないものであった。 明応8年(1499)、山名政豊が死去。致豊が家督を継承したが、すでに守護としての実力もなく、垣屋続成は山名氏をしのぐ勢力を築いていた。

明応3年(1494)に垣屋氏と抗争を起こして以来、山名政豊は九日市城を引き払い、出石の此隅山城このすみやまじょうに居所を移していたようだ。明応4年(1495)の和談成立以後も、山名氏と垣屋氏との対立は、折にふれて火を吹いていたようである。

永正元年(1505)、山名致豊は、垣屋続成にもうひとつの居城此隅山を攻められる。翌年、将軍足利義澄は致豊と垣屋氏との和与を勧告、永正五年、山名氏と垣屋氏の間に和議が成立した。この間の混乱によって、山名氏は衰退、戦国大名への道を閉ざすことになった。以後、但馬は山名四天王と呼ばれた垣屋光成(気多郡・美含郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し、但馬を四分割した。

なぜ楽々前城から鶴ヶ峰城へ移った(戻った)のか?

鶴ヶ峰は、稲葉いなんば川支流観音寺かんのんじ川と阿瀬あせ川に挟まれ東西に長く伸びる丘陵にあった。のちの垣屋氏の本城は、ここから約4.5km東にある日高町佐田の楽々前城ささのくまじょうだが、それより奥にあるにも関わらず鶴ヶ峰城は、楽々前城よりあとに再度改築されている。普通、城と本拠は、高い山城から城下町や田畑が形成しやすく、生活・交通の便利な平野部に移っていくのが一般的なのに、永正9年(1512)、楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移す必要があったか?その謎にせまるにはその頃に何が起きたのかである。

垣屋氏と阿瀬鉱山

垣屋氏所領の気多郡三方荘阿瀬谷から金や銀が発見された。その時期については、異説があって一定しない。垣屋氏が本拠としたのは偶然なのか、鉱山があったから本拠としたのかは分からないが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えている。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われている。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなった。

のちに、但馬守護の山名氏や家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)とされるから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになるのである。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができた。天文十一年(1542)に朝来郡代太田垣輝延の生野銀山が、天正元年(1573)に養父郡代八木豊信所領の中瀬金山のことが記録されているが、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成だんじょうみつしげだと記録の通りに考えると、百年余りの差がある。金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺(布金山隆国寺)を建立したことも考えられる。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てているが、時代の風潮であったと考えられる。

隆国寺りゅうこくじ

三男駿河守豊茂(国時)が気多郡と背中合わせの美含郡椒荘みくみぐんはじかみのしょうに竹野とどろき城を本拠とするようになったのも、これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないだろうかと容易に想像することができる。

殿屋敷と殿区

鶴ヶ峰を挟んで南の山麓にある観音寺区と反対側の北麓、阿瀬川沿いの谷に殿区がある。上記西尾孝昌氏の著書に、「観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。」

殿の殿屋敷は不明であるが、家臣団屋敷だと伝承さてれいるとある。しかし、城の麓によく残る殿屋敷という小字の殿とは城主をさすものであると考えるのが妥当だから、家臣団の屋敷を殿屋敷とは呼ばないだろう。上述の通り観音寺の字殿屋敷は江戸から明治期のものであり、観音寺側ではまずないのは、阿瀬鉱山に通じる阿瀬川は鶴ヶ峰城をはさんで観音寺の反対側であるからだ。阿瀬鉱山と鶴ヶ峰城を死守したいがために阿瀬川沿いの殿に屋敷を移したと考えるのが自然だと思うのである。

兵庫県の小字辞典』に殿と西隣りの羽尻にも小字に「越前こしまえ」がある。ふりがなは「こしまえ」だが、「えちぜん」と読めば、総領である楽々前城主は、代々垣屋越前守家といわれていたことに結びつく。殿と羽尻にまたがる広大な殿屋敷があったことを裏付けるものではないかと思うのである。また、小字に「東門とうもん」「城山しろやま」とあり、これは鶴ヶ峰城のことだろう。

鶴ヶ峰は地勢上最適な要塞

阿瀬鉱山防衛とは別に、もうひとつ考えられるのは、楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城(出石・此隅山城)をはじめ神鍋方面まで四方が見渡せるからである。

 

左から鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、Ⅱ(東城)、亀ヶ崎城(栗山城)

宿南保氏は、著書『但馬の中世史』の中で、山名時氏に従って但馬に来た垣屋氏の祖継遠が最初に落ち着いたところは、豊岡市日高町栗山にある城跡と推定している。ここは三方富士と称されている鶴ヶ峰から、東方向に順に低くなっている3つの峰の東端の峰である。垣屋氏の祖が最初に築城したのは、この連峰の第三の峰であったと筆者は推定している。この山並みを三方盆地の野に立って仰ぎ見るとき、翼を休めてそびえる鶴ヶ峰を背景に、尾根筋の端のところにこんもりと第三の峰が立ち、その穏やかな山容は、第一の峰と美しい調和を見せている。この佇まいから、鶴ヶ峰に対する亀ヶ崎の名称が思いつかれ、それが城の名前とされたのであろう。

