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第六章 ヒボコは日本人だった ヒボコは日本人だった?!

[wc_box color="danger" text_align="left"]天日槍(あめのひぼこ)は日本人だった [/wc_box]

天日槍の出自と倭韓一国説

古事記応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には、「人皇六代孝安天皇53年、新羅王子天日槍命帰化す。」とあるがさらに「天日槍命は(神武天皇の父にあたる)鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ命)の御子、稲飯命五世の孫なり。鵜草葺不合命は海神豊玉命の娘、玉依姫命を娶り、五瀬命稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生み給う。」そして稲飯命と豊御食沼命は海路を紀の国へ出ようとしたところ台風に遭い、漂流して稲飯命新羅に上がり国王となりとどまられたと記している。このように新羅の皇子が帰化、または渡来したとされるが、当時の百済新羅倭国の属国であり、国王稲飯命神武天皇の父にあたる鵜草葺不合命の二番目の子であり、天日槍命はその五世孫であるから神武天皇とは同じ系統である。

国史記(新羅本紀)には、57年 4代王「脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。」(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)この多婆那国は室谷克美氏は鳥取県東部から、但馬・丹波新潟県までの日本海沿岸ではないかとする。

多婆那「タバナ」丹波「タンバ」の響きがよく似ているのだ。『国司文書 但馬故事記』には丹波は最初「タニワ」田庭で、丹波の名これに始まる。但馬も谿間(タニマ)が最初で、のちに多遅麻(タヂマ)と書し、但馬と記した。「タニワ」、「タニマ」もそっくりだし、「タンバ」「タジマ」もよく似ている。

この時代の丹波国の中心は今の丹後の京丹後市峰山町と丹後町境付近に丹波という大字があり、この付近ではないかとされている。のちの律令制後に丹波国は南部をさし、北部は丹後国、西部は但馬国の三国に分国されたのだが、多婆那国の那は奴とも書き、隋書東夷伝には「倭奴国」とあり、倭も奴も中国や朝鮮における派生的な蔑称であるので多婆国ともとれる。多婆が丹波と似ている(当時日本の文献では田庭とも記され、但馬は元は多遅麻や谿間と記され漢字に意味はなく、タニワ、タニマ、タヂマ等同じことを指すように思える。

今日の研究では未開地だった半島に縄文・弥生土器や稲作も北部九州から半島南部へ倭人が渡り伝わったようである。のちの半島から見つかった前方後円墳も日本のそれらが築造されたものより以降のものである。イギリスのかつて大英帝国として植民地があったように、百済新羅は外国というより属国である。同じ大英帝国であったインドやオーストラリアから本国に住んだからといって帰化したとは言わないだろう。

弥生時代中期の紀元前150年頃に中国の『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によ倭、倭人が登場する。1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国家というよりクニすなわち囲まれたムラ)の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。 倭人は北部九州をはじめ壱岐朝鮮半島南部やに当たる。の百済の前進である馬韓、や任那日本府加羅、安羅などのクニがあった弁韓、東部の新羅の元となる辰韓はその倭国107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

国司文書 但馬故事記』註解の著者、吾郷清彦氏も、天日槍の出自で倭韓一国説を付記しています。

国司文書 但馬故事記』(第四巻・出石郡故事記 完成:天暦五年:951)は、天日槍一族の事蹟が、ことのほか詳しいと述べている。 天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。ことに、神功皇后すなわちお息長帯姫命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。 依って今、ここに天日槍命帰化新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについていささか触れてみよう(中略) いま『日本古代史』(久米邦武)を見るに、天日槍命帰化を(第八代天皇BC214-158)孝元朝と考定し、この命が但馬および伊[者見]の主となった事由を次のごとく述べる。

「孝元帝の時は倭国大乱の最中なるに、天日槍命の但馬および伊[者見]の主となりたるは、伊[者見]県は儺県に近接し、伊[者見]津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要衝となしたれば、その接近の地を占領せしたるは、伊[者見]県に去りがたき縁由のありての帰化なるべし」(中略)

この命が但馬に定住するに至った左の一文は、記紀・ホツマおよび本巻によって肯定することができる。 「丹波主家は、息長宿祢に至って、但馬日高の娘・高貫姫を娶り、息長帯姫皇后(神功)の新羅遠征など、但馬氏・息長氏と丹波主家とは浅からぬ縁故のありて、新羅と気脈を相通するに似たり。また日本書紀に天日槍は但馬出島人太耳の娘・麻多鳥を娶り、但馬諸助を生むとある。太耳は以前よりの県主にて、天日槍を迎えたるものにあるべし」

息長帯姫(神功皇后)は天日槍の七世孫・高貫姫を御母とするので、新羅王の血が混じっていることになる。けれども、この新羅王が新羅国の祖、朴赫居世干ザツキョセカンすなわち稲飯命いないのみことの子孫と伝える記録を事実とすれば、神功皇后の血統は本来皇胤こういんであることとなる。従って、これは血族の里帰りと云うべきだろう。

