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第六章 ヒボコは日本人だった ヒボコ登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない

アメノヒボコの真相 ▼作品集

第六章 ヒボコは日本人だった

[wc_box color="danger" text_align="left"] 天日槍登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない [/wc_box]

天日槍(以下、ヒボコ)の年代については、数少ない史料からさぐるしかない。記紀をはじめ古文書は、日付を在位天皇と年で記している。古事記日本書紀が使用している干支による年代を、現代年に書き換えて天日槍が但馬にやって来たのは、いつ頃なのかを知るのに苦労していた。

天日槍が日本にやって来て帰化した時代に半島南部に新羅や国は全く存在しなかった

まず、歴史から新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。新羅は古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

まず、天日槍命が「記紀」、『但馬故事記』に登場する人皇6代孝安天皇の推定年代の半島南部を知っておきたい。

天日槍が出石で帰化したのは、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』によれば、人皇6代孝安天皇53年と記されている。『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した実際の在位年代は、西暦60~110年としている。

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ・加羅カラと任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那加羅」と併記される。加羅任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗百済新羅加羅任那が流動的に動いており、とくに加羅任那には三韓の一つの弁韓を母体とする。

天日槍命記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つに分かれていったことから「三韓」といった。

3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」 (新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

この頃の半島中南部は、伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那伽耶諸国の中の大伽耶(オオカヤ)・安羅(アラ・やすら)・多羅(タラ)など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。

任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、天日槍の頃に、半島北部は高句麗であるが、朝鮮半島南部には国と呼べる地域は成立しておらず、三世紀の頃の新羅の前の辰韓と・加羅任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、縄文時代から北部九州から南部には倭人が移り住んでいた。

倭が391年に新羅百済加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

これをみると、天日槍が出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれないので、長浜浩明氏が算定した実際の在位年代の西暦60~110年よりももっと後かも知れないが、安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても2世紀頃かその前後であろう。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号として新羅としたのもわかるが、その伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の一つ「辰韓」であった。縄文時代から半島南部から対馬壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから信ぴょう性に欠ける。(日本書紀百済百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)

伽倻・新羅建国の王は倭人

なお、アメノヒボコ新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。また、秦(中国)の秦氏ではないかという説もある。新羅王族であった昔氏は、日本(倭)の但馬地域から新羅に渡り王となったとする。

新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

日本書紀の意富加羅国とは、朝鮮半島南西部の伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)であり、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

任那伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶加耶百済や中国では伽耶(カヤ)、あるいは加羅(カラと表記されていたためだと言われ、日本(倭)では任那(ミマナ)とも表記されていました。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していましたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

出石や丹後に残る伽倻知名

出石川流域には安羅に似た安良、伽耶加羅(または加羅諸国)に似た賀陽(かや・今の加陽)やその大師山古墳群は朝鮮半島の横穴式石室古墳であり、半島南部にあった小国との関わりが指摘されているから、天日槍の年代はもっと後かも。倭人やのちに中国の史書では倭国から各地に王が誕生し、少国家が並立していったものでいずれにしても当時は多くは倭人であった。

韓国5000年の歴史の嘘

長浜浩明氏の『韓国人はどこから来たか?』

「韓国5000年の歴史」は真っ赤な嘘。前800年頃から実在したとしても2800年の歴史に過ぎないのです。

(中略)そもそも最初に半島にやって来たのは日本人(倭人)なのです。韓国人の祖国は日本、建国の地は縄文遺跡のある金海か釜山あたりにするのが普通の考えではないでしょうか。