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山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。 正法寺城は今の山王山で、今は日吉神社のみとなっている。文献に初めて登場するのは『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。 播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わない)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

しかし、拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。 この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。