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日本民族は世界最古の発明家

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日本民族は世界最古の発明家

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[catlist id=582]長い間、日本では稲作は弥生時代朝鮮半島からやってきた渡来人がもたらしたと思い込まされてきた。

『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、こう述べている。

 日本では長らく昭和24年(1949)、群馬県岩宿遺跡の発見で、旧石器時代から人々が住んでいたことが証明された。そしてこの約3万年前の地層から磨製石斧が見つかった。これまで磨製石器が登場するのは約1万年前の新石器時代からというのが定説だった。 その後、日本各地で3~4万年前の刃の部分だけが研磨された局部磨製石斧が発見されてきた。世界最古の発明といえる。また狩猟用の「落とし穴」が約2万7千年前の箱根山西麓遺跡群などから発見されているが、これも世界に類を見ない発明だった。 文明の先進性を測る尺度の一つである土器について見ると、平成十年(1998)、青森県大平山元I遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまでの世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアはもちろん、中国人が自称する偉大なる中国民族より何千年も前から日本列島の人々は土器を作っていた。世界の四大文明より数千年も早い9千5百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界の最先端を走っていた。 また木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富山県の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千5百年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであったことが確定した。そして約35cmを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺東大寺の技術的基礎はこの時代から育まれていたのである。 平成12年(2000)、北海道の垣の島B遺跡から漆器が発見された。これは朝鮮など問題外であり、中国より2千年も早い世界最古の漆器だった。 使われた漆は日本固有種であり、縄文時代の人たちはこの分野でも世界の最先端を走っていた。発明の古さと、縄文時代の行動範囲が朝鮮半島から大陸までに及ぶことから、文明の基本、土器、漆器などの技術は、日本から彼の地へと伝えられた可能性も否定出来ない。年代からして逆はありえない。 (中略) 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

ものづくりのアイデアで定評ある器用な日本人。その起源は縄文時代から日本民族にあったのだ。

日本民族のルーツに関する論議は江戸時代から行われてきた。そして明治以降、日本に招聘された欧米の学者が、考古学や人類学を持ち込むことでルーツ研究が盛んになり、この時の彼らの判断が今日まで影響している。 例えば、米国の動物学者で東京帝大教授として招聘され、大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・モースは、「本土には本土人ともアイヌ人とも違う人々・縄文人が住んでおり、彼らは今の日本人の祖先とはいえない。記紀の“国生み”“天孫降臨”“神武東征”などが、天皇の祖先が渡来し、先住民を征服したことを物語っている」と主張したという。 またモースらは、縄文土器と弥生土器を作った人々は連続していないとし、この説が大正期以降に定着した。つまり「日本人の先祖は縄文人ではなく渡来人である」なる説は、明治・大正期のお雇い外国人によってレールが敷かれたというのだ。

(中略)

縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器・土器・織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。 聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えてたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークが有り、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。 先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアミニズム的な世界観を持っていた。」(『縄文への道』NHKブックス1996)

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。 北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。 彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、稲作の盛んな江南からやってきたのではないかという説が裏付けされたのです。

また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

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