垣屋播磨守隆国、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』) 亀ヶ崎城に移る(『因幡垣屋系図』)とするのも、鶴ヶ峰城を築城するとあるのも、同じ永正九年(1512)なのであり、第一の峰・第三の峰・第三の峰を同じ鶴ヶ峰城とみなすのか、または亀ヶ崎城は別と見るかによって違う呼び名で記したと考えればよいのだと思う。楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移すと、

宿南保氏は著書で、

因幡垣屋系図』によると、越前守続成の代に垣屋惣領家は新しく構築した鶴ヶ峰城に移り、そのあとの楽々前城(日高町佐田)には宵田城主が移ったと記されている。(中略)鶴ヶ峰城Ⅰの山麓の観音寺村域内に城主館を構築した。ここは現在「殿屋敷」という小字名となっている。鶴ヶ峰Ⅱに登城する武士たちの居館は、阿瀬渓谷側にも構築されたであろう。集落「殿村」はその名残と考えられる。

とあるが、上記の通り、(観音寺殿屋敷の)石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。 垣屋氏にとって阿瀬金銀山は絶対に死守したいはずである。阿瀬川沿いにある殿こそ、城主の臨戦体制上の殿屋敷か、阿瀬金銀山を検分する際の作業事務所的な目的も兼ねて屋敷があったのではないかと思う。

神社(村社)でみる殿と観音寺の村成立の特性

殿と観音寺のそれぞれの村の成立と神社で、殿屋敷をさらに証拠づけると、 観音寺の馬止まどめ神社(兵庫県豊岡市日高町観音寺700)は気多郡でも古く、平安期の『気多郡神社神名帳』のひとつに記載されている。元は馬工ウマタクミ神社といったが、いつしか誤って馬止マドメ神社と呼ばれるようになった。 祭神  名草彦命ナクサヒコノミコト

配祀神 市杵島命イチキシマノミコト 須佐之男命ハヤスサノオノミコト 奇稲田姫命クシイナダヒメノミコト国司文書 但馬故事記』

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオの祖・平群木免宿禰ヘグリノツクノスクネ 人皇四十代天武天皇四年(675)二月乙亥朔キノトイサク但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部クニノウチ百姓オホムタカラの能く歌う男女およびヒキ伎人ワザトを撰みて貢上タテマツれ」と。 (中略) 十二年夏四月 ミコトノリして、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオを以て、但馬国兵官ツワモノノツカサと為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(のち三方郷は馬方郷の転訛)と云う。 十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。

観音寺は古くは馬工村といい、村社馬止神社は馬工神社の誤記。南北朝期に観音寺が建立され観音寺村となり門前(町)となる。まったく中世の城下町として発展したのではないからである。

これに対して殿は、

志伎シキ神社 兵庫県豊岡市日高町殿410 主祭神 誉田別命ホンダワケノミコト(=応神天皇 別名八幡神配祀神 志伎山祇命シキヤマツミノミコト 速素盞鳴命ハヤスサノオノミコト 誉田別命八幡神のことであり、武人が好んで祀っていた祭神である。志伎という社号の「しき」は、士気のことで、八幡神を祀り、家来の士気を鼓舞したと想像するのである。中世の城は例外なく、日吉(日枝・山王)神社や八幡神社を祀るものである。配祀神の志伎山祇命は大山祇神オオヤマツミノカミのことで、すなわち鶴ヶ峰山を祀る山の神で、志伎は不明。速素盞鳴命ハヤスサノオノミコトスサノオの別名で、武神の代表として多く祀られている。

まとめ

最後にまとめるとしよう。

鶴ヶ峰城は第一の峰が鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、第二の峰が〃Ⅱ(東城)、第三の峰が亀ヶ崎(栗山)城。

垣屋氏の殿屋敷は栗山城のことで、亀ヶ崎城(栗山城)を下屋敷とすれば、殿(村)は、上屋敷的存在ではないだろうか。阿瀬鉱山にも鶴ヶ峰城にも近い場所に殿屋敷を置き、便宜上利用していたのではないだろうか。出石城と有子山城の位置関係も同様である。山頂の城は平時には使わない。

また、田ノ口には清瀧神社があり、羽尻には萬場神社がある。どちらも今は三方地区なので万場や清滝という西気・清滝地区の区名と同じ神社が村社となっていることに不思議に思ったが、古くは今の栃本へ抜ける西の下街道は田ノ口から清瀧神社を通り栃本へ抜け、羽尻から万場へ抜ける阿瀬川沿いは、垣屋氏にとって阿瀬金銀山とともに経済的かつ軍事的に重要なルートだったのである。主君山名氏や田結庄氏との対立が激しくなり、戦時体制上、楽々前城から西気谷から気多谷が見渡せる鶴ヶ峰城へ移る必要があったのではないだろうか。

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