よって今、ここに天日槍の帰化新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについて、触れてみよう。

天日槍は、二人の勅使である、三輪君の祖・大友主命と、倭直(やまとのあたえ)の祖・長尾市命*1の問いに対し、 「僕(やつかれ)は新羅王の子、わが祖は秋津州(本州)の王子・稲飯命(いないのみこと)。而して僕に至り五世に及ぶ。只今、秋津州に帰らんと欲して、わが国を弟の知古に譲り、この国に来たる。願わくば、一畝(うね)の田を賜りて、御国の民と為らん。」と答えた。

「私は、新羅王の子です。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・稲飯命(いないのみこと)です。そして、僕に至り五世に及びます。 ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと思い、わが国を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一畝の田を賜り、御国の民となりたいのです。」と。

(*1 長尾氏は代々出石神社の宮司(神官)家)

久米邦武は自著『国史八面歓』で、 「元来新羅は神代より出雲の兼領地で、周漢寄りの半島を韓カラと称し、筑紫(いまの北部九州)・中国・四国等の連島を倭と称したが、その頃においては、倭・韓は一国であって云々」と論じ、韓史に基づき倭韓一国説を主張する。

[註] 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。天日槍が任那加羅の王子であったことは充分考えられるが、新羅(半島東部)は新しい国家で、倭や古墳時代には縁がない事。 記紀を編纂した当時にはすでに新羅あったが、天日槍の伝承の頃には半島に国家はないのだ。ずっと以前にあった事を聞きながらまとめあげたのだから、(いまの)新羅の皇子と記したとも考えられる。

以上、『国司文書 但馬故事記』解説 吾郷清彦 、他から拙者が加筆した。

天日槍がいたクニとは、九州北部と同じく倭人の国・加羅任那であると考えている。 その理由として、

  • 辰韓新羅国)は鉄資源がない。
  • 辰韓人と弁辰人は習俗が、風俗や言語は似通っていたが、辰韓(のちの新羅)は異なっていたこと。
  • 加羅国、安羅国は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ弁韓の少国であること。

天日槍がいたクニとは、おそらく馬韓(のちの百済)の東、辰韓(のちの新羅)の南で、日本海に接し、後の任那・駕洛(伽耶)と重なる場所にあった地域である。

九州北部・対馬壱岐済州島などの島々・半島南部は縄文人から倭人が開発した地域であった。

『日本人ルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根を張り、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた。(中略) 今まで「大勢の渡来人が日本へやって来た」とされた時代、逆にかなりの日本人が半島へ進出していた。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。(中略)平成十年(1998)、青森県の太平山遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまで世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアは勿論、「偉大なる中国民族」より何千年も前から、日本列島の人々は土器を作っていた。世界四大文明より数千年も早い9千6百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界最先端であり、世界最古の文明は日本列島だったのだ。縄文晩期の水田稲作や尺で図った精巧な木組みの高床式建築の遺構が多く見つかり、技術力はその頃から巧みであったのだ。

かつて学校で、「弥生時代に大量に渡来人がやって来て弥生土器と水田稲作を伝えた」と習った人もいるであろう。縄文人はお酒(山葡萄酒)もたしなんでいた痕跡も見つかり、コメ以外に麦・粟・稗・豆の五穀も栽培し栗の木を植え栃の実からもちを作り食べていた。また野山の果実や山菜、海の幸はアサリ、ハマグリ、サザエから魚介類は取り放題。そういう意味では現代人よりグルメだった。

弥生人は渡来人だとの固定観念に縛られた考古学者などの執筆者の固定概念が新しい発見により違っていたことが分かってきたのだ。日本は半島や中国からやって来た人が稲作や文化を教えられたなどでは自虐的な教科書がなら日本史が楽しいはずがない。

また、弥生時代の稲作は朝鮮半島ではなく、中国大陸の江南(長江以南)から日本列島及び半島南部にもたらされたとされたという説も根強い。しかし、大陸からわたって来た人は年に2、3家族程度だったようである。今の日本の方が中国永住者は圧倒的な数だ。

半島南部に稲作が伝播したのはおそらく縄文人弥生人であり、また日韓併合により全土に稲作を広めたのは植林・農地改革によるものである。

倭(日本)人と朝鮮半島の人とくに女性のDNAに同じD系統を持つ人がいるのは、元々倭人の子孫だからであり、日本人のルーツが半島にあるのではなく、逆で半島が倭人のDNAが混在しているからなのである。

INDEX
第一章 神話の中のアメノヒボコ [catlist id=603] 第二章 天日槍の足取りと神社 [catlist id=604] 第三章 ヒボコは鉄に無関係だった [catlist id=605] 第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか [catlist id=608] 第五章 但馬国朝鮮半島南部への出兵基地だった?! [catlist id=607] 第六章 ヒボコは日本人だった [catlist id=606]